東浩紀 『訂正する力』 : 北村紗衣という「訂正無能力者」
昨年よく売れ、「2024 新書大賞」の第2位にも選ばれた本だが、その段階では、私はあまり興味を持ってはいなかった。「訂正するって、何を訂正するというんだろう?」と、そんな感じだったのだ。
ところが、ある人物との遭遇によって、にわかにこの本のタイトルを想起させられることになった。
その人物とは誰あろう、「武蔵大学の教授」である、北村紗衣である。一一北村紗衣は、絶対に「訂正も反省もしない人」だったのだ。
ブロガーの須藤にわか氏が、北村紗衣による「映画論」を批判した、note記事、
・「北村紗衣というインフルエンサーの人がアメリカン・ニューシネマについてメチャクチャなことを書いていたのでそのウソを暴くためのニューシネマとはなんじゃろな解説記事」
のコメント欄に、私がこの記事を支持するコメントを寄せたところ、その記事で批判されていた北村紗衣が、私のコメントにまで何癖をつけ、「管理者通報」したという旨のコメントを書き込んできた。
一一これが、私と北村紗衣の、ファースト・コンタクトである。
私がこのコメント欄に書き込んだコメントの全文は、本稿の末尾に収録しておいたが、ここでは、直接に関係する部分だけを、先に紹介しておこう。
このコメントについて、北村紗衣は、須藤氏への反論と併せて、次のように「通告」してきたのだ。
つまり、私が、北村の著書を「批評」してやろうかなという趣旨で書いた、文末の部分、
だけを、
という具合に「切り取り・改変」し、まるで私が「器物損壊の予告」による「脅迫」でもしたかのように偽装して、「note」の管理者に対し、「誣告」したのである。
そしてさらには、私がこの「ペテン」を何度指摘し批判しても、北村紗衣はいまだに、この事実については、頬被りをして沈黙したままなのだ。
一一これが「武蔵大学で、イギリスの文学や文化を講じている大学教授」のすることだろうか?
現に今も、北村紗衣教授に学ぶ学生が、何十人だか何百人だか、武蔵大学にはいるというのだから、これは「教育の悲劇(教育被害)」ではないのか。
しかし、北村紗衣からクレームを受けた須藤にわか氏は、コメントの書き込まれた「note」の元記事を書き換えて、新たな記事、
・シェイクスピア研究者の北村紗衣さんがアメリカン・ニューシネマについて俺の個人的なニューシネマ観とはかなり違うことを書いていたのでそれを説明しつつニューシネマのいろんな映画を紹介する記事〔改訂版〕
に差し替えてしまった。
そのため、結果として、元記事コメント欄のコメントが、北村紗衣の望んだとおりに「抹殺」される事態となってしまったのである。
そこで私は、こうした「言論ではなく強権で」という「北村紗衣的なやり方」を批判すべく、この段階までの事情を詳しく紹介した「note」記事「北村紗衣という人:「男みたいな女」と言う場合の「女」とは、 フェミニズムが言うところの「女」なのか?」(以下「北村紗衣という人」と略記)を書いた。
そして、その記事の中で私は、未読だった本書『訂正する力』に触れたのだ。
「あの本は、こうしたことを想定して、警告を発していたのではないか」と。
ところが、この「note」記事「北村紗衣という人」までが、北村の「管理者通報」によって「削除」されてしまったのだ。
(※ 後で判明することになるが、正確には、「削除」ではなく、北村紗衣からの苦情の申し立てにより、管理者が「閲覧の一時停止」措置を採っていた。これに対して私は不服申し立てをしているが、今のところ回答がなく、閲覧不能のままである。
こうした事情は、下の記事に記した)
そんなわけで、現在もまだ進行中である、この「北村紗衣問題」のその本質とは、前述のとおり、北村紗衣の「言論ではなく強権で」という、ところにある。
要は、「自分が正しいと思えば、他人の誤りを正すのに、手段を選ぶ必要はない」という、「言論否定の思想」の持ち主なのである。
こうした考え方、どこがどう問題なのかと言えば、要は「自身の今の正義を絶対化しており、自身の誤認や過誤の可能性をまったく考慮せず、認めもしない」という点にある。
人間誰しも、その時の「自分の考え」を「正しい」と思い込みがちなのだが、しかし、それが必ずしもそうではないというくらいのことは、中学生にもなれば、わかる話でしかない。
だからこそ、「意見対立」が発生すれば、どちらが正しいのかを、「話し合い」によって相互検証することで、より正しい道を選ぼうとする、というのが、「言論」や「話し合い」といった、人類が営々として築きあげてきた「民主的な手続き」であり、「強権的な暴力を避けるための智慧」である。
では、なぜこのような「面倒な手続き」が必要なのかといえば、それは、本書で東浩紀がいうところの、「訂正する力」を担保するためなのだ。
