勝つためのシステムコマンド(魔法学入門) ~宇宙ゲームへの回帰~
♪ 心臓が始まったとき嫌でも人は場所をとる
♪ 奪われないように守り続けている
bump of chicken カルマ
要するにこれがカルマだ。命と命はぶつかり合う。だから人は生存競争を義務付けられる。物質を信仰していたらそうとしか思えない。
だが、実際には人生と人生は重ね合わせることができる。
人生の視点で見れば、並走しながら高め合う命の在り方も意味としては目立つが、実は相容れない命こそが大きな意味を持つことも同じくらい多い。極端な話、殺し合う関係すらお互いの人生を高め合うことがある。
相手を殺してこそ、あるいは殺されてこそ意味が満ちるというのも人生の素晴らしさだが、これを逆手に取れば、自分が死を迎えるより、自分が生きていることで相手の人生へ意味を付与できるのなら、殺される必然が根本的に解消する。(なお、死とはすべて殺されることである。)
物質的な命の視点がフェルミ統計に従うとしたら、意味を担う人生の視点はボーズ統計的である。フェルミオンもボゾンももともとは弦の波に違いないので本質は同じだが、スピンの偶奇性(1/2の意味するところとはなんだろうね?:幻想を実在と見なすためのズレとでも言おうか…)で視点が全く変わる。
生きているうちにフェルミオン的な視点から抜け出して、ボゾンの領域に踏み込むことができれば、カルマも超えられるし、生存競争を競技という視点に置き換えられる。その先では、生と死の本質にも理解が広がる。
なぜ本来はシンプルで公正な宇宙ゲームがハードモードとなるか。
それこそ、からだを持つ存在の多くの視点がフェルミオンだからである。もちろん、こういうハードモードであるからこそ、そこでしか成り立たないミニゲームにもリアリティが生じる。このリアリティの多くは不公正であることによって発生する偶然性に、その娯楽性を確保しているから、宇宙の公正さは死と忘却を用意して選手(演者)の交代を行う。(これを感知できれば、ロールズの正義は非常にリアリティを持つ。)
宇宙とはとことん公正なのである。
そして、宇宙はその権限を行使するとき、人生の意味という単位に着目するのだから、本気で長生きをしたければ、己の人生の意味と、己の命が他者の人生に与える意味的な影響を感覚していかなければならない。
ひとつのケースとしては、己の死よりも己の生の方が、あらゆる人生の意味に寄与するように、己の人生の過程を制御するのもありだろう。目立たず、それでも不可欠な形でほんのり役に立つ、という在り方は、手軽に推奨できるかもしれない。
正面から相手の恨みを買うのは、己の存在が生としては人生の障壁として攻略の対象となるだけで、逆に己の死は障壁の除去と人生の意味への覚醒という大きな意味を与えてしまう。こんなのは人生を意味としてとらえられる霊長の知性からすれば論外だ。
しかし反面、世界に対して表面上いい仕事をし過ぎるのも、彼がいなくなった方がその役割を踏襲できる他の人の人生が際立ちやすい。善も悪もキャラが立ちすぎる場合には、あまねく人生にとって、己の死に意味を持たせやすくなってしまう。
そうなると、人生の意味をまずは己のみで際立たせることが先決であり、その余波として世界へ影響をこぼす方が無難だ。善でも悪でもない在り方は最も己の死に余計な意味を与えない。
己自身の在り方に深く充足しつつ、誰もが本当に求めることだけを的確に埋めつつも、当たり前すぎて感謝されない程度にとどめ、宇宙にすらその物質面の仕事に気付かれない、というのは在り方としては面白い。貢献が物質的側面ではなく、その意味的な価値がほんのり漂う程度が一番なのだろう。
実際、ここまで自分の生き方を掘り下げたうえで人生を設計していれば、己の在り方に充足できないわけもなく、あらゆる障害が(偶発的な)構造(シナリオや舞台装置)の問題として、究極の機能を必然的に獲得する演出の妙を知ることができるようになる。
これは宇宙との対話を覚えたという状況であり、ここに至れば死に伴う忘却が次の生の障害となる可能性が消滅する。場合によっては忘却すら起こらなくなる。物質としてのからだが命の本質ではないと理解してしまって、それが現実幻想よりも優先されるのだから当然である。
(ここに至って、一番深層にある無意識が意識化される。マルクトからケテルへのルートが確立されるという言い方もできるし、チャクラが全て活性化してクンダリーニが覚醒するともいえるし、要は本当の意味で魔法が行使できるようになる。宇宙とともに世界の管理者となる。)