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文化研究における出典の意味について〔この記事には独自研究が含まれます〕

さいきん色々あって(適当に察して欲しい)俺としては「えっそうなの!?」と思ったことがあるのだが、それというのは世の中のどれくらいの割合なのかはわからないが、どうやら出典があることを評論におけるある種の「品質保証」として感じている人が少なくないらしいということだった。

これは俺にはない視点で、なぜなら文化の評論というのは俺の今まで読んできた限り、そのすべてが著者個人がその対象(マンガでも小説でもなんでもいいのだが)をどう見たか、という表明でしかなく、それがないものは評論ではない。したがって本来的に評論における出典の有無はその評論の正当性とは直接的には(この意味は後で述べよう)関係しないはずなのだが、出典があるかないかがその評論の正当性を担保するという、あえて名付けるとすればウィキペディア主義のような考え方があることに、驚いたのだ。

「評論はそのすべてが著者個人が対象をどう見たかという表明である」。ではこの命題はどのように証明可能だろうか。実はそのために出典は必要ない。どれほど知識のない人でも経験に照らし合わせて少し時間をかけて論理的に考えようとすれば(これが意外と難しい人もいるのだが)必然的に導き出すことができる、と俺は信じている。だからその理路を、ここでは書いてみよう。

※本来であれば「典拠」と書くべきところを、この文章ではあえて「出典」にしている。理由はたぶん出典に比べて典拠という言葉は一般的に馴染みがないと思われるから。


人間が見る世界には「わかること」「わからないこと」「そういうことになっていること」の3種類がある

これについては以前「林眞須美を信じないでも和歌山毒カレー事件の再審はした方が良い理由」という記事を書いたのでそちらも参照してもらいたいが、人間が世界を見るときに、それは「わかること」「わからないこと」「そういうことになっていること」に分割される。「わかること」というのは、人間が観察することで証明できるもので、これは観察によって明らかになるわけだから主観的なものだ。

では「わからないこと」とは何かというと、たとえば宇宙の起源や人間の心の仕組みはさまざまに理論を立てることはできても、直接観察することはできないので、人間の目には実際どうか「わからない」。けれども宇宙の起源も人間の心も観察はできなくても存在することはわかっているし、どのような仕組みかは人間にはわからなくても、実際になにかしらの仕組みで動いている(いた)のは間違いないので、主観的には「わからない」が、客観的にはなにかしらが「ある」。これが「わからないこと」だ。

そうした「わからないこと」についても、先に書いたように様々な理論を立てて、実験を重ねたり、統計を取ったりすることで、それを直接観察することはできなくても、いわば状況証拠をたくさん集めて「おそらくこうであろう」と考え、人々の共通認識とすることができる。これが「そういうことになっていること」、ここでは便宜上「共同主観」と呼ぼう。

この「わかること」=「主観」、「わからないこと」=客観、「そういうことになっていること」=「共同主観」を、事件と裁判の例で考えてみよう。窃盗事件が起き、目撃証言の特徴と近いことから、ある人物が逮捕された。この場合、窃盗事件という「出来事」が起き、その犯人が存在する、ということが客観的事実であり、目撃証言と近いためある人物が犯人だとするのは、物証ではなく状況証拠によるものなので、主観的判断ということになる。この人物の裁判では裁判官が弁護側と検察側のの立てるそれぞれの理論を勘案し、どちらが真実か決定する。これが「おそらくこうであろう」という共同主観ということになる。それを図にすると↓のようになる。

勘違いしてはいけないのは、上の図における客観ー主観ー共同主観は、すべて別々に決定されるということだ。ある「出来事」について、それが客観的には事実でも、主観的には事実ではないと誤認され、更には主観に反して共同主観のレベルでは事実と判断されることもある。客観的に事実であるかどうかということと、主観的・共同主観的に事実とされるかどうかということは、関係がないのだ。

「出来事」は出典で証明できる、「解釈」は出典で証明できない

あれ、出典がどうのの話からずいぶん遠いところ行ったね?と思われるかもしれないが、人間の見る世界は「わかること」「わからないこと」「そういうことになっていること」の3種類に分かれる、と上で確認したのは、それが出典と密接に関わるものだからだ。端的に言えば、出典とは「出来事」の証明にのみ必要なものであり、それ以上の意味は持たない。そして「出来事」は上の窃盗事件の例を見ればわかるように、客観的なものだ。

たとえば、ある人物が西暦何年にこんな科学的な発見をした。これが「出来事」であり、それは昔の出来事なので直接観察することはできないとしても、様々な証拠=出典を集めることで証明することができ、「共同主観」とすることができる。