独善的な「正義」を振り翳し、問答無用で「反対意見」を「抹殺」してしまうようなやり方では、あとでその誤認や過誤に気づいたとしても、その時にはすでに、「訂正」が利かなくなっているからである。
だからこそ事前に、しっかりと話し合うことで、その「正義」と思い込まれている判断が、果たして本当にそれほどのものなのかということを、検討検証する。
その「独善としての正義」に孕まれていた「誤り」や「偏向」を修正して、「よりマシな正義」の実現を目指すのだ。
こうした「話し合いによる、〈正義〉の検討検証」は、その「話し合いの記録」によって、後々までも「再検討」を可能にする。
「記録(ログ)」さえ採っておれば、
「あの時は、みんなで話し合って、これが最善だとそう結論したけれど、今となっては、あの時のみんなの判断は誤っていた」
と、後になって「反省」し、完全な「被害回復」は不可能だとしても、その時点での可能な範囲において、最善の「訂正」がなされ、多少なりとも「被害の回復」がなされるだろうし、少なくとも「同じ過ちはすまい」という「反省・教訓」を得ることもできるはずだ。
また、そんな実例として、少なからず実在する「冤罪と再審」というものを、私たちは知っているはずなのだ。
ところが「北村紗衣のやり方」は、こうした「言論による手続き」を、いっさい拒否して、自身に不都合なものを「抹殺」しようとする、悪質なものであった。
それはちょうど、ナチスドイツが、ユダヤ人を灰にまで還元して、証拠の残らないようにしようとしたのと、まったく同じ「やり口」である。
「証拠」が残らなければ、後で「検証」されることもない。
「過去の事実」で批判されることもないから、自分たちが力を持っている「現在(いま)」のうちに、不都合な事実は、完全に「抹殺」するのが、最も好都合なやり方だ、という考え方だ。
敗戦直後の日本でも、軍が書類を焼却して証拠隠滅し責任回避を図ったとか、「森友学園」事件では、財務省が文書を改竄したり廃棄したりして証拠隠滅したなどという話と、まったく同質のものである。
当然、「大学教授」にだって、そのくらいのことをする者は、当たり前に実在するのである。
実際、北村紗衣は、私の発言(コメント)を、「切り取り・改変」して「管理者通報」した。そのログを私が録っていなかったなら、事実関係は闇に葬られていたであろう。
だが、北村紗衣は、これほどまでのことをやっておきながら、今に至るも、私に対して直接、批判の言葉を発してはいないのである。つまり「告げ口」「陰口」はしても、「批判」したことは、一度として無いというのが、この「武蔵大教授」の現実なのだ。
これで、今も「教育者でござい」と、ぬけぬけと名乗っているのである。
自分の「見解」が「正しい」と思うのであれば、そして、自身が著作を持つ大学教授であり「言論人」の端くれであるという自覚が少しでもあるのであれば、北村紗衣は、こんな卑怯千万な「やり方」を、選びはしなかったはずだ。
「正々堂々」と、真正面から私を批判し、私を論破して、「自身の言い分の正しさ」を、天下に示して見せたことだろう。
だが、実際には、北村紗衣は、そうした「言論人としての正道」は決して選ばず、私のコメントを「切り取り・改変」して「管理者通報」するという、姑息なやり方を選んだ。
事情を詳しくは知らない、詳しく調べる暇を十分には持たないであろう「管理者」に対し、そうした事情にまでつけ込んで、意図的な「誣告」を行ったのである。
要は、私を罠に嵌め、自身に不都合な証拠を隠滅しようとしたのだ。
ナチスドイツが、自覚的に「証拠隠滅の犯罪」を犯したように、「武蔵大学教授である北村紗衣」もまた、自身に向けられた「批判」を「抹殺」することで、批判に値する事実など「無かったこと」にしようとした。
「誣告」による「問答無用の強権発動」によって、そうした「証拠隠滅」を、現に画策・実行したのが、「武蔵大学教授の北村紗衣」その人だったのである。
○ ○ ○
本書『訂正する力』を読んでみると、私の内容予想が、大筋で当たっているのを確認することができた。
今も「削除」状態にある記事「北村紗衣という人」の中で、私は本書『訂正する力』に言及して、この本が「北村紗衣問題」にも通づる内容であるはずだとし、そうした読みの根拠の一つとして、下のような、Amazonの同書紹介文ページに紹介されていた、同書の「はじめに」の一文を、孫引きして示していた。
つまり、北村紗衣がそうであるように、自分に不都合な意見に対しては、「言論」において解決・決着を図ろうとするのではなく、「問答無用の抹殺」を図ろうとするような、「暴力的な傾向」を持った「キャンセル・カルチャー」と呼ばれるものが、すでに広がりを見せているのだ。
東浩紀がここで『とくにネットではこの傾向が顕著です。』と指摘してのは、まさにそのことだったのである。
