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シェイクスピア研究者の北村紗衣さんがアメリカン・ニューシネマについて俺の個人的なニューシネマ観とはかなり違うことを書いていたのでそれを説明しつつニューシネマのいろんな映画を紹介する記事〔改訂版〕

諸事情により追記が非常に多くなってしまったので、本文とはあまり関係のない追記部分だけ見出し化して抜き出しました。とくにそのへん興味ない人は下にある目次の「こんな記事を読んだ」の項目からお読みください。

※なお、この記事に対する北村さんの反論ブログを読んでおくと追記部分の文脈が把握しやすいかと思いますので、リンクを貼っておきます。

ちなみにこの反論記事に対する俺の応答記事(反論記事じゃないよ)も一応貼っておくのでよろしければどうぞ。


追記一覧

2024/08/27 追記①

元の記事タイトルは「北村紗衣というインフルエンサーの人がアメリカン・ニューシネマについてメチャクチャなことを書いていたのでそのウソを暴くためのニューシネマとはなんじゃろな解説記事」でしたがいろんな人に怒られたのでたしかにこの書き方は失礼かもしれないしネガティブな感じで嫌だな…と反省しタイトルを変更しました。

2024/08/28 追記②

その後「シェイクスピア研究者の北村紗衣さんがアメリカン・ニューシネマについていい加減なことを書いていたのでそれを指摘しつつニューシネマのいろんな映画を紹介する記事」でしたがまだ怒られそうな気がしたので再度タイトルを変えました。

2024/8/28 追記③

noteを通じて本記事読者のコメント欄での誹謗中傷を主たる理由とする記事の削除要請(「侵害情報の通知書兼送信防止措置に関する照会書 」)が届いたので、元記事はコメントを含めて削除しました。こちらの記事は元記事を複製したものですが、より文意が汲みやすく誤解を減らすために適宜〔〕で追記した改訂版となります。再公開にあたり、不要と判断した引用記事の魚拓リンクを削除し、記事のタイトルを「シェイクスピア研究者の北村紗衣さんがアメリカン・ニューシネマについて俺の見解とは違うことを書いていたのでそれを指摘しつつニューシネマのいろんな映画を紹介する記事」から再度再度変更しました。

2024/9/17 追記④

追記③にはもともと削除要請(「侵害情報の通知書兼送信防止措置に関する照会書 」)を出した人物の名前、および、その権利侵害情報に記載されていた事実とは異なる情報を、訂正目的で入れておりましたが、弁護士の人と相談し、プライバシー侵害に該当する可能性はあると判断しましたので、削除しました。

一度目の削除要請後、note経由で二度目の削除要請が届き、その「侵害された権利」の欄には前述の部分(「侵害情報の通知書兼送信防止措置に関する照会書 」に記載されていた事実とは異なる情報の引用)が著作権人格権の侵害だと書かれていました。これは「侵害情報の通知書兼送信防止措置に関する照会書 」を著作物と主張するものですが、著作物の法的な定義は下記の通りですので、「侵害情報の通知書兼送信防止措置に関する照会書 」のような文書は著作物には該当しません。事実ではないことを根拠に記事の削除を要請する不法行為とも取れるものでしたので、二度目の削除要請には応じませんでした。

(定義)
第二条 この法律において、次の各号に掲げる用語の意義は、当該各号に定めるところによる。
一 著作物 思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。

https://laws.e-gov.go.jp/law/345AC0000000048

2024/9/17 追記⑤

ツイッター(現X)上で本記事について北村さんが事実とは異なることを複数投稿しておりましたので、二つ引用しつつ事実を提示しておきます。

北村さんは下記の元記事において「ニューシネマの特徴に性描写や暴力描写が含まれる」ではなく、明確に「あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴として挙げられます」と書いていますので、これはご自身で書かれた(言われた)ことをご自身で事実誤認しています。

俺は「あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴として挙げられます」という上記記事中における北村さんの発言について本記事の中で「これまでのアメリカ映画にない描写、主題、物語、人物、音楽、哲学…そういった要素があれば、ニュー・ハリウッドやアメリカン・ニューシネマとしてカテゴライズされたわけである。暴力やセックスはその中の一つとしてあるに過ぎない」と指摘しているのであって、「ニューシネマの特徴に性描写や暴力描写が含まれる」という点は否定していません(そのざっくり指摘もどうなのよとはまぁ自分でも思う)

「私に対する誹謗になりかねないこと」は主観によるところが大きいかと思いますので、前記事のコメント欄に残した俺のすべてのコメントを再掲します。これを読んでる人に俺のコメントが誹謗に該当するか否か、個別に判断していただければと思います。なお言うまでもなく、俺に誹謗の意図はまったくありません。

※俺のコメントはすべて読者の人のコメントに対する応答なので、文脈がわかるようにするために、必要なものは読者の人のコメントも載せてありますが、巻き込んでしまうのは本意ではないため、北村さん以外はすべて仮名にしてあります。

わんわん(仮名)
2024年8月25日 00:33 1 スキ

中学女子=アメリカンニューシネマの世代です。そして私にとってニューシネマといえば本通りをかなり外れますが「バニシングポイント」です。ベトナム戦争で傷ついた世代を描き、理解しよう癒そうというアメリカ映画の流れを見ながら育ちました。そこに、今現在の考え方を当てはめて批判するのはちょっとおかしいですよね。

須藤にわか
2024年8月25日 01:13 1 スキ

今の視点から見ての批判というのもあった方が健全だとは思いますが、ただその際、とくに批評を職業として行っている場合には、とはいえ当時はこういう考え方や倫理観があって、みたいな時代背景を理解しないと、本質を突く批評にはならないですよね。

ニューシネマについては、仰るように理解や癒しという、どちらかといえばある種の「柔らかな眼差し」を個人的には強く感じます。ニューシネマというとバッドエンドの印象もありますが、それも冷たさというよりも、時代の気分に寄り添った感傷的なバッドエンドという感じで…だから「反抗と暴力とセックス」とか書いてあって「えっ?」てなったんですよ。

