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演劇と販促についての本音。今の気分で書き記す10項目、わりとガチ内観。夢と目標、願いと迷いの話。

本日は演劇と演劇の販促に関するノート。ただ、いつもとはちょっと趣向を変えまして、演劇と販促についての内観でお送りします。2019年1月の時点で私自身がどのように捉え・どのように考え・どこを目指しているのか。

通常発信しているノートはひと様にお見せすることを前提としておりますし、多少やわらかい表現にしている部分もありますが、今日は完全に内側の声のノート。いわゆる本音というものです。それぞれの項目に対してのとらえ方・考え方・価値観。対クライアントでもないし、対ユーザーでもないので私個人の葛藤とか苦手ポイントとか好みとか汚いところとか、そういうものもバンバン出てくると思う。いつものノートと印象が違うとか、そういう人だったの……というのもあるかもしれない。なので、もしもあなたが私のノートに対して「演劇を愛しているのだなぁ」「業界のことを考えているのだなぁ」という印象のままにしておきたいという場合には読まずにそっと、このページを離れてください。

なんて、釘を刺すポーズなどとってみましたが、結局のところ仕事をする人間であれば当然のように考えることを演劇業界に当てはめているだけです。ビジネスとかお金についてネガティブな印象を持っている人からしてみたら汚く見えるかもね、くらいの感じ。それではサクっと行ってみよー。

今の気分で書き記す、10項目の本音。

公演チラシ・宣美仕事について

公演のチラシは演劇公演の際にもっとも広く、もっとも多く使われる販促ツール。扱いとしては新聞に折り込まれているスーパーのチラシと同じ。アーティストの作品のように「わかる人だけわかればいい」という物ではない。ビジュアルで世界観を示しているからお洒落感が醸されたりするだけの話で根本は同じ。お客様の興味・注意を引けないチラシなら無くてもいい。直接集客に結び付くだけのチラシが作れたら万々歳だし、少なくとも私はそういう仕事を目指している。

誰のためにデザインしているのか

作品のため、作品に携わってくれるみんなのため、とか耳ざわりのいいことを言いたいけど、一番は役者のため。宣伝美術の最初のお客様は制作スタッフと演出家・役者。その人たちが喜んでくれて・納得してくれて初めてお客様にお出しすることができる。劇場の置きチラシとして見た時に目立つかどうかというのも大切だけど、一番は役者が持ち回りで宣伝したいと思えるチラシかどうか。役者が自分の次回出演作を宣伝して歩くのに、チラシを持っていないとか積極的には出してこないケースって存外多いけど、それは宣伝美術が求められるだけの仕事をしていない公演だというケース。役者が宣伝に困るような芝居を「おもしろそう!観たい!」となるわけなし。

自身がスタッフとして関わるということ

売上を上げる・お金を生むための活動のサポート。私は販促ツールを作るデザイナーであるので、問題解決であるとかお金を動かすことに常に意識を向けて仕事をしている。だから「表現したから満足・納得」という発想にはならない。絶対にならない。集客や動員という言葉はとても気になるワードだし、たぶんきっと、ファンが満足してくれたらそれでいいという人とは理解し合えない。それはそれでひとつの価値観だと思うから否定はしないけど。お客様にはやっぱりチケットやリピート観劇、あるいはグッズなどにお金を使って欲しいし、それでも満足だ、使った金額以上に得たものがあるという満足を提供できればいいと考えている。納得して気持ちよくお金を使ってもらえる方法を考えるのが自分の仕事。これは自分自身が気に入ったものにはバンバンお金を落とすタイプだからこそ思うんだろう。

演劇の販促について発信する理由

演劇分野の質が高まる可能性がほんのわずかでもあるのなら、販促に携わる人間がそういう視点をシェア・発信する価値はある。質が高まればお金を動かすということ・ビジネスに対しての意識も変わってくるであろうよ。お金を待っていたって向こうからやってはこない。それにいつどこで誰が読んでいるかわからん。発信しなきゃ伝わるものも伝わらん、広まるものも広まらん。

理想と思う働き方

会社員デザイナーとして働きながら、宣伝美術としての依頼を受けている今の状況は理想に近い。バランスで言うと宣美仕事をメインにしたいところではあるけれど、生活費も活動費も確保しながらカツカツにはならず暮らせている。今後人生の転機が訪れたらどうだろうと考えたりもするけれど、それはそれ。悪化することはない。つまり私の場合はデザインを軸にして2つの活動パターンを持っているということ。そしてもっと増やしたい、もっと広げたい。演劇関係もこれができるようになるのが理想なのではないかと思う。役者なら俳優業と講師的な仕事だとか。一方の仕事がもう一方の仕事を刺激し、補い、高め合えるようなもの。それには業界の文化や仕組みとの戦いもあることはわかっている。だけど実現が難しいからって諦めたら何も変わらんよ。

サイトの更新にこだわる理由

プロフィールサイトやブログなどの更新を促す発言を度々している私のことを不思議に思う人もいると思う。直接の活動とは関係もないし、公演や新着情報もないのにそんなに必要?って。はい、必要。メリットが無いなら私が促すはずもない。たとえば「宣伝美術」ってワードでググった時に私のノートが上位に表示されるのはつまりそういうことです。私、noteをはじめてまだ一年も経っていないのに。noteはSEOに力を入れているから尚更というのはあるけども、お金を掛けずに情報を検索の上位に上げられるというのは凄いこと。特に役者であるならば、140文字でゆるゆると日常を流すTwitterより、プロフィール・略歴・出演情報が上がってくることが有用でしょう。目に見えて反響があるようなものではない。地味だけど大切。超大切。

