泣く=罪という意識の話。

 少し前まで、泣くということはしてはいけないことだという認識で生きていた。

 「泣く子はウチの子じゃない」「泣くなら出て行け」「泣くな」「うるさい」

 小さい頃から泣くことを否定され続けていたから、泣くということが悪いことだとずっと思っていた。泣くということは、捨てられてしまうということだ。

 かと思えば、「泣かないなんて冷たい」と言う時もある。けれど、泣けと言われるより泣くなと言われることの方が多かった。

 母に怒られて泣いてしまえば最期。家から追い出される。泣きたくないという気持ちとは裏腹に目から涙が溢れるたびに、必死に堪えようとしていた。

 母に見つからないところで泣いてしまう時も、私は極力堪えるように努めた。

 トイレやお風呂、布団の中でも必死に堪えて生きてきた。

 そのうち暗黙のルールが出来た。泣く時は、少しずつ少しずつ涙を零すこと。しくしくの手前、コントロールの出来る範囲内で涙をちょっとずつ出すこと。一粒零し切ってから、次の涙を零すこと。こうすることで万が一話しかけられて反応せざるを得ない時に、泣いていたことを悟られない。人前で泣くことは禁忌である。

 泣くという感情を抑圧した結果どうなるか。

 私の場合、笑顔という手段でそれを発散し始めた。面白くも楽しくもないのに、へらへら笑ってしまう。辛いのに口角を上げてしまう。嫌だと言いながら、困ったような顔で微笑んでしまう。

 みんなから「何考えているか分からない」と言われ、「不思議ちゃん」と言われた。そのうち「八方美人」だとも言われるようになった。

 大人になるにつれて、泣くことを周りが許してくれるようになった。泣くことは悪いことじゃないんだよ。泣いても良いんだよ。

 嘘だ、と拒む自分。本当?と疑う自分。泣くということで何かが壊れるのを恐れながら、だけど少しずつ自分に泣くことを許可するようになった。

 まずは映画や本から。一人でその世界観に浸って、コントロールできないところまで泣いてみた。声を上げて泣いたのはいつ振りだろう。辛い、苦しい、悲しい、文字にしてみるといつも感じる感情と同じようだけど、実際はもっと別の辛い、苦しい、悲しいが広がった。

 そして、爽快感。ぶくぶくに膨れ上がった瞼を見て、醜い姿だなと思いながら、心はいつもより軽いような気がした。

 それから少しずつ人の前でも泣けるようになってきた。とは言え、きちんと話せるくらいまでコントロールするようにしている。

 だけど相変わらずいけないことじゃないのかという考えが離れない。それでも誰かの前で泣いた時、「泣くな」という否定を投げつけられないのだから、いけないことではないのだろう。

 一度、仕事中に大きなミスをして叱られた時、コントロールのさじ加減を間違えて涙が止まらなくなってしまったことがある。

 すみません、すら言えずにぺこぺこと頭を下げ続ける私に、叱った上司は「裏で休んでおいで」と優しく言った。そして、「りいさんは責任感が強いんだね。これからも負けずに頑張ろうね」と私を鼓舞した。

  そして涙が止まって仕事に戻ると、「大丈夫?」「気にしないで」「ひどい顔だなぁ」と色々な言葉が私を包んでくれた。遠くから優しく笑顔でうんうんと頷いてくれる人もいた。どれも予想外だった。

  感情のコントロールは難しくて、今でも自分が何を感じているのか分からなくなる。悲しいはずなのに、どこか他人事のような感じ。嬉しいはずなのに、私には不釣り合いだとどぎまぎしてしまう感じ。喜怒哀楽を解放する扉は、ずっと建て付けが悪いままだ。

 泣く=罪

 この方程式を完全に誤りだと認識するまでは、まだまだ時間が掛かりそう。

 

  ※涙のイラストは、あーるさんから拝借いたしました。ありがとうございます。 

  

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