ぴよぴよ(仮名)
2024年8月25日 05:13 1 スキ

これは貴兄も勘違いされているようですが、「ヌーヴェルヴァーグ」だって、厳密な定義なんてありません。
所詮はフランス語の「ニュー・ウェーブ」(新しい波)でしかなく、ゴダールらが出てきた当時に、誰か(新聞か雑誌)が「最近、助監督経験もない若者の作品が出てきて、元気がいいぞ。フランス映画のニュー・ウェーブだ」と、そんなことを言い出したことから、そのあたりの作家の作品を、ふわっと指すようになっただけで、例えば、その範囲を年号で限定するわけでもなければ、フランス国内に限定するわけでもありません。また『カイエ・デュ・シネマ』出身者に限定されるわけでもなければ、ましてや「内容的・形式的」な限定もない。しかしまた、何でもありでは意味がないので、例えば、トリュフォーの作品が全部「ヌーヴェルヴァーグ」の作品だとも言い難い。
つまり、ああした呼称の多くは、最初から自称したグループ名なんかを除けば、たいがいは何となく生まれてきた、便宜的な呼称でしかないんだから、内容的に厳密な定義なんてできないのは、わかりかった話なんですよね。

にゃんにゃん(仮名)
2024年8月25日 10:04

こんにちは。私はにわかさんも北村紗衣さんも大好きなので、え?と思いました。
にわかさんは鋭く、独自の観賞姿勢、北村さんも歯に衣着せぬタイプなので、そんなところが好きなのですが。
今回投下された大量の文章量。(飛ばしたところをとばしたね言われたんでドッキン!しました)
北村さんは「忙しい」事を理由に無視するかもしれませんが、にわかさんのブログを読めば好意的になるように思います。

須藤にわか
2024年8月25日 14:44 1 スキ

ぴよぴよ(仮名)さん

・ヌーベルバーグも厳密な定義はない

すいませんそのとおりです…一応そうわかってはいたんですが、ただまぁカイエの連中が「俺たちも!」と始めたので、新しい映画をという意識はニューシネマの作り手たちに比べて共有されていただろうし交流も強かっただろう、という意味でもっと漠然としたニューシネマと対比させるために雑に書いてしまいました…。

須藤にわか
2024年8月25日 14:45 4 スキ

にゃんにゃん(仮名)さん

・北村さんもにわかのブログを読めば好意的になるかもしれない

いや、それは確実にないと思います笑
というのは北村さんの反論文を読みましてわかったのですが、この人はプレコード期・ヘイズコード期(これはまぁ要するに表現規制です。エロとか暴力表現とかの)のハリウッドの女性たちはヘイズコードの撤廃されたニューシネマ期に比べて輝いていて、ニューシネマ期には男性中心主義になったので女性の活躍が少なくなった、フェミニズムを後退させた、というようなことを書いているんです。
しかしこれは、ニューシネマとされる映画を多く実際に観ている人からすれば違和感があると思います。というのはニューシネマ期にはそれまでのハリウッド映画にはなかった女性表象がたくさん見られ、それまでのハリウッドなら主役として抜擢されなかったような個性派女優さんたちが活躍していたからです。その中にバーバラ・ローデンなどがいる。(続く)

須藤にわか
2024年8月25日 14:54 4 スキ

にゃんにゃん(仮名)さん(その2)

ではなぜ北村さんはニューシネマの主に女性観(?)に関して不満を感じているかと想像すると、それはニューシネマ以前のハリウッド女優というのはお姫様だった。みんなの憧れで、美しく、気高く、キュートで、スターだった。そういう存在としてハリウッドでは持ち上げられました。女性監督はこの時代もニューシネマ時代も少なかったです(アメリカに映画が伝来したごく初期にはアリス・ギィなどが活躍していましたし、50年代のアイダ・ルピノの活躍は当時あまり注目されませんでしたが、近年再評価されています)

でもニューシネマ期のハリウッド女優ってお姫様じゃないんです。それは後の『ターミネーター』などに受け継がれると個人的には考えますが(『ターミネーター』は名女性プロデューサーのゲイル・アン・ハードが手掛けた作品です)、スカートの代わりにジーンズを履いて、お姫様扱いされない代わりに、自由にやりたいことをやった。

俺は、後者をフェミニズムの進歩だと考えてるんです。でも、北村さんは逆に、お姫様になることが女性の権利向上と考えているフシがある。そこが合わないから、理解されないと思う。

北村紗衣
2024年8月27日 01:50 20 スキ

よくもまあ思い込みだけでそんなふうに赤の他人のことを言えますね。「ニューシネマ以前のハリウッド女優というのはお姫様だった。みんなの憧れで、美しく、気高く、キュートで、スターだった」なんていうことは私は一度も言っていませんし、私がこれまで高く評価してきたプレコード映画って『紅唇罪あり』(https://note.com/kankanbou_e/n/n9293a3ebd07c)とか『私は別よ』(https://note.com/kankanbou_e/n/n1b999e9f1f8e)みたいな映画で、庶民のヤバい女性が大暴れするみたいな映画が大半なんですが。あなたがやっているような赤の他人をただの思い込みで判断する行為は、『イージー★ライダー』の最後に出てくる田舎の人たちにつながるものですよ。

須藤にわか
2024年8月27日 08:51 2 スキ

北村さんへ①

上の俺の発言は北村さんの反論ブログを読んでのものです。noteのコメント欄は500文字が上限なのですが、部分的な引用はまた誤解を招くと思うので、俺の発言に対応する箇所を分割して全文引用します。

「New Hollywoodと呼ばれる映画の潮流が男性中心的であり、それまでのスタジオシステムで作られていた女優中心の映画に比べるとかえって女優の活動範囲が狭められたということが指摘されています。ハスケルは2019年にWhen the Movies Mattered: The New Hollywood Revisitedに寄稿した論文で、似た問題意識で当時の女性映画もとりあげつつ、さらにニュアンスのある分析を行っています。」