実際、本書を読んでみれば、次のような部分が散見できる。
ここで『このひとは正しくない発言をした、だからみんなで批判しよう、仕事を奪おうというもの』とされるのは、まさに北村紗衣が、その論敵となった呉座勇一や山内雁琳に対して、スラップ裁判によってやったこと、そのものである。
特に、山内の場合は、事実として、数百万円の賠償金をとられただけではなく、「職まで失った」のだ。北村紗衣から、「死ね」と言われたも同然の目に遭わされたのである。
・北村紗衣は呉座勇一に「奴隷契約」をさせたと思ってるのか?和解と公序良俗違反
上に引用した部分で東浩紀が、「ポリティカル・コレクトネス(PC)」「ジェンダー」とまで書きながら、「フェミニズム」という言葉を出さなかったのは、たぶん、意識的なものであろう。
要は、「フェミニズム(フェミニスト)」とひとくちに言っても、ピンからキリまでがあって、その「キリ」の部類である、いわゆる「ツイフェミ」を呼ばれている「北村紗衣とその取り巻き」のような人たちまでを「フェミニスト」と呼んだのでは、多くの真っ当な「フェミニスト」に対して失礼だと、そのような配慮から、読者に誤解を与えぬよう、あえて「フェミニスト」という言葉を避けたのではないだろうか。
しかし、ここで問題とすべきなのは、「ポリティカル・コレクトネス(PC)」だ「フェミニズム」だといったことではなく、そうした思想運動の理論の一部を「切り取り」、それを「絶対正義の美旗」として悪用することで、自分の気に入らない存在を「問答無用で抹殺」することを、喜んでやる人たちが出てきたという、恐るべき事実である。
しかしながら、世間の多くは、こうした「反言論的で暴力的な人たち」の掲げる、借り物の「錦の御旗」である「ポリティカル・コレクトネス(PC)」や「フェミニズム」などの「建前だけの言説」に騙されがちであり、残念ながらそれが、偽らざる現実である。
「本音」を隠し、「建前の綺麗事」を並べる「偽PC」や「偽フェミニスト」について、それに対抗する立場の人たちの意見にまで耳を傾け、それで判断できれば良いのだが、多くの人は、そんな「面倒な議論」には、普通はついていけない。
そのため、「建前」として掲げられている主張の「額面」だけを見て、「正しいことを言っているように思えるけどなあ」と、そんなことをボンヤリと考えるのが、せいぜいのところなのだ。
ましてや、「偽PC」や「偽フェミニスト」に対抗する人たちの意見が、「抹殺」され「証拠隠滅」されてしまっては、誰人であれ、後でゆっくりと、時間をかけて「検証する」ということさえも、不可能になる。
一一テレビの「刑事ドラマ」などでもよくあるとおりで、「死体のない殺人事件」は、捜査も問議もされることはなく、そのために「完全犯罪」になってしまうのである。
しかし、だからこそ私たちには、「誤りを改める力」としての「訂正する力」が是非とも必要なのだ。それは、単に「個人」の問題ではなく、社会的に担保されなければならないものなのだ。
いくら個人的に「反省して、訂正する」気持ちや力があったとしても、その材料である「記録」や「証拠物件」が残されていなければ、それは「存在しないもの」なのだから、「反省」や「訂正」の対象にしたくても、することができないからである。
だから私たちは、そうした「完全犯罪」をもくろむ者たちが、「ポリティカル・コレクトネス(PC)」や「フェミニズム」を装い、その「仮面」をかぶって、現に存在し、活動しているのだという現実を、深く銘記しなければならない。そしてその上で、「仮面」に騙されない「知性の目」を持たなければならない。
「誰が言論を求め、誰が問答無用の抹殺を求めているのか」を、よくよく見定めなければならないのである。
たしかに「議論」は面倒くさい。また議論とは、「する」のが面倒なばかりでなく、それを聞いて、それを公平に判断しようとするだけでも、決して容易なことではない。
「3歩歩くと忘れる、鳥頭」ではないけれど、「140字以上は、書けない読めない考えられないという、X脳」では、「検討・検証」などということは、およそ不可能なのだ。
そのために、「魔女狩り」のごとく、「権威者」が誰かを指し示して「こいつは魔女だ。抹殺しろ!」と言ってくれるのなら、こんなに楽なことはないということに、少なくとも「X」(※ 旧「Twitter」)界隈では、すでになってしまっている。
だが、人は必ず「間違う」のである。一一だから「訂正可能性」を担保しておかなくてはならない。
原子爆弾が落とされ、すべてが焼き払われてからでは、もはや「訂正」はきかないのだ。
ここに書かれているのは、まさに北村紗衣その人のことなのだが、しかしなぜ、北村は、「議論」ではなく「抹殺」を選ぼうとするのだろうか?
