りい@毒親と絶縁計画進行中
・アダルトチルドレンだと気付いた話 ・毒親との話 ・自傷行為の話 ・風俗の話 etc... 昔話をまとめたものです。
毒親(実母)との絶縁について。 きっかけ〜完了、その後などの記録を随時更新していきます。
たまに見るリアルな夢を書いたもの。ずっと記憶に残っている夢たち。
前回に続いて、今回は計画編。 私は二十数年間、母として存在した人間と縁を切ろうとしている。 この記事を書いている現在、計画進行中だ。 今回は計画と、その簡単な説明を添える形で進めていく。 ○毒親との連絡を遮断(電話番号、メール、LINE等) ○逃亡先(引っ越しや寮付きの仕事)の確保 ○お金の用意 ○住民票や戸籍の附表(ふひょう)の閲覧制限をかける ○毒親に繋がる全ての関係(毒親以外の身内や知人関係)を遮断 ○絶縁状の送付 ○全てを完了、後に問題がなければ絶縁完了
最後に更新したのが八月の最終日なので、あれから二ヶ月が経つ。 ネット回線が敷かれるまで、こんなに時間が空いてしまった。回線は早いのに工事までが極端に遅いと噂には聞いていたけれど、これ程までとは思わなかった。まぁそんなことは良い。 時間の流れは、私の気持ちも少しずつ変化させていった。今日はこの空いてしまった二ヶ月の間に起きたことや感情の変化について、久々の文章制作のリハビリがてらお話ししたいと思う。 一番大きく変化したこと。それは睡眠の質がぐっと落ちたことだ。
この記事は、逃亡先の確保・メンタル編である。 上の記事で紹介した通り、私はパートナーと共に引越しをした。 記事を書き終えた当時、引越しは決まっていたものの実際に引越して新しい土地に住んでいたわけではなかったので、今回は引越し前から十日目までのメンタルの浮き沈みについて書いていく。 全ての人たちに当てはまるものではないと思うけれど、メンタル面での浮き沈みにはある程度覚悟を持った方が良いと思う。特に、毒親を嫌いになりきれていない方。 結論から言うと、三日目までは
私は二十数年間、母として存在した人間と縁を切ろうとしている。 今回は、逃亡先(引越しや寮付きの仕事)の確保について。 ネットで検索して様々な人の意見に目を通した時、「引っ越して住所を教えない」という方法を見つけた。初めは、え。そんなことして良いの?できるの?と驚いた。 私の母は、私の現住所を知っているし一度だけ来たこともある。鍵も渡してある。連絡はそこまで頻繁ではないけれど、いつどのタイミングで「関係の改善をしよう」とこちらに来るか分からない。 母が今まで悪
たまに夢を見て起きると、泣いていたりまるで夢の中が現実の世界だったかのような錯覚に陥ったりすることがある。 今日はそんなたまに見るリアルな夢の話。第二弾。 その夢の世界の中の私は小学校低学年くらいの男の子だった。戦時中、もしくはその前後のような感じ。かなり昔だったようなぼんやりとした感覚だけ。 白いタンクトップに短パン、虫取り網と虫かごを持って、仲の良い友達と田舎道を走っていた。 友達は、ワイシャツにハーフパンツ姿のいわゆるお坊ちゃんのような姿。多分お金持ち
個別に記事にするほどの出来事ではないけれど、ふと思い出して書くことにした。簡単に言えば性犯罪の被害に遭ったよっていうお話だ。 小学生の頃に住んでいた家は、川と畑と住宅地に囲まれた坂道のてっぺんにあるマンションだった。 ある時配られた防犯マップという、不審者情報の多い道や人通りの少ない道などの載った簡易的な地図を見て驚愕した。小学校から私の家まで、どのルートを選んでも安全な道がなかった。 先生に「私、全部の道に不審者マークと人通り少ないマークがあります」と言ってし
卒業式、入学式、成人式。生きていれば節目のお祝いという行事はつきものだ。 一番はじめに印象に残っているのは、小学校の卒業式。 みんな、近所の中学に通うことが決まっていて、連絡を取り合えばすぐに会える距離だというのに「悲しい」「寂しい」と泣いていて、私には理解できなかった。 泣く同級生を慰めながら、全く泣く気配のない自分に「アンタは冷たいね」と言った母の言葉が頭を過っていた。 次に中学校の卒業式と、高校の卒業式。 今度こそバラバラの進学で、周りの子とは会
今回から、計画ひとつひとつに焦点を当てて実行した際の出来事や感情、結果についてまとまていく。 私は二十数年間、母として存在した人間と縁を切ろうとしている。 今回は、毒親との連絡を遮断(電話番号、メール、LINE等)について。 計画編でも簡単に触れた通り、私の親はしょっちゅ連絡を寄越す人ではない。 現在実家から離れて、パートナーと二人暮らしをしている。 絶縁しようと思ったきっかけは、こちら。 まず、絶対にバレずに絶縁するなら毒親の連絡遮断はなるべく後回し