須藤にわか
2024年8月27日 08:53 1 スキ

北村さんへ②

「ここで問題になるのはやはりそれ以前との比較の問題です。40年代頃までは女優中心の女性映画がハリウッドの主流コンテンツとしてかなりたくさん作られていたのですが、作家主義的な映画が増加したNew Hollywoodの時代には、監督(大部分が白人男性)が個人的なテーマを描く風潮もあいまって、女優中心の映画が退潮しました。映画に登場する女性の役が小さくなったり、男性に都合のいい役柄になることも増えました。ハスケルは70-80年代のアカデミー主演女優賞やアカデミー助演女優賞の候補の役柄がそれまでに比べるとぱっとしないことをこうした風潮の反映の一例としてあげていますが、もうひとつこうした風潮の反映としてあげられるのはたぶんマネー・メイキング・スター(ハリウッドで一番稼いだスター)のランキングでしょう。1967年までは女優がハリウッドで一番稼いだスターになった例が複数回あるのですが(ドリス・デイ、エリザベス・テイラー、ジュリー・アンドルーズなどがめっちゃ稼いでいた)、1968年から1998年までは全て男優が1位です。」

須藤にわか
2024年8月27日 08:55 1 スキ

北村さんへ③

「ドリス・デイみたいな女優にかわってよく1位になるようになったのはクリント・イーストウッドやロバート・レッドフォード、ポール・ニューマンといったNew Hollywoodの時代らしい男性スターが多いです。
 もちろんNew Hollywoodの時代でも女性中心の映画は作られましたし、フェイ・ダナウェイとかジェーン・フォンダみたいなスター女優も生まれ、New Hollywoodの影響を受けた新しい女性の映画人も時間をかけて育っていくようにはなりましたが、それ以前に比べると女性がぱっとしない立場になりやすかったと言えます。1970年代末に活動し始めた女性監督の苦労に関するそのものずばり"New Hollywood, Old Sexism"(ニューハリウッド、古い性差別主義)なんて論文もあります。あくまでも全体的な傾向として、New Hollywoodは映画界の女性にいい影響はもたらしませんでした。例外的に女性を描くのが得意な監督がいたり、優秀な女性監督がいたということを持ち出しても、全体的な傾向に関する指摘の反論にはなり得ません。」

須藤にわか
2024年8月27日 09:09 1 スキ

北村さんへ④

以上の部分を読みまして、俺が抱いた感想が「ニューシネマ以前のハリウッド女優というのはお姫様だった。みんなの憧れで、美しく、気高く、キュートで、スターだった」です。プレコード期の話はしていません。そしてニューシネマ以前にハリウッド女優が稼げていたのは端的に言ってお姫様として扱われていたから、というのは文献引用がなくてもおわかりいただけるかと思います。

なにせ紙幅もありますから詳細な議論をするのはここでは難しい(俺にはそのための金も時間もないですし)。しかし、ニューハリウッドもしくはニューシネマの時代が、一方でスター女優の地位を低下させつつも、これまでにない女性像や女優に、または女性にまつわるテーマに道を開いたことも否定しがたい事実だと思います。

そうして考えた時に、「全体的な傾向としてニューハリウッドは映画界の女性に良い影響をもたらさなかった」というのは、根拠がない。しかしあなたはスターの凋落と1970年代の女性監督の苦労の二つの文献を接続してそう結論付けていたので、そのため「ハリウッド以前の女優はスターだった云々」と書いたのです。

須藤にわか
2024年8月27日 09:20 1 スキ

北村さんへ⑤

おそらく北村さんと俺の食い違いの根本的な原因はフェミニズム観じゃないかなぁとこれはいささか蛇足ですが思います。俺はクリステヴァ(クリステヴァ自身はフェミニストではありませんが)→ダナ・ハラウェイ→上野千鶴子→竹村和子→ボーヴォワール→ジュディス・バトラー、という感じで読んできたので、第三波フェミニズムがフェミニズム観の中心になっているのです。そしてその立場からすると、男女の区別自体に疑問を持つべきで、経済的にはともかく(それはそれで大きな問題でしょうが)、女優がドレスを脱いでジーンズを履いて自由に歩いた、と同時に男優の方は旧来の「男らしさ」を捨ててメソメソ泣くようになった、このようなニューシネマもしくはニューハリウッド映画が、俺には全体的に性差別的とは思えません。むしろ、男女が少なくとも表象の上では、同等に扱われるようになった。

もしこの時代が性差別的だとすれば、それはニューシネマの時代にも旧来の慣習は残っていた、ということだと思います。それはニューシネマ自体の問題ではないでしょう。

須藤にわか
2024年8月27日 09:21 2 スキ

追伸

北村さんが挙げてくれた二本の映画は観たことがないですし面白そうなので、今度東京の名画座シネマヴェーラでプレコード映画特集をやりますし、そこで上映されれば観に行きたいと思います。面白い映画を教えてくれてありがとうございます。

北村紗衣
2024年8月27日 09:36 9 スキ

須藤にわかさん、あなたは私が「お姫様になることが女性の権利向上と考えているフシがある」などと私が思ってもいないことを言って人格攻撃を行いました。それが弁護できることだとでも思っているのでしょうか。フェミニズム観の違いに逃げようとしても無駄です。
ぴよぴよ(仮名)さんの、私の本を切り刻むというコメントは通報いたしました。

須藤にわか
2024年8月27日 11:57 2 スキ

これ、個別のコメントにリプライとかできないんですかね?ちょっと見にくい感じになりますけど…。

北村さんは次々と話を変えるので俺としては正直ついていくのが大変です。前の連投コメントで俺が提起したこと(たとえば、二つの文献を接続して論を立てることの妥当性)には触れずにまた次の話をする。無理に答えてほしいとは思いませんが、これでは建設的ではないし、終わりがないような気がします。

「お姫様になることが女性の権利向上と考えているフシがある」は素直に俺があの反論文を読んで感じたことを書いただけですので、もし違うというのであれば当該ポストに「北村さん本人からそんなことはないと言われました」と追記しておきますが、それでいいですか?