では、この「出来事」に対する「その発見により、科学は大きく進歩した」という「解釈」は、出典によって証明することができるだろうか?出典が多数あれば、証明できるように一見思えるかもしれない。ところが、これは誤りなのだ。なぜかといえば、この場合に出典で証明されているのは「その発見により、科学は大きく進歩した」という個々の出典の記述があるという「出来事」に過ぎず、つまり、出典元にはこのように書かれている、というそれだけのことなのだ。

「その発見により、科学は大きく進歩した」という解釈は、たとえば「その発見により、〇〇理論が実証され、△△が発明され…」という風な、複数の別の「出来事」を接続する理論であり、これは主観的な判断ということになる。そして主観的な判断の真偽は、出典では証明することができない

「出来事」は公理、「解釈」は命題、「定説」は定理

文化の評論は、上の場合の「解釈」に相当する。たとえば、エドガー・アラン・ポーは何年に生まれ、何年にどんな作品を書き、何年にどこで死んだ、という「出来事」のみを出典に基づいて記述する場合、一般的にこれは評論文ではなく評伝として理解されるだろう。対して、それらの「出来事」に著者の解釈を付すならば、これは評論と呼ばれる。

ところで、先に例に挙げた科学史の解釈と比べると、文化の解釈は主観に依るところが著しく大きく、個々の「出来事」にどのような連関があるか、「大きな共同主観」を形成するのは困難といえる。ポーを再度例に挙げるなら、「ポーは『黒猫』を書いた作家である」という出来事を出典によって証明することは容易だが、「ポーはダゲレオタイプ(※初期の写真)に触発され『黒猫』を書いた」という俺が以前読んだ解釈は、ポーがダゲレオタイプの仕組みを解説する記事を新聞に書いたという「出来事」と、ポーがその後に『黒猫』を著したという「出来事」を紐付けた理論だが、これを証明するだけの出典=状況証拠を集めることは難しいように思われる。

数学用語で公理とか定理とかそういえばむかし学校で学んだことがあるなぁという人は多いと思う。公理とは要するに絶対に動かない客観的事実であり、定理はそれを用いて証明された命題(「これは〇〇である」というような判断)のことだ。それをこの例に当てはめるなら、公理が「出来事」であり、命題が「解釈」であり、そして定理は「共同主観」、すなわち定説ということになるだろう。

評伝は出来事の羅列であるため定説化ができても、評論はあくまでも著者の解釈=命題に留まるところが、その特徴と考えられる。ではこれは証明することができないのかというと、命題は、それを「引用」=「出典」して証明が試みられる中で状況証拠が固まっていくものであるから、評論は出典を付すことではなく、逆に出典になることで定説化されていくということになる。

コンスタティブな言葉とパフォーマティブな言葉

ここで、考えを深めるためにコンスタティブとパフォーマティブというテツガクの用語を取り入れてみよう。コンスタティブとは、「これまでの事実を確認するための言葉」という意味で、これはこの文章の文脈では「出来事」を示す言葉ということになる。先程の例を再度引けば、「ある人物が西暦何年にこんな科学的な発見をした」、これがコンスタティブな言葉だ。「出来事」を示す言葉であるから、コンスタティブな記述は普遍性を持ち、変化することがない。

一方、パフォーマティブな言葉というのは、「これからの事実を作るための言葉」であり、この文章の文脈では「解釈」を示す言葉ということになる。こちらも先程の例を再度引けば、「その発見により、科学は大きく進歩した」は、パフォーマティブな言葉だ。解釈が命題と等価であることは先程確認したので、パフォーマティブな言葉は流動的で、変化をする。

コンスタティブとパフォーマティブのそれぞれに振り分けられる属性を整理しよう。コンスタティブな言葉に振り分けられるのは、客観、過去、不変といったものであり、パフォーマティブな言葉に振り分けられるのは、主観、現在もしくは未来、流動といったもので、ここから、定説=定理=共同主観は、コンスタティブな言葉とパフォーマティブな言葉のどちらでもあることがわかるだろうと思う。

評論は、繰り返し引用されることで定説になる

このコンスタティブな言葉とパフォーマティブな言葉の間にはどのような関係があるだろうか。実は、すべての言葉は本来的にパフォーマティブなものだ。それは公理もまた発見されるまでは命題に過ぎないのと同じことで、「地球は存在する」ということでさえ、原始時代ならばコンスタティブな言葉ではなく、その「地球は存在する」という言葉によって、地球は存在することを人々に確認するよう促す、パフォーマティブな言葉なのだ(原始時代の人なら地球がなにかそもそもわからないかもしれませんが)

以上のことから、評論、とくに文化の評論においては、その評論=命題に含まれる「出来事」が科学評論に比べて少ないがために、これを定説化することは難しいこと、そして、言葉のパフォーマティブな性質によって、その評論がいくら「出来事」を証明するものではなくても、引用=出典となるたびに定説化の度合いを増していき、この定説は科学の定説=定理と異なり著しく「出来事」=客観性を欠いていることが、わかるのではないかと思う。