無論それは、自身に「やましいところがある」からである。
「残しておきたくない証拠」があるから、なのだ。
だから、「嘘」をついてでも、不都合な言説の「抹殺」を試み、「証拠隠滅」することで、未来永劫、「訂正」も「反省」もしないで済むようにしようとする。「証拠隠滅」することで、自分の「地位や名誉」を守ろうとするのだ。
しかし、それは所詮「不可能」だ。
なぜなら、ナチスが試みて失敗したように、完全な「証拠隠滅」など、できることではないからである。
今はまだ、そうした「証拠」の存在に注目する人が少ないかも知れない。
なぜならば、今の北村紗衣は、「武蔵大学のタレント教授」であり「人気者」だからだ(テレビラジオにも出演し、大学側もこれを広報している)。
だが、彼女が、50歳になり60歳になっても、今のままの「人気者」でいられるものだろうか?
例えば、その年になっても、まだ「さえぼう」などと、自称していられるものだろうか?
もちろん、そう名乗るのは、北村紗衣の勝手であり自由なのだが、その「名」が印象させるような魅力を、本体の方が保ち続けられるのか、ということだ。
芸能界では周知の「絶対権威であり、絶対タブー」であったはずの「ジャニー喜多川」のような存在さえ、一夜にしてその権威を失墜させたというのに、たかだか「タレント教授」の人気が、そうも長く続くものであろうか?
しかし、その権威が失われ、人々が「ところで、あの問題は、実際のところどうだったんだろう?」と言い出した頃には、すでにそうした「歴史の検証」に対する「抑え」は利かなくなっており、その時にこそ「まつろわぬ民の怨霊」が、ここぞとばかりに噴き出すことにもなろう。
しかし、そうなってから後悔しても、もう遅い。その時にはすでに「訂正」は許されなくなっているのだ。
だから、「目先の利益」に捉われるのではなく、人は正々堂々と生きなければならない。
仮に、今が良くても、後ろ指を指される「晩年」になれば、必ず後悔することになるはずだ。
そしてこれは、「現実」から目を背けて、「教祖さまの手先」となり、「ファンネル・オフェンス」として狂奔する、愚かな信者たちとて同じことなのだ。
後で「どうして、あんなものを守るために、私は自分の手まで汚してしまったのであろう」と、「オウム真理教」元信者のように後悔しても、すべては後の祭り。
彼らは、「戦後」になっても、モサドによって世界の果てまで追われ続けた、「ナチスの戦犯」と同様の憂き目を見ることになるだろう。「匿名」だけで逃げ切れるほど、世間は甘くはないのである。
こうした「少し先の現実を見る目」があれば、おのずと人は、自分が誤る可能性を認める力であるところの「訂正する力」を重視するだろう。
そしてそれは、面倒でも「フェアな手続き」を選ぶ力のことだと、理解もされよう。
人は、間違うものなのだ。
だが、それにもかかわらず「間違わないふりをするという間違い」は、自らの行いを「訂正不能なもの」にしてしまう。
たから私たちは、「裁かれる可能性」としての「訂正可能性」に、いつでも開かれていなければならないのである。
○ ○ ○
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【付録】削除された「コメント欄」ログの再再録
北村紗衣による管理者通報を受けて、須藤にわか氏が当該記事、
・「北村紗衣というインフルエンサーの人がアメリカン・ニューシネマについてメチャクチャなことを書いていたのでそのウソを暴くためのニューシネマとはなんじゃろな解説記事」
の「改訂版」を新たに作成し、それに差し替えたために、実質的に「削除」されてしまった「コメント欄ログ」の、これは再再録である。
このログの中に「管理者通報」に値するような、私の意見や言葉があるかどうかを、ぜひとも確認してほしい。
そして、北村紗衣が、私の言葉をいかに「切り取り・改変」して「管理者通報」をしたかを見てほしい。これが、陰湿な「謀略」でなくて、何であろうか。
なお、直接関係者である、私・年間読者人、北村紗衣、須藤にわかの3人、以外のコメントは、以下には収録しなかった。
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(N-01)年間読書人
2024年8月25日 04:14
はじめまして。とても面白く読ませていただきました。
この北村紗衣っていう大学の先生、端的に言って馬鹿ですね。もちろん、学力が低いという意味ではなく、知的な謙虚さが無い、という意味です。
専門家の基本というのは、知らないことには謙虚である、ということです。
普通、専門家というのは、専門以外のことには、あまり口出しをしません。なぜなら、なんでも知っている人などいない以上、専門家というのは、専門外のことについては、ヘタにすると素人よりもさらに無知ってことも当たり前にあって、そんなことにヘタに口出しすると、ボロを出してしまい、本業(専門)に関しての信頼性まで損ないかねないからです。
だから、専門以外のことに口出しするときには、そのことについては「素人ですが」と断って(謙って)、その上で率直な意見を言うようにする、くらいのことは、自己防衛のためにも、当然するものです。
なのに、この人は、その程度のことも出来ていないというのは、「自分は知識などなくても、何でもそれなりに適切に判断できる、本質的知性を持っている」なんて、思い上がっているからです。その「勘違い」ぷりが、馬鹿だと言うのです。
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(N-02)年間読書人
2024年8月25日 05:11
また、こういう人が、フェミニストづらするから、無用に反フェミを増やしてもしまう。存在が傍迷惑という意味で、困った人だと思います。
私も、ここ2年ほど前から、映画を意識して見るようになった、映画の初心者ですが、この北村さんみたいに、頭の悪いことは書きません。