須藤にわか
2024年8月27日 12:19 1 スキ

あとぴよぴよ(仮名)さんはすいませんがここは俺のスペースで俺は平和にやっていきたいので喧嘩をしないでください

けろけろ(仮名)
2024年8月27日 14:42 3 スキ

棘まとめ経由できたけど、このnote記述ガン無視で「ワタシはこう思うの」「私の定義ではこうなの」連呼してるアホとその信者の大群を見て戦慄した。
 とりあえず不毛な争いを避け、Twitterという閉鎖された世界での争いより、映画の面白さと啓蒙にシフトした須藤さんは本当にお疲れだと思う
 あのまま言い争いをつづけてたら、アメリカ映画そのものが第三者から疎まれる結果になっただろう。それをさけた須藤さんの選択は賢明である。
とりあず、noteちゃんと見た人は須藤さんのこと理解してるはずだと思うよ

映画そのものとは関係ないがそれだけが言いたかったんだ

コケコッコー(仮名)
2024年8月27日 17:10 1 スキ

Twitterで流れてきたので拝見しましたが、筋の通った論考だとお見受けしました。また、見たことのない映画が多く紹介されていて、こういった映画も見てみたいなという気持ちになりました。私の好きなホラー系の映画だと、ロメロのナイト・オブ・ザ・リビングデッドがニューシネマ的なんだなという感想を持ちました(ニューハリウッドの方のリストには入っていますが)

須藤にわか
2024年8月27日 17:38 2 スキ

けろけろ(仮名)さん

うう…ありがとうございます…!俺の中では北村さんのダーティハリー記事に対するこのnote記事を出して、それで北村さんもそれに対する反論記事を出して、それでもう終わりだと思っていたんですが、普段記事更新の告知にしか使ってないツイッターにリンクを貼りに来た時に相互の人と会話になって、そしたらそれをリアルタイムで北村さんが引用RTして、無視できないから半ば不貞腐れながら応答してしまって、こんなまぁ泥仕合になったわけです…。

仰るように、ツイッターの人たちはこの記事はもとより北村さんの記事だって読んじゃいません。それがよくわかったので、そういう意味ではツイッターと完全に縁を切るキッカケになってよかったと思います。あそこでは知的な話も誠実な話もできない。勝った負けたという小学生の世界だと思います…。

須藤にわか
2024年8月27日 17:44 2 スキ

コケコッコー(仮名)さん

ありがとうございます!ここに挙げたものはもとより、ニューシネマとざっくり呼ばれる作品はどれもユニークで今なお新鮮なところもあるので、いろいろ見てもらえると嬉しいです!
日本で「アメリカン・ニューシネマ」というと『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』は入りませんけど、あれはやはりニューシネマ的な作品で、『ナイト〜』自体はそれほど深い意味やニューシネマを撮ろうという動機はなかったようですが、ロメロは後に『悪魔の儀式』で主婦の抱える不安や日常の中の苛立ちを、『ナイトライダーズ』でヒッピーのバイカー集団のドラマを撮ってますから、ロメロはニューシネマの作家なんだと個人的には思います。

ぴょんぴょん(仮名)
2024年8月27日 18:53 1 スキ

結局のところ、タイトルの「メチャクチャ」「ウソ」というのは誤りだったわけですよね…?

須藤にわか
2024年8月27日 20:02 1 スキ

ぴょんぴょん(仮名)さん

実はそれは判断が難しい…。北村さんの元記事を読めばわかるように、北村さんは要は「ニューシネマはニューシネマ以前にあったハリウッドの女性たちの活躍の場を見方によっては縮小させた」というようなことを結論的に書いていて、それに関しては俺はやはり同意できない。ニューシネマはハリウッド映画に新しい女性表象や女性的な主題をもたらしましたし、それは50年代の定型化された女性像から女性像を開放する面すら強くあったとさえ思っているので、その根拠として示したのがこの記事のアルトマンの部分とニューシネマのスター女優の項目です。

ツイッターではグダグダになっちゃいましたけど、この話はジャンル論なんかじゃなくて、本質はそこなんです。その点に関してはこのコメント欄で今北村さんとやりとりしてるところです。

ぴょんぴょん(仮名)
2024年8月27日 21:12

ご返信ありがとうございます。今なおやりとり中ということは承知いたしましたが、
「見方によっては」とあるように一面的でなく評価の分かれるものに対して「メチャクチャ」「ウソ」とはお言葉が過ぎるのではないでしょうか…。

須藤にわか
2024年8月27日 21:26 2 スキ

ぴょんぴょん(仮名)さん

まさにそこでして、「見方によっては」とは書いてあるんですが、文脈からいって(つまり「ニューシネマでは男性に都合の良い女性キャラが多かった」とか。これは俺としてはメチャクチャだと思うんですが、数値化してデータで根拠を示すのは非常にむずかしく、専門的な研究が必要です)「ニューシネマは(それ以前にあった)女性の活躍の場を奪った」と書かれれば、「見方によっては」と前置きしても、やはり読んでいる人は「ニューシネマは女性差別的だった、女性の邪魔をした」と感じると思うのです。

これは非常に困る書き方で…それまでは「ニューシネマは〇〇です」「白人男性中心主義だった」と断定しておきながら、結論部だけ「見方によっては女性の活躍の場を奪った」と書いてあると、その結論部を批判しても「見方によってはと書いたのでその批判は妥当しない」と言われてしまう。

なので、その前提となるニューシネマの定義から批判していって、こういう雑な認識の上でニューシネマが女性活躍の場を奪ったと主張しても説得力がないと、そういうことをこの記事では書いたんです。