リサーチとフィードバックの意味

先に述べたお金を動かすということ、理想の働き方あたりに繋がる話。演劇公演に関するリサーチは無意味だと言う人も少なくないんだけども、私はそうは思わない。「現状の把握」「課題・問題の洗い出し」「対策・目標設定」は重要。推移や予測は大切、個人情報に触らずとも読めるデータなら安心して大いに活用した方がいい。活動資金の維持という点から見たって、少しだって枠が広がった方がいいでしょうよ。人の助けは借りない、万が一人を集められなくてもすべて自分でなんとかする、赤が出たなら文句も言わず被る、それらのことを喜びとしていて自ら望むというのなら何も言わない。

自分を道具のように扱うクセのこと

私はどうも自分自身を道具のように扱うヘキがある。会社の仕事にせよ宣伝美術の仕事にせよ、仕事をする上ではこれがとても役に立つのだけど、気付かぬうちに自身の負担が増幅するのもまた事実。特に自分が情熱を傾けられる仕事であったり、フォローしたいと思う対象についてはそのことばかりに意識が向いてしまう。ただ、そこまでになるのは経過にコミュニケーション不足を抱えている場合。「意思の疎通が図れないからやれること片っ端から全部やっておけば間違いないだろう」とやった結果にカッカしっ放しだったりバーンアウトしたり、そんなイメージ。そりゃまぁ、相手からしたら「そこまでやって欲しいなんて言っていないし」「つか勘弁してくれ」だろう、ドン引きだわね。実のところ尽くすというのとは違うし、そういう時は大概「これやったらどうなるんだろう?」「こういうのはどうだろう?」と、自分の好奇心・興味関心が向いたから好きでやっているんだけど、まぁ、巻き込まれる側からしてみれば「それ、よそでやってくんない?」というのもあるだろう。

演劇に執着がないということ

演劇は好き。宣伝美術の仕事も好き。だけど演劇業界じゃなきゃならないかといえばそうではない。ただ単純に私が「この人を応援したい」「この人の力になりたい」と思う対象が演劇業界にいるというだけの話。また、現状そういう人々が私の力を必要としてくれるから演劇業界にいるというだけの話。シンプル。好きな人の力になりたくて、求められるなら期待に応えたくてそこにいるってだけの話。「もうあなたの力は必要ない」と言われれば「左様ならば、さようなら。」だ。

その場所に自分が必要か否かという意識

求められる場所で求められている以上の働きをしたい、必要とされるならばそれに応えたい。ただそれだけ。相手のために、自分のために。損得だけならさようなら、愛着だけならさようなら、狭い視野ならさようなら。見つめ合う関係はいらない、傷を舐め合う関係など消えてしまえ。同じ方向を見られる相手のことだけ応援する、そういう人たちが愛する世界のためなら自分にできる限りの力添えをする。その場所に必要とされているか、その場所を必要としているか、それは常に見定める。同時に、現状自分自身応えられているだろうか?応えられていないとしたら?相手の見ている方向・見たいと思っている景色を理解し、共有できているだろうか?共有できていないとしたら?と突き付ける。誰とどんな景色を見たいのか、常に考える。

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なぜこのノートを書いたか

「こういう話をする機会って意外とないな」と思い立ち、今の自分の感覚を把握する良いタイミングだと思って書き出してみました。勢いで書いたから粗いところもたくさんあるし、演劇の世界でガッツリ仕事をしている方からしたら「は?なに言ってんの?」みたいなのもあることでしょう。でもいいの、内観だから。こういうパーツが寄せ集まって私のアウトプットのための骨組みが作られ、そこへ「お客様に届けたい・喜んでいただきたい」「役者・関係者を激励したい・サポートしたい」という肉がついてゆくのです。宣伝美術としての姿勢、技術、人格などが問われるのはこの肉付けの部分。そこでどれだけ愛を傾けられるかだと考えています。

そんなことを言い切る人間が抱える迷い

今回「今の自分はこう考えている、外からの見え方は知らん。」という具合で書き進めてきましたが、それは単に「世の中に万人受けなど存在しない」と割り切っているだけであって、正直自信なんて全くありませんし、毎日迷ってばかりです。実のところ今だって迷いのさなかで、だからこそ内観する日々なわけです。譲れるもの譲れないもの、こだわりのあるものこだわりのないもの、そういう部分を延々と洗い出す毎日です。

それからこれはずっと個人的なことですが……。2015~2017年には、過去10年ばかしの時間をかけて目指していた願いが叶いました。現実は残酷で、目指していたはずの夢の実現は結局涙に暮れる時間であったけれども。そしてまた、夢や目標というのは目指しているうちはいいのですけどね、叶ってしまったらすんごい虚無感なのよ、当たり前だけど。願いが叶った時点で目指したものすべてが消えてしまうんですもの。

その後、2018年から新たな目標や夢を探しているもののいまだ見えず。深い深い森、立ち込める霧。誰の声も届かないし誰にも声が届かない、そんなイメージ。必死になって探すけど人の気配も無い様な。そんな具合で「目指す場所」という意味ではずうっと靄の中にいます。さすがにそんな時間が長くなってくるとげんなりしてくるもので。そろそろ動き出したいぞと思いながら、ひとまずは今立っている場所を見つめるのでした。

まぁ、誰と何処かに向かうのでもいいや、ひとりで何処かに向かうのでもいいやと思いながら、自分のペースで未来のことを考えてゆくとします。ぼちぼち。


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