と言うか、私は、こういう遠慮のない書き方をする人間ですから、あんな「穴だらけ」なことを書いてたら、袋叩きにされるのは目に見えているからです。だから、その点では、実は慎重なので、よくレビューを書く場合に「この作家の本は初めて読むが」とか、そういう前フリをして、知ったかぶりはしません。あくまでも、現在の自分の立ち位置はこういうものだと示しておくのです。
その上で、その作家なり映画監督なりのWikipediaくらいは参照しますし、他の人の評価なんかも参照します。私とは評価の違う意見には、反論できるくらいのことは、レビューを書く前に考えておくわけですね。
それでこそ、自分の意見を書く意味もあるわけですし。
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(N-03)年間読書人
2024年8月25日 05:12
で、この北村さんに驚かされるのは、「アメリカン・ニューシネマ」について、Wikipediaすら参照せずに、知ったかぶりを語っている点です。しかもこの人、Wikipediaの運営にも関わってるとか。
Wikipediaが全面的に信用できるものだもは思いませんが、まったくの素人にとっては、基礎的な参考情報にならなるというのは確かなのに、どうして覗きもしなかったのか?
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(N-04)年間読書人
2024年8月25日 05:13
Wikipediaを見ていれば、「アメリカン・ニューシネマ」が、主として「ベトナム戦争」を背景とした、当時のアメリカ社会の閉塞感から来ているというのは、すぐにわかることですが、それにも気づいていない様子。
というのも、仮に「暴力やセックス」が前面に出る作品が多かったとしても、それは、それらを、肯定しているとはかぎらないからです。つまり、「暴力や(行きすぎた)セックス」描写とは、それに象徴されるものを否定するためにこそ、露悪的に描くことだって、当たり前にあるからです。
つまり、「暴力やセックス」描写があったとしても、その方向性は真逆である作品などいくらでもあるのに、それを十羽ひと絡げに語ることなどできないのは、わかりきった話です。なのにそれを、この北村さんは平気な顔をしてやっているから、心底呆れてしまう。
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(N-05)年間読書人
2024年8月25日 05:13
それに「アメリカン・ニューシネマ」という言葉の指す範囲が曖昧であり、厳密な定義など無い、というくらいのことは、常識で考えてもわかること。
ならば、「アメリカン・ニューシネマは、こういうものだ」というような断定的な言い方、ましてや否定的な言い方に慎重になるのは、馬鹿でなければ当然するはずの配慮です。
例えば「もちろん例外もあるが、一般的には、これこれといった特徴を持つ作品の指されることが多い」というような書き方をするはずなんですが、それが出来ていない。
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(N-06)年間読書人
2024年8月25日 05:13
これは貴兄も勘違いされているようですが、「ヌーヴェルヴァーグ」だって、厳密な定義なんてありません。
所詮はフランス語の「ニュー・ウェーブ」(新しい波)でしかなく、ゴダールらが出てきた当時に、誰か(新聞か雑誌)が「最近、助監督経験もない若者の作品が出てきて、元気がいいぞ。フランス映画のニュー・ウェーブだ」と、そんなことを言い出したことから、そのあたりの作家の作品を、ふわっと指すようになっただけで、例えば、その範囲を年号で限定するわけでもなければ、フランス国内に限定するわけでもありません。また『カイエ・デュ・シネマ』出身者に限定されるわけでもなければ、ましてや「内容的・形式的」な限定もない。しかしまた、何でもありでは意味がないので、例えば、トリュフォーの作品が全部「ヌーヴェルヴァーグ」の作品だとも言い難い。
つまり、ああした呼称の多くは、最初から自称したグループ名なんかを除けば、たいがいは何となく生まれてきた、便宜的な呼称でしかないんだから、内容的に厳密な定義なんてできないのは、わかりかった話なんですよね。
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(N-07)年間読書人
2024年8月25日 05:14
それを、それこそ『ダーティハリー』すら見てなかった素人が、「アメリカン・ニューシネマ」は「こういうものだ」なんて、知ったかぶりで語るのは、まさに「盲目、蛇に怖ず」ってやつだと思います。
そして、そうした態度の根底にあるのは「差別的な上から目線」。だから、そこで「フェミニストの恥さらし」にもなるわけです。
今度、北村さんの本を読んで、きっちり切り刻んでやろうかな(笑)。
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青池
2024年8月25日 10:04
(※ 『にわかさんも北村紗衣さんも大好き』なので、『にわかさんのブログを読めば好意的になるように思います。』という趣旨のコメント。詳細は略)
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(N-08)年間読書人
2024年8月25日 13:16
参考ですが、私が、北村タイプが心底嫌いだというのは、次のレビューに、最もよく表れていると思います。
https://note.com/nenkandokusyojin/n/n3af297c50214
「歯に絹を着せぬ」というのは、「馴れ合い」を拒絶する、ということですから、批判されて反論することのない人たちの中でやってても、ぜんぜん自慢にはならず、単なる「勘違い」の一人相撲でしかない、とも言えるでしょう。