ぴょんぴょん(仮名)
2024年8月27日 21:46 4 スキ

発端となった北村氏の連載記事を再度読み直してもそのようには読み取れませんでしたし、例え仰るとおりの側面があったとしても「メチャクチャ」「ウソ」とタイトルで断ずるには足りないように見えます。

あれほど丁寧に解説されたにも関わらず未だに「こういう雑な認識の上で」というご認識とは驚きですが、
おかげさまで貴重な勉強の機会を頂きましたことには感謝いたします。

須藤にわか
2024年8月27日 22:05 2 スキ

ぴょんぴょん(仮名)さん

そうですか…。俺からすると北村さんのニューシネマ解説は雑なんですが、ただそれを人に説明できないのは俺の力不足なので(ニューシネマに通常含まれる『スケアクロウ』とか『泳ぐひと』は反抗とか暴力とかセックスで説明できないじゃんと思いますが)認めるしかありません。タイトルも言い過ぎたと思うので変えます。

ぴょんぴょん(仮名)
2024年8月27日 22:29 2 スキ

元の連載記事は、誰でも映画感想を楽しく言い合って良いのだと映画初心者にも教えてくれる企画であって、記載ぶりは読者層に合わせて解像度が物凄く高いというものではなかったかもしれませんが、「雑」ではなく誤りでもないのではないでしょうか。

ニューシネマが大大大好きなにわかさんにとっては何か一言言わなければ気が済まなかったのでしょう。そのお気持ちはよくわかりますし、そこは北村氏も汲んでいたと思います(氏の反論ブログにおいて記載あり)。

「言い過ぎ」ということがわかっていただけてよかったです。

須藤にわか
2024年8月27日 22:33 1 スキ
ぴょんぴょん(仮名)さん

ニューシネマがとくだん好きというわけではなく映画全般が好きなだけですが(なので、ニューシネマを観たくなくなるような書き方にムカッとしてしまい…)、こちらこそわかっていただけてよかったです

以上。


こんな記事を読んだ

こんな記事をネットでたまたま読んだ。

ツイッターではわりと人気のある本業がシェイクスピア研究の批評家という人(詳しくは知らない)が実は観たことのない有名映画を観て率直な感想を述べるという企画のようで、今回は『ダーティハリー』の回。その『ダーティハリー』に対する評価は人の感想などさまざまなのでどうでもいいのだが、読んでいて「あれっ?」となる記述がいくつかあった。

60年代後半から70年代に、アメリカン・ニュー・シネマ(英語ではニュー・ハリウッドと呼ばれます)という潮流がありました。何らかの体制に抑圧されている若者たちが、なんとかして現状を打破しようする反体制的な要素と、あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴として挙げられます。

ニュー・シネマは多くの場合、アメリカ社会が正常に機能していないのだから暴力が発生するのだ、みたいな話になっています。

60年代後半から70年代の潮流であるニュー・シネマは、それ以前にあったいろいろな制約が外れ、暴力やセックス描写ができるようになり、そしてアメリカの秩序を問うような映画がたくさん作られた時代です。

そのくせに、結局は男性というか、主に白人男性が中心であることは問い直してないんですよ。〔見方によっては、むしろ悪化している。〕

ニュー・シネマはまさに、ヘイズ・コードの規制が無効になったあとに生まれた潮流で、アメリカをリアルに描くことができるようになった……はずなのに、プレコード時代では見られた女性中心的な映画はあんまり作られなかったんです。

ニューシネマをあまり観たことのない人がどう思うのかはわからないが、一応それなりにニューシネマと呼ばれる作品群を観ている俺としては、一番最初の「あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴」という時点でその認識はちょっと、いやだいぶ実際のアメリカン・ニューシネマからズレているんじゃないかと〔個人的に〕思った。ということでそれについてくどくどと書こう。

例の記事の何がおかしいのか

たしかにアメリカン・ニューシネマには直接的な暴力やセックスが出てくるものも少ないわけではないが、そんなことを言ったら1950年代のフィルム・ノワール(この時代のアメリカで量産された低予算のB級犯罪映画と思ってもらえればとりあえずいいです)だって暴力の嵐だし『拳銃魔』や『激怒』(フリッツ・ラング)のように後年の作と比較しても残忍と見える暴力演出もときにはあり、あるいはアメリカン・ニューシネマ後の作品を考えるとたとえば『ダイ・ハード』や『危険な情事』のようにこれはアメリカン・ニューシネマの作品群よりも遥かに暴力やセックスの描写が露骨だったりする。

現在の映画で一般的な暴力やセックスの描写の基準からすれば、アメリカン・ニューシネマはむしろその暴力性や性的な要素において全然大人しく慎ましいと言えるほどで、アメリカン・ニューシネマの幕開けとされる1967年の『俺たちに明日はない』が(これにしたって結局今の基準からすればまったく穏当な映画なのだが)公開時にその暴力性と性的な要素でセンセーショナルな話題を振りまいたとしても、それをニューシネマ全体の特徴として〔今の視点から見て〕語るのは、どうも相当な無理があるように俺には感じられる。そうした俺からすれば誤った認識の上で展開されるこの著者のニューシネマ論は、現実のニューシネマ作品群に対してまるでピントが合っていない〔ように俺には感じられる〕。

アメリカン・ニューシネマとは何か

では実際のアメリカン・ニューシネマとはどんなものだろうか。それを考えるためにはまずニューシネマとは何かという正確な定義から始めないといけないが、実は(なのか?)アメリカン・ニューシネマというのはフィルム・ノワールと同様に映画批評家らによって作られた映画分類のカテゴリーであり、映画製作者の側が主体的に提唱しその思想に則って作品を製作した「ヌーベルヴァーグ」(ゴダールとかトリュフォーとかのやつ)や「ドグマ’95」(ラース・フォン・トリアーが提唱したもの)のような映画運動ではない。