要するに、すべての文化評論は、根本的には「わたしはこのようにそれを解釈した」以上のものには決してならない。客観的な評論というのは存在しないし、客観的な解釈も存在しないのだ(より正確に言えば、客観的な解釈は存在するが、それは人間には「わからない」ことなのだ)

なぜ文化評論における出典の意味を理解することが必要か

こんなおとぎ話を考えてみてもらいたい。あるところにタヌキさんの村があり、その村ではむかしむかし森の中に入ったタヌキさんがオオカミに襲われて食われたことから、森の外には凶暴なオオカミがいるから近づくなと代々語り継がれ、その村では森の外には凶暴なオオカミがいることが「事実」となった。ところがある日、なんでか森に迷い込んでしまった村の若いタヌキさんがオオカミの群れと遭遇したら、そのオオカミたちは木の実と昼寝が大好きでヴィーガンだからタヌキは食べない平和なオオカミだった。そのことから村に帰った若いタヌキは「森の中に凶暴なオオカミがいるというのは間違いで、森の中のオオカミたちは平和です」と言う。それを聞いたタヌキ村の長老たちはオオカミに関する新説を一蹴して、君の話はウソだ、と相手にしない。若いタヌキはでも私はこの目で見たのですと訴えるが、長老たちは森の中のオオカミは凶暴だというのは代々語り継がれてきた事実であり、自分たちはこの目ではオオカミを見ていないが、それは間違いないと言うのであった。

この場合、村の長老たちの言葉はコンスタティブな言葉であり、若いタヌキの言葉はパフォーマティブな言葉だが、長老たちの言葉は「以前からオオカミはこういうものだと言われている」ことを確認するだけの言葉であり、実際のオオカミがどういう存在かという客観的な事実とは、なんら関係がない。しかし、おそらく多くの人たちは村の長老たちの話の方を若いタヌキの話よりも信じるだろう。なぜそうなのかというのは心理学上の難しい専門的な話であろうから、よくわからないし、その心理を解明するのは難しいのではないかと思われるが、とにかく人は出典がない話よりも出典が多くある話を「事実」と見なす傾向があるらしい。それは言い換えるなら、「権威主義」と呼ぶことができるだろう。つまり、出典を評論に必須かつ至上の価値を与えるものと見なすウィキペディア的発想は、権威主義の別名に過ぎないのだ(というかそもそもウィキペディアは「事典」であり、「評論」ではないのだから、これらを混同することがおかしいのだが)

権威主義が人々を悪い方向に導いた事例はあまりにも多いのでいちいち例示する必要はないかもしれない。たとえば、関東大震災後の朝鮮人虐殺は、朝鮮人が混乱に乗じて毒を入れたとかの噂話を、新聞が取り上げたことで、これを加速させたことはよく知られている。ここで重要なのは噂話が本当かどうかということではない。新聞という「出典」があれば、人はそれを根拠に、噂話が「客観的に」事実かどうかは問わず、自衛という名の虐殺をも起こしてしまう、ということだ。

あるいは大本営発表を例に挙げてもいいかもしれない。実際の戦局がきわめて厳しいものであっても、大本営は国民の士気を維持するために虚偽の勝利報告を行ったり、自分たちの有利になりそうなことなら、実際の出来事よりも大きく誇張して伝えたりする。これを国民が鵜呑みにしたことで太平洋戦争中の日本がどこへ向かったかは、広島や長崎の人に聞かなくても、義務教育を一応受けた人ならほとんど誰でも知っているだろう。大本営発表もまた「出典」なのだ。

差別もまたこうした権威主義の賜物だ。差別心というのはたいていの場合で決して一朝一夕にできあがるものではない。たとえばある人種について様々なところで悪いことが書かれているのを読んだ人は、その「出典」に基づいて、その人種を悪いものだと考えるようになるのは、きわめて自然なように俺には思われる。「出典」の積み重ねがどのように差別を形成するか、その過程に興味がある人はカルチュラル・スタディーズ(文化研究)の古典『ユニオン・ジャックに黒はない』を読んでみることをおすすめする。ちなみにこの本で書かれている文化の「解釈」は、当然ながらすべて著者の独自研究であり、「出来事」を示す以外に出典はない。

文化評論における出典の正しい意味を理解することは、こうした危険な事態に陥らないために必要なことではないかと思う。それは自分の身を守るためでもあるし、他人をいたずらに傷つけたりしないためでもある。長々と書いたが要するに、文化評論の良し悪しを判断するなら、「出典」という権威に安易に依存せず、自分の目で評論の対象となっているものをちゃんと見ろ、これに尽きる。そしてそれができないなら、せめて黙っておくべきではないかと、俺は思うのだ。

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