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(S-02)須藤にわか
2024年8月25日 14:44
読書人さん
・ヌーベルバーグも厳密な定義はない
すいませんそのとおりです…一応そうわかってはいたんですが、ただまぁカイエの連中が「俺たちも!」と始めたので、新しい映画をという意識はニューシネマの作り手たちに比べて共有されていただろうし交流も強かっただろう、という意味でもっと漠然としたニューシネマと対比させるために雑に書いてしまいました…。
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(S-03)須藤にわか
2024年8月25日 14:45
青池さん
(※ 内容は省略)
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(S-04)須藤にわか
2024年8月25日 14:54
青池さん(その2)
(※ 内容は省略)
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(N-09)年間読書人
2024年8月25日 15:37
昔の作品や人物を評価する場合には、それらが「時代の制約と限界」に中にあったものだという認識と、それへの配慮が必要です。
それが無いというのは、自分自身もまた、見えない「時代の制約」の中にいるということに気づかない、度しがたい愚か者(の傲慢)だと言えるでしょう。
それは、フェミニズムだって同じで、LGBTに代表されるように、すでに「男女二元論」的な認識における女権拡張論は、それ自体が差別的であると見ることもできるようになってきているし、今ではさらには進んで、「aro/ace(アロマンティック/アセクシャル)」の問題を語る立場も登場して、恋愛や生殖自体が疑義をふされている。
つまり、そんな時代に、古い男だけを相手にして、その優位を誇示するような立場というのは、実にくだらないと思うのですね。視野狭窄的に、自分たちの権利のことしか考えていない。
東浩紀が本気で反論しないのも、反論できないからではなく、それをすると、政治的に損だからに過ぎません。論争に勝っても、世間体が悪くなっては、プロの書き手としては「損」だからです。
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(K-01)北村紗衣
2024年8月27日 01:50
よくもまあ思い込みだけでそんなふうに赤の他人のことを言えますね。「ニューシネマ以前のハリウッド女優というのはお姫様だった。みんなの憧れで、美しく、気高く、キュートで、スターだった」なんていうことは私は一度も言っていませんし、私がこれまで高く評価してきたプレコード映画って『紅唇罪あり』(https://note.com/kankanbou_e/n/n9293a3ebd07c)とか『私は別よ』(https://note.com/kankanbou_e/n/n1b999e9f1f8e)みたいな映画で、庶民のヤバい女性が大暴れするみたいな映画が大半なんですが。あなたがやっているような赤の他人をただの思い込みで判断する行為は、『イージー★ライダー』の最後に出てくる田舎の人たちにつながるものですよ。
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(S-05)須藤にわか
2024年8月27日 08:51
北村さんへ①
(※ 内容は省略)
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(S-06)須藤にわか
2024年8月27日 08:53
北村さんへ②
(※ 内容は省略)
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(S-07)須藤にわか
2024年8月27日 08:55
北村さんへ③
(※ 内容は省略)
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(S-08)須藤にわか
2024年8月27日 09:09
北村さんへ④
(※ 内容は省略)
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(N-10)年間読書人
2024年8月27日 09:15
「思い込みでものを言う」というのは、「アメリカン・ニューシネマ」について、あんなふうにしか語れない、無知な偏見を振り回す、北村紗衣みたいな人間のことを言うのですよね。
古い映画は、みんな男性中心主義に「決まっている」から、「詳しくは知らなくても」容易に批判できる、という雑な感覚で、十羽ひと絡げにして否定的に評価する。
しかし、この「十羽ひと絡げ」というのが、そもそも、個々の作家や個々の作品の「個別性」を無視した、それらにに対する「偏見」に基づく差別的評価なのです。
つまり、ろくに見ていないのであれば、「アメリカン・ニューシネマとは、こう言うものであり、だから」どうだ、などとは言わずに、自分が見た「個々の作品」について「この作品は、ここがどうだから、問題だ」と評価すればいいだけなのです。
そして、それが出来ないのは、前にも書いたとおり「私は見てないけど、本質はわかる」みたいな「傲慢な自意識」を持っているからなのですよ。
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(S-09)須藤にわか
2024年8月27日 09:20
北村さんへ⑤
(※ 内容は省略)
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(S-10)須藤にわか