そのため概ね1960年代後半~1970年代にかけて製作されたアメリカ映画の中でなんらかの特徴を有するものをなんとなくニューシネマと呼んでいるわけだが、これはニューシネマでこれはニューシネマじゃないという明確な分類基準があるわけでもなく、人によって何をニューシネマとするかは異なってくる。その意味ではニューシネマを「現状を打破しようする反体制的な要素と、あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴」の作品とする著者の定義も不可能ではないのだが、俺からすればそれはむしろ逆なので、なぜニューシネマが「現状を打破しようする反体制的な要素と、あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴」の映画群という見解が的を外している〔ように俺には見える〕のか、具体的な作品を挙げて説明してみたいと思う。

ニューシネマの具体例

その具体的な作品だが、まずは翻訳でもなんでも駆使して英語版ウィキペディアの「ニュー・ハリウッド」作品リストをざっと見てもらいたい。

次に日本版ウィキペディアの「アメリカン・ニューシネマ」ページの作品リスト。

がんばって読みましたか?その顔は読んでないなお前ら。まぁいい、読んだ体で話を進めよう。「アメリカン・ニューシネマ」の作品リストに対して「ニュー・ハリウッド」の方はあまりに範囲が広くてちょっと面食らったんじゃないだろうか。なにせ「ニュー・ハリウッド」には『2001年宇宙の旅』や『E.T.』、1983年の『スター・ウォーズ/ジェダイの復讐』までも含まれているのだ。これは日本語で長年「アメリカン・ニューシネマ」に親しんできた映画好きには考えられないセレクトだろうし、こうした作品が含まれているのはおそらくそれぞれスタンリー・キューブリック、スティーヴン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカスという1970年代に頭角を現したハリウッドの新鋭監督の作であるためだろうと思われるが、ここまで作品の範囲を広げてしまうとぶっちゃけあえて「ニュー・ハリウッド」というカテゴリーで作品を括る批評的意味は全然ないんじゃないかと個人的には思う。

そのため「アメリカン・ニューシネマ」と「ニュー・ハリウッド」はここでは分けて考えたい。まず広義の「新しいハリウッド映画」として「ニュー・ハリウッド」のカテゴリーがあり、そのカテゴリーを更に細分化した一部が「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれる作品群である〔ということにしよう〕。というのは、上にリンクを貼った英語版ウィキの「ニュー・ハリウッド」のリストと日本版ウィキの「アメリカン・ニューシネマ」のリストは大幅に異なるが、「アメリカン・ニューシネマ」のリストに載っている作品は「ニュー・ハリウッド」にも含まれているからだ(もちろんこれは「アメリカン・ニューシネマ」の全部ではなく、あくまでもウィキペディアの執筆者が文献を参考に主観的に選出した作品にすぎない)

二つのリストに共通する作品をいくつか挙げると、たとえばマイク・ニコルズの『卒業』、スチュアート・ローゼンバーグの『暴力脱獄』、ジョン・シュレンジャーの『真夜中のカーボーイ』、デニス・ホッパー&ピーター・フォンダの『イージー・ライダー』、ジョージ・ロイ・ヒルの『明日に向かって撃て!』などがある。これらは日本でアメリカン・ニューシネマに言及される際の代表的作品なので、ニューシネマといえばこういうやつ、という映画好きな人は多いんじゃないかと思う。

これをパッと見てどう思っただろうか。いや、全部観たことがある人なら話は早いのだが、1本も観たことがないみたいな人に説明すると…実は上に挙げた作品はどれも「暴力やセックス」を主眼とした映画ではなく、『暴力脱獄』なんかいかにも荒っぽそうなタイトルなのだが、これはあくまでも邦題で、実際はその逆に一切暴力的な抵抗をしないキリストのような受刑者(ポール・ニューマン)の物語。『卒業』は学生と人妻の不倫ものだが露骨なセックス描写は俺の記憶ではなかったはずで、暴力に関しては主演が内気な学生(ダスティン・ホフマン)なので最後の最後に教会で十字架を振り回す場面以外はゼロ、血とか怪我とかはまったくない映画だ。

『イージー・ライダー』はバイク乗りがアメリカの荒野を旅する物語なのでこれまた荒っぽそうなのだが、監督兼主演のデニス・ホッパーとピーター・フォンダはヒッピーなので争い事はせず、ドラッグで平和にラリってぶらぶらとバイクを走らせてばかりいたら粗野な田舎者から一方的に撃ち殺されてしまうという非暴力の映画である。これにもヌードぐらいはどっかにあったような気もするがセックス描写とかはなかったんじゃないだろうか。『明日に向かって撃て!』は西部劇なのでこれらの作品と比べれば暴力的な要素は強いが、同年1968年公開のサム・ペキンパーによる西部劇『ワイルドバンチ』に比べたらお子様ランチのようなもので、映画の主眼はやはり『イージー・ライダー』などと同じように自由を求める若者の心情や行動を描く点にあり、そのため演出も軽妙なミュージカルのようである。

ニューシネマは「暴力とセックス」の映画ではない

以上から言えるのは、いささか帰納的ではあるのだが、アメリカン・ニューシネマは先の記事の著者が言うように「暴力やセックス」を〔主な〕特徴とするものでは無いということだ〔と俺は思う〕。ニュー・ハリウッドにせよアメリカン・ニューシネマにせよ、それは文字通り「新しいアメリカの(ハリウッドの)映画」というに過ぎない。これまでのアメリカ映画にない描写、主題、物語、人物、音楽、哲学…そういった要素があれば、ニュー・ハリウッドやアメリカン・ニューシネマとしてカテゴライズされたわけである。暴力やセックスはその中の一つとしてあるに過ぎない。