たまに夢を見て起きると、泣いていたりまるで夢の中が現実の世界だったかのような錯覚に陥ったりすることがある。 今日はそんなたまに見るリアルな夢の話。 その夢の中での私は、まだ幼くて三歳くらいの男の子だった。いつもお兄ちゃんと呼ぶ男の子に引っ付いて居て、そのお兄ちゃんが大好きだった。多分兄弟だったんだと思う。 私たちは空の保育園にいた。 そこは、生まれる前の子ども達が集まるところ。現実の保育園とそう変わらない室内で、遊んだりお昼寝したりして過ごす。 私はお兄
生きづらさは、小学生くらいの頃から抱えていたと思う。 まず友達との関係性というものにぶち当たった。 省かれたり突然無視されたり、学校へ行くのが億劫だった。 私に原因があるんだろうと考えても、何が原因か自分で見つけ出せなかった。今でもよく分かっていない。 当時は学校には必ず行かないといけないという認識が強かったのと、いじめという概念がなかったので誰にも相談することなく過ごしていた。 そして家庭環境の崩壊。 今までも仲の良い家庭ではない意識はあったけれど、「少し
少し前まで、泣くということはしてはいけないことだという認識で生きていた。 「泣く子はウチの子じゃない」「泣くなら出て行け」「泣くな」「うるさい」 小さい頃から泣くことを否定され続けていたから、泣くということが悪いことだとずっと思っていた。泣くということは、捨てられてしまうということだ。 かと思えば、「泣かないなんて冷たい」と言う時もある。けれど、泣けと言われるより泣くなと言われることの方が多かった。 母に怒られて泣いてしまえば最期。家から追い出される。泣きた
私は二十数年間、母として存在した人間と縁を切ろうとしている。 この記事を書いている現在、計画進行中だ。 今回は、毒親と絶縁計画〜きっかけ編〜である。 生い立ちやらなんやらは他の記事で書いているので省略。(気になる方は下からどうぞ) 簡潔に言えば、好きな人を毒親に会わせたくないという気持ちがきっかけだ。 好きな人が出来て結婚を意識するようになったら、両親に紹介することは当たり前の文化である。 私の場合、新型コロナウィルスの影響による緊急事態宣言の真っ只中
就職が決まってすぐ、その職業を鼻で笑われたことがある。 仕事に稼げる稼げないはあっても、偉い偉くないという価値観は間違っていると思うんだ。 大学の卒業式の日である。 正直、ここでも話している通り私の大学生活は卒業するまでの過程が本当に大変で苦しいことばかりだったから、「私は卒業式に出ない」というのをご褒美として卒業へ進んでいた。 だけど母の振袖選びなさいねの言葉で、そうですよねとあっさりご褒美を諦めるということになった。 そして式に出席している間、私はな
#名前の由来 というタグを見て、自分の名前について考えた。 「誰からも愛され、自分も誰かを愛せるような人になりますように」「白い小さなお花のような可愛らしい女の子になりますように」 私の名前はこの願いと共に与えられた。 小さい頃、私は自身の名前を大変気に入っていた。漢字を見ても華やかで、口に出してみても丸くて棘の無い名前。由来も含めて大好きだった。 どうでも良いが、父は私に初恋の相手の名前を付けようとしたと聞いた。 それを話す母は「有り得ないよね」と少し
以前、 で、「(実は後にばったり出くわすことになるんだけど。それはまたの機会に)」と父について綴った話を詳しく書いていこうと思う。 私の両親は、私が一歳半の頃に離婚した。以来、一人暮らしをするまで母に引き取られて育てられてきた。 母からは、「たった一人の父親だから、会いたい時に会っていいんだよ」と言われていて、定期的に父に会わせてもらっていた。電話でやり取りをして、約束を取り付ける。夏休みと冬休み、年に二回、数日間を父の家で過ごし、たまに何かのタイミングで外食へ
実家から逃れる形で一人暮らしが始まった。社会人一年目である。 母から解放された私は自由になった。 好きな時に何でもできる。制限やルールがない。最高だった。 よく一人暮らしを始めて親の有り難みが分かると言うけれど、全くもって分からなかったし、ホームシックなんてものとも無縁だった。あの息苦しい世界から出られたことが何よりも幸せで、洗濯や掃除が楽しくて仕方なかった。 仕事も楽しかった。幼い頃から人の目を気にするという特技のおかげで、相手の小さな変化に気づける。体調が悪