2024年8月27日 09:21
追伸
(※ 内容は省略)
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(N-11)年間読書人
2024年8月27日 09:25
ちょうど昨日から、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』を読み始めたのですが、これの冒頭に書かれていることが、私が一昨日書いた『すでに「男女二元論」的な認識における女権拡張論は、それ自体が差別的であると見ることもできるようになってきている』と、そっくりそのままなので、笑ってしまいました。
私は「フェミニズム」そのものについては詳しくありませんが、知っておかねばならないこととして興味は持ち続けてきたので、年に1、2冊程度のペースで読んできて、バトラーも難しそうだけれど読んでおかないといけないかとは思っていたから、すでに買ってあったのを、この機会にと昨日から読み始めて、30ページほど読んだところです。
それでも、「フェミニズム」というのも、すでに一枚岩ではなく、「男」と「女」の「二元論」を自明の前提として、肯定的に定義した「女」の立場から、否定的に評価した「男」を批判するというのは、恣意的なものだという批判が、他ならぬフェミニズムの中から出ているそうです。
そもそも「女」の定義って、そう簡単に決められるのか、って話です。「体は男だけど、心は女」だという人もいるわけですから。
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(K-02)北村紗衣
2024年8月27日 09:36
須藤にわかさん、あなたは私が「お姫様になることが女性の権利向上と考えているフシがある」などと私が思ってもいないことを言って人格攻撃を行いました。それが弁護できることだとでも思っているのでしょうか。フェミニズム観の違いに逃げようとしても無駄です。
年間読書人さんの、私の本を切り刻むというコメントは通報いたしました。
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(N-12)年間読書人
2024年8月27日 09:38
映画の話から離れてしまって申し訳ないのですが、しかし、「フェミニズム」の問題は、当然のことながら「映画」も無縁ではいられません。
しかし、だからと言って、政治的に大きな声に媚びて「無難に映画を作る」という姿勢になるのは、明らかに間違い。要は、よく勉強もして、主体的な立場で「人間」を描く、ことが大切なんです。
今は「新自由主義経済」が蔓延して、「売れてナンボ」だから、うるさい奴と喧嘩しては「損だ」という姿勢が目立つのですが、そんな態度は完全に「非人間的」なものです。
須藤さんがお好きなロバート・アルトマンも、「時流に抗った、反骨の映画人」だったのですが、そうした姿勢を、私たちも見習わなければならないし、これはフェミニストこそが支持しなければならない立場でもあるでしょう。
アルトマンは言いましたよね。一一『私はまっすぐ歩んでいるだけ。他の人はよくブレるけどね』
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(N-13)年間読書人
2024年8月27日 09:51
北村紗衣先生
「通報」ですか、反論ではなく(笑)。
偉い先生は、無名の人間なんて、「同じ人間」としては扱えない、ということですね?
私は別に、先生の「物としての本」を切り刻むと言っているのではなく、その「内容」を「細かく批判的に分析する」という意味で書いているのですが、その意味が取れませんでしたか? それとも、「批評」自体を、否定なさるのでしょうか?
あるいは、そんなことは全部承知の上で、わかっていて「管理者権力」に訴え、暴力で、目障りな私を「潰そう」と、お考えなのでしょうか?
また、東浩紀が、そのお言葉を読んだら、どう思うでしょうね?
いずれにしろそういうのは、「弱者の権利」を守るフェミニストとしては、褒められたものではないと思いますよ。
往年の江川卓の言葉、「そう興奮しないでください。落ち着いて話し合いましょうよ」ってことですね。
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(N-14)年間読書人
2024年8月27日 10:24
ちなみに、ここをご覧の皆さんに申し添えておきますと、今のうちに、このコメント欄の「ログ」でも「スクリーンショット」でも、取っておくことをお勧めします。
「証拠隠滅」されてからでは遅いですからね。
記録さえ取っておけば、後からいくらでも検討することが可能です。
誰が「根拠を示しての批判をしたのか」。
誰が「議論(言論)を拒んだのか」。
誰が「問答無用の抹殺を試みたのか」。
「言論弾圧」というのは、必ずしも「国家権力」がやるものだとは限らず、弱者の顔をして「権力」を振るおうとする人だっている。
昔「部落解放同盟」が、暴力的な「総括」をやって、無理やり人を黙らせたために、今でもその「悪印象」が消えておらず、そこを「在特会」などにつけいられて、言いたい放題を許させざるを得なかったという事例は、とても教訓的なものだと思います。
つまり「大義名分」を振り翳して、問答無用で相手を黙らせようとするような態度は、決して「広く理解されることはない」ということです。
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(N-15)年間読書人
2024年8月27日 10:26
一部に「嫌フェミ」が増えているのも、「大義名分」を振り翳して、問答無用で相手を黙らせようとする人が現にいるからでしょう。
そういう自称「フェミニスト」というのは、何より「フェミニズム」のためにも、ならないんですよね。
そうではありませんか、北村先生?