その論拠としてもういくつかのニューシネマ作品を挙げよう。ボブ・ラフェルソンが監督したジャック・ニコルソンの初期の代表作『ファイブ・イージー・ピーセス』は今で言うところの(逆にもう言わないか)マンブルコア映画の元祖のような1本であり、行き場所も人生の目的もない若い男(ジャック・ニコルソン)が実家に帰って居心地の悪い思いをするという文学的な作品。

フランク・ペリーの『泳ぐひと』は海パン一丁の富裕層のような男(バート・ランカスター)が次から次へと金持ち屋敷のプールを渡り歩いて(泳いで?)住民とちょっと話したりするだけという風変わりな物語。男の正体や目的は語られず、彼が最後に辿り着いた廃墟のような家はどうやら彼の家のようなのだが、そこで彼は泣き崩れて映画は終わる。暴力もセックスもストーリーらしいストーリーもないこの映画は不条理演劇の映画版といえる。

ニューシネマの代表的監督の一人である巨匠ロバート・アルトマンは素っ頓狂な戦争コメディ『M★A★S★H』で注目を集めるが、その後は実験的な作品を連発し、つい先日亡くなったシェリー・デュバルとシシー・スペイセクの奇妙な関係をなんとも形容しがたい神話的ムードの中で描いた『三人の女』や、タモリや松田優作など日本にも影響を受けた人間の数多い脱力系ハードボイルド映画の傑作『ロング・グッドバイ』などがその中でもとくに有名。

ニューシネマは男中心?

ところでアルトマンは元軍人で見た目もゴツイのて一見タフガイっぽいのだが、そのフィルモグラフィーは女性を主人公としてその複雑な心理を描いたものも数多い。前述の『三人の女』もメイン登場人物が全員女性だし、精神の崩壊を経験する人妻の恐怖を描いた『イメージズ』や、女性だけの同窓会とその崩壊を描く隠れた秀作『わが心のジミー・ディーン』などがそれにあたる。

『ロング・グッドバイ』にしてもレイモンド・チャンドラーの原作『長いお別れ』のムードや人物造型から大きく逸脱したこの映画はアメリカ的なマチズモを強火で皮肉る内容となっており、群像劇の名手でもあるアルトマンの群像劇の代表作『ナッシュビル』は脚本のジョーン・テュークスベリー(女性)を舞台となるアメリカ南部ナッシュビルに数週間滞在させてその間にナッシュビルで実際に起きたことを記録して脚本化するという手法が取られるなど、コワモテのイメージとは裏腹にアメリカ社会の「男らしさ」を批判し続けたのがアルトマンだった。例の著者の言う「(ニューシネマでは)女性中心的な映画はあんまり作られなかった」という発言がいかに〔俺の目から見れば〕テキトーか、アルトマンのフィルモグラフィーを辿るだけでも一目瞭然ではないかと思う。

ついでに書けば、「結局は男性というか、主に白人男性が中心であることは問い直してないんですよ」というのもまた〔俺の目から見れば〕テキトーである。アルトマンには『ビッグ・アメリカン』という白人によるネイティブ搾取をテーマとした西部劇もあるが、ネイティブ・アメリカンはニューシネマにおいてはその被搾取的な立場と、白人より劣った存在という価値観の誤りがむしろ強調され、『カッコーの巣の上で』や『ソルジャー・ブルー』といった作品はこうしたテーマや題材の代表作だ。とりわけ1970年の『ソルジャー・ブルー』は騎兵隊によるネイティブ・アメリカン集落の襲撃をベトナム戦争下1968年に起きたソンミ村の虐殺とおそらく重ねて描いた作品と考えられ、その強烈な虐殺描写によってアメリカの騎兵隊神話=白人正義を完膚なきまでに破壊する作品となっている。

ニューシネマは差別的なのか

それにしても「結局は男性というか、主に白人男性が中心であることは問い直してない」という発言には呆れてしまう。それは上に挙げたようなニューシネマ史上の重要作をまるで無視しているっていうか〔非常に知名度の高い作品である〕『ダーティハリー』も観てなかったぐらいだから単に観たことがないであろうと思われる発言のためもあるが、そもそも「ニュー・ハリウッド」もしくは「アメリカン・ニューシネマ」というカテゴリーが(白人の)批評のために作られた作為的なカテゴリーであることを度外視した上でそれを非難しているためでもある。

たとえばニューシネマと同時期のアメリカではブラックスプロイテーション映画というジャンルが興った。1971年の『スウィート・スウィートバック』を嚆矢とするこのジャンルは基本的には黒人ヒーローが悪徳白人をとっちめるジャンル映画であることが多いが(『黒いジャガー』や『コフィー』など)、黒人主人公が大活躍するジャンル映画という点で(シドニー・ポワチエのような先駆者もいるがポワチエはジャンル映画には出ていない)たしかに当時は新しかったこれらの作品を「ニュー・ハリウッド」や「アメリカン・ニューシネマ」に含めない合理的な理由はない。近年日本でリバイバル上映されて話題を呼んだバーバラ・ローデン監督・脚本・主演の『WANDA ワンダ』だってそうだ。

「アメリカン・ニューシネマ」もしくは「ニュー・ハリウッド」が差別的に見えるとすれば、それはそもそもそうした批評的カテゴリー自体が差別的なためであって、そこにブラックスプロイテーション映画や『WANDA』のような映画を含めるなら「主に白人男性が中心であることは問い直してない」とは言えないはずである。要するに例の著者は自分で〔映画史の本などを読んで〕決めた「これがニューシネマ」というカテゴリーを自分で見て「このカテゴリーには黒人映画や女性主人公の映画が入ってないから差別的」だと言っているのである。これはニューシネマの映画作家に失礼であるばかりでなく滑稽だし、だいたいニューシネマは映画運動ではないのだから「問い直していない」って誰に対して言っているんだろうか?運動の実態がないものに運動の責任を問うたところで、まるで意味がないと思うのだが。

