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哲学論考

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#格言

小説を哲学へ。

小説を哲学へ。

 まず、なぜこのような考察が可能なのか。それは本当のところ、小説で表現できること(伝えられること)と哲学でできるそれが同じだからである。(当然だが技法が違うのだから伝わるものは全く同じでない)してみれば我々には、突然だが[小説をする]という表現が可能なのである。
 とすれば、私が今から論じるべきは技法についてなのだからそれについて今からは述べることにする。すなわち、例えば我々は小説では同情するし、

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小説とは何か。

小説とは何か。

 まず、このことを論ずるにおいて断っておきたいのだが、私はここで小説を定義するというよりかは、小説とはこうであってほしいという[願望]を述べることのみをする。(押し付けがましく感じられるかもしれないが)
 さて。(率直に言うが)私の願望では小説は[人間なるもの]を専ら描写して欲しいのである。だからつまり、物語というものを主体とすることで[その登場人物]を描写することのみを私は嫌っている。そうではな

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自己啓発本について(自己啓発本が嫌い)

自己啓発本について(自己啓発本が嫌い)

 自己啓発本を読む目的は何か。それは言ってしまえば、賢くなるためだろう。だがしかし、人が教え込んでそうして伝わるものは、その個人が受け取り吸収できうるものはどれ程だろう。私の自説では50%もないだろう。まあこれは言うまでもなくひどい数字である。
 ではなぜそうなのか。それはまさしく[人の意見]でしかないからである。すなわち、[個人特有の経験や思考とは異なった意見]でしかないからである。してみれば、

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(その5)知性改善論(知性の優劣について、それはどのようか及びどのようにそれは起こるのか)

(その5)知性改善論(知性の優劣について、それはどのようか及びどのようにそれは起こるのか)

 確かに、知性には優劣がある。というのも、人それぞれできることとできないことがあるからである。(それはもちろん得意不得意のことである)分かりやすい例を挙げると、教科である。なぜだかそれには得意不得意がある。まあ、これは言うまでもなく個人の「特性」でしかないのである。(そうだから断っておくがそれがない人もいるがそれはそれでその人の特性でしかない)
 さて。このことから知性のとりあえずまず、優劣の前に

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生きづらさについて(人望と知性)

生きづらさについて(人望と知性)

 まず、基本人は利己的である。そして、自分も他人も利己的だから生きづらいのである
 私の場合、生きやすさのために人望を旨とするのなら、知性を犠牲にする。対してそれのために知性をそうするのなら、非難や軽蔑を覚悟する。なぜと言うに、人望はまさしく私心を「捨てること」であって、そして利己的な人間はそういった人間を仲間と見なし争おうとしないからで、対して知性はまさしく人間が利己的であるが故に、その性質をも

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(その4)知性改善論(知的認識と純粋認識について)

(その4)知性改善論(知的認識と純粋認識について)

 我々の認識の内には明らかに「教えられることなく認識できている」認識がある。例えば、「物体の存在」や「自分の認識」や「人間を同種と考えることで彼らと自分の間には普遍性があるという認識」、これらは絶対教えることができないが我々は認識できている。(ちなみに三つ目についてなのだが、実際我々はいちいち他人がどうこうなどいうことは教わらないし、のみならず仮に教えたとしても、または経験したとしてもそれは再確認

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(その3)知性改善論(知性は高低しうるのか)

(その3)知性改善論(知性は高低しうるのか)

 老化によって確かに人の知性は低下するようである。のみならず、緊張や睡眠不足などで知性は実際、外部の干渉によって機能しなくなるようである。がしかし、反対に知性は向上しうるのだろうか。今はこれについて論究しようと思う。
 然るに。まず私見では、「勉学自体によってのみ」知性は向上しない。なぜなら、勉学とは実際、結局は「教えられたことの繰り返し」でしかないからである。もし仮に、頭が良く全く勉強しない人が

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分かるとは何か。(無経験的純粋性における)

分かるとは何か。(無経験的純粋性における)

 人間は偶然性を必然性へと移行させることで分かるのである。詳しくは人間には生来万物に対する概念(無経験的)というのがあって、(根拠として、仮に人間が全てを経験によって認識または形作っているのであれば、経験とは疑いようなくそれでない何かを最初は必ず用いているはずであるからつまりは、そもそも経験するためには経験以外の何かしらがなくてはいけないからであるから、人間はアプリオリ的概念及び認識を元来有してい

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(その2)論理性序論(思い込みについて)

(その2)論理性序論(思い込みについて)

 例えば、論理的に読解しようとする場合において、どうして我々は間違えることがあるのだろうか。それはずばり、「思い込むから」である。
  例えばカントの純粋理性批判の、「Aという主語概念に結びついているものとしてのBという概念を認識するためにAなる概念の外へ出る場合に、私が自分の支えとするところのものはなんであるか。」という一文を取り上げる。
 すなわちこれは、(後の展開から察するに)特定のAという

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(その2)知性改善論(知性の役割について)

(その2)知性改善論(知性の役割について)

 明らかに知性が働いて為されていることの一つとして「正解を導き出すこと」を引き合いに出し、「知性の活躍を明るみに出そう」と思う。
 すなわち、問題を解くにあたって我々はまず命題を理解することから始める。(いやそうしなくてはいけない)つまり、その正解に行き着くための足りない何かしらを補うことにおいて、その命題の方向及びおおよその距離を命題は示しているということを我々はまず何よりも先にそれを理解しなく

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(その1)知性改善論(知性の認識について)

(その1)知性改善論(知性の認識について)

 例えば、考えるということこそが理性であった場合、なぜそうであるのか。また、考えるということの範囲はどのようか。感覚や認識とを人は、どのように峻別しているのか。私はまずこれを究明した後に知性の改善に対する論考をしたいと思う。
 知性とは何か。持論ではそれは、判断全般のことであるとしてる。例えば、良し悪しや当否は知性の為せることではないだろうか。理論を組み立てる際も人間は多くを承認することが必要で、

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(その1)論理性序論。(説明の本質に対する若干の考察)

(その1)論理性序論。(説明の本質に対する若干の考察)

 論理においてまず重要なのは、「個々の事象を根幹から理解した上で、それらは何において、何をもってそれらと関連しているのか明確に把握すること」だと思う。というのも、実のところ全ての事象というのには必ず、「ある共通の何かしらの前提があって、そしてそれこそが一つの事象から演繹的(えんえきてき)に次の論へと移行して最終的に論全体を構築するから」である。つまり、まずそういった「論理の根底を成し、そしてなおか

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本と知性について。(賢くなりうるのか)

本と知性について。(賢くなりうるのか)

 考えることのできる人、もしくは知識の豊富な人が本を手に取るのは何ゆえになのか。それは好きだからでしかない。対して、受験生が参考書を手に取るのは何ゆえにか。それは狭義で言えば、傾向を掴むためである。では今から起業する人が本を手に取るのは何ゆえにか。それは(受験生の例に似ているのだが)コツを得るためである。このように本を手に取る理由は身分によって変わるのだ。(嫌な言い方だが)
 とすればつまりは、か

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芸術的文学とは。(美しい文章の探求)

芸術的文学とは。(美しい文章の探求)

 まず、この探求を軽易にするために乱文(駄文)とは何故そうなのかについて語りたい。(何となれば、課題が課題であるのは分からないことがあるからそうなのであって、つまりは何かそれに関する何かしらを知ること(分かること)によってその答えに至れるだろうし、加えて全く反対のことを考察するということはその問題の二面性を露わにするのであるから、つまりは万物に必ず備わっている、「長所と短所」といった反対の性質が露

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