そうではないでしょうか、「note」の管理者様?
「note」は、内容を検討することもなく、「通報だけ」で一方を処断したりはしないですよね?
そんなことしたら、「通報合戦」になるのは、目に見えているんですから。
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(S-11)須藤にわか
2024年8月27日 11:57
これ、個別のコメントにリプライとかできないんですかね?ちょっと見にくい感じになりますけど...。
北村さんは次々と話を変えるので俺としては正直ついていくのが大変です。前の連投コメントで俺が提起したこと(たとえば、二つの文献を接続して論を立てることの妥性)には触れずにまた次の話をする。無理に答えてほしいとは思いませんが、これでは建設的ではないし、終わりがないような気がします。
「お姫様になることが女性の権利向上と考えているフシがある」は素直に俺があの反論文を読んで感じたことを書いただけですので、もし違うというのであれば該ポストに「北村さん本人からそんなことはないと言われました」と追記しておきますが、それでいいですか?
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(S-12)須藤にわか
2024年8月27日 12:19
あと読書人さんはすいませんがここは俺のスペースで俺は平和にやっていきたいので喧嘩をしないでください
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(N-16)年間読書人
2024年8月27日 12:28
須藤さん
お騒がせして、すみません。北村さんの批判に対しては、私の方で、それ専用のページを立ててもいいんですが、たぶん北村さんは乗ってこない(黙殺する)でしょう。
私がここでやっているのは、『マッシュ』でホークアイたちのやっているようなことだとご理解いただければ幸いです。
北村さんはまだお若いから、かっての「言葉狩り」問題の重大性をご存知ないのでしょう。
筒井康隆が「断筆宣言」して、やっと議論のテーブルに乗るようになり、今では「言葉尻をとらえて攻撃する」類いの「言葉狩り」は、「非民主主義的」なものだとも理解されるようになりました。
もちろん、言葉遣いには気をつけなければならないのですが、文学の世界には「毒舌」による批評の伝統があり、「アラーを冒涜した」ので、ラシュディは殺して良いという理屈は、一部狂信者以外には通用しません。
そしてこのことは、シェイクスピアの研究家である北村先生だって、重々ご承知のはずです。「言いたい放題の阿呆(道化)」の口を封じてはいけない、という知恵です。
「言葉狩り」の暴力ではなく、「言論には言論を」というのは、ごく常識的な議論だと思います。
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sasa49m1rou
2024年8月27日 14:42
(※ 須藤氏を支持するコメント。内容は省略)
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SkipAway
2024年8月27日 17:10
(※ 須藤氏を支持するコメント。内容は省略)
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(S-13)須藤にわか
2024年8月27日 17:38
sasaさん
(※ 内容は省略)
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(S-14)須藤にわか
2024年8月27日 17:44
skipawayさん
(※ 内容は省略)
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(N-17)年間読書人
2024年8月27日 18:14
まとめ記事をざっと読みましたが、ここまで酷いとは思いませんでした。
さすがは、何万人もフォロワーがいる北村先生ですね。本人の反論は凡庸ですが、取り巻きのヤジがまさに「数の暴力」で、昔「荒らし」とか言われていた人たちと、まったく同じノリ。
これじゃあ、ウンザリするのもわかります。
私はだいぶ前にネトウヨと喧嘩しすぎて、先方の「集団通報」でアカウントが凍結されたままなんですが、「X」とやらは、もう「プロパガンダ」だけの世界みたいですね。
いや、ご苦労様でした。
以後、私はよそで、個人的に勝手にやらせていただきます。
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怪人
2024年8月27日 18:53
結局のところ、タイトルの「メチャクチヤ」「ウソ」というのは誤りだったわけですよね...?
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(※ この後、この「怪人」氏と「須藤にわか」氏のやりとりが3往復ほどあって、「元記事」の削除と「改訂版」のアップになる。
ちなみに、私がファクトチェックしたところ、この「怪人」氏は、言葉遣いこそ丁寧なものの、そのアカウントは、フォローは「note公式」だけ、記事もフォロワーのゼロという、まさにこのコメント欄へ書き込みをするために作った、捨てアカウントだと推認された。もちろん、スクリーンショットは撮ってある。なお、すでにアカウントは、消されたようだ。)
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(2024年9月25日)
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