ニューシネマのスターたち

ニューシネマの監督たちの名前はもうだいぶ出たと思うので、役者の方にも少し触れておきたい。ニューシネマの男性スターとしてはデニス・ホッパーやジャック・ニコルソン、エリオット・グールドや『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』『いちご白書』などで強烈な印象を残した童顔バッド・コートなどが挙げられると思うが、ポール・ニューマンのようなわかりやすい男前もまぁいるにはいるとしても、全体としてみればやはりわかりやすい男前ではない、その代わりに個性の強い役者が多いように思われる。

これは女性スターも同じで、シェリー・デュバルや『地獄の逃避行』のシシー・スペイセク、『イナゴの日』のカレン・ブラック(ブラックスプロイテーション映画をニューシネマに含めるならパム・グリアも!)など、見た目も演技の質もそれまでの「ハリウッド女優」と比べると相当に異質であり、ニューシネマの時代はこうした個性派女優がその個性を存分に生かすことのできた時代でもあった。あくまでも俺の目から見ればだが、それに比べれば美形女優しか主役級では活躍できていない今のハリウッドの方がよほど差別的ではなかろうかと思う。

まとめ:インフルエンサーがテキトーなことを言ってはいけない

見出しだけで言いたいことが終わってしまった。しかしもう少し書けば、素人ならまぁテキトーなことを言ってもある程度は許されるというか、知識がテキトーでも仕方が無いか、素人だし、となるが、批評家を名乗ってメシを食っている人間がテキトー〔と受け取られかねないこと〕を言うとそれが既成事実になってしまいかねないので、そういうことは恥ずべきことだと思ってください。

わからないならわからないと素直に言えばいいじゃないですか。なんで〔俺の目から見て〕知ったかぶりして、しかも〔俺の目から見て〕知ったかぶりした上でこれは差別的だとかなんとか非難する〔かのような記述をする〕んですか。批評家である以前になんらかの学に携わる者としてその態度はおかしいと思わないのかと中卒の俺は思いますよ。こっちはな、中卒だが映画だけはクソみたいな数観てるんだから大卒のしかも大学の先生をやっている人に俺の専門分野で〔俺の目から見て〕超テキトーなことを言われると「ハァ!?」ってなるんだよ…!

追記:ニューシネマをよく知らない人に見てもらいたいニューシネマ

せっかくこれだけ書いたのに他人を批判するだけで終わってしまうのもなということで、ニューシネマをよく知らない人に俺がぜひとも観てもらいたい作品をいくつか挙げておこう。

俺はアルトマンが大好きなのでやはりアルトマン作品は外せない。すでに文中に何度も出てきているが、中でも『ナッシュビル』『三人の女』それから『雨に濡れた舗道』あたりはマスターピースだし、ニューシネマのイメージがガラリと変わる作品なんじゃないだろうか。個人的には『バード★シット』とか『ロング・グッドバイ』も激推しだが、このへんは確実に万人受けしないので、まぁ…ただ『ロング・グッドバイ』は松田優作のTV版『探偵物語』の元ネタになっていたり、タモリがアルバム『ラジカル・ヒステリー・ツアー』でパロディにしていたりと、これも前述だが日本の芸能界にも与えた影響は大きいので、面白いかどうかはともかく観ると「これが元ネタかー」となるかもしれない。

『ダーティハリー』が合わなかったという人は警官ものの『グライド・イン・ブルー』を観てみてはどうだろうか。白バイ警官に憧れる主人公がついに念願の白バイ警官となるも仕事をする中で警察の腐敗を知って幻滅し最後は…という哀しい映画なのだが、延々続く長回しで撮られたこの哀しくアメリカ社会への怒りというよりも悲鳴のようなものが映像を通してこだまするラストはあまりに素晴らしい。刑事ものならほかに『破壊!』も傑作だが、これは観るならぜひとも伊武雅刀と尾藤イサオのコンビによる味ありすぎ吹き替えで。

自殺ごっこと葬式出席が趣味というクセ強青年がアウトローな老婆と出会って恋愛関係になる(セックスもちゃんとする)『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』は奇抜な設定によりカルト作になったが、本質的には純愛映画。美形の常識人同士の恋愛ばかりが映画の中でもてはやされる昨今なので、人は外見ではないと軽やかに謳い上げるこの映画の提示する恋愛の形は今なお斬新、強烈な輝きを放っている。

ブラックスプロイテーション映画はサントラ盤が人気の作品が多い。『黒いジャガー』も「シャフト!」とシャウトするテーマ曲がヒットしたらしいが、ブラックスプロイテーションに分類できるかは怪しいも、黒人が主人公でサントラ盤が人気の『110番街交差点』も観ておきたい作品。黒人刑事ヤフェット・コットーが人種差別主義者の白人刑事アンソニー・クインとコンビを組んで反目しながらマフィア関連の事件捜査にあたり、少しだけお互いを理解するようになる展開は、さながら1970年代の『夜の大捜査線』。

あまり面白い映画ではないが『ファイブ・イージー・ピーセス』や『泳ぐひと』は観ると「反逆と暴力とセックス」というニューシネマへの偏見がおそらく無くなってくれる作品なので、観るとなんというか人間的に豊かになれる。ニューシネマはその名の通り新しい映画であり、そこではジャンルの枠や物語の定型に囚われない実にさまざまな映画が作られたということが、このへんの作品を観るとよくわかるんじゃないだろうか。

とまぁいくつか挙げた後でこう書くのもあれですが全部おもしろいからニューシネマと呼ばれてるやつは全部観たらいいとおもいます。面白い、といってもそれは王道のハリウッド映画の面白さとは全然違う。こんな物語もあるんだとか、こんな表現もあるんだとか、こんな人間もいるんだとか、そういう自分の知らないものとたくさん出会えるのがニューシネマの面白さで、あえて一時代のアメリカ映画をニューシネマとして括る意味があるとすれば、それはその作品群がこうした「新しさ」を観客に与えてくれるからじゃあないでしょうかとおもいます。みなさん映画を観まくりましょう。北村さんもね!

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