『詩人 吉原幸子:愛について』を読む。女性詩論やアンソロジーでは読んだことがあるが、吉原幸子の全体像がわかり心が震える。掲載詩では『これから』『日没』『街角』がいい。エッセイ『花を食べる』にも胸を射貫かれる。詩集も積読があるのに『全詩』が読みたい。とくにⅢの朗読CDを聴きたい。
岬多可子の第2詩集『花の残り』を読む 。結婚前の作品で、奔放な恋愛観も垣間見える。彼女を知ったのは行分け詩ではなく散文詩なのだが、今回の収録作品には散文詩というより掌編小説に近いものもある。その区別はどこにあるのだろう。いいなぁと感じるので、こういう書き方もありだと思う。
岬多可子の第6詩集『あかるい水になるように』を読む。第5詩集までもよかったが、本書は群を抜く。「くらいなかの火のはじまり」に息を呑む。「標本帖」は、無私を得るとはこういうことかといたく感じ入る。「山荘の花の実」は溜め息しか出ない。うまく言葉にならない。この詩集は一生ものになる。
岬多可子の第3詩集『桜病院周辺』を読む 。ここに収録されている散文詩「硯の底」の、しかも本人の朗読が、私を岬多可子に導いた。前作は掌編小説のようだった散文詩から物語性が薄まり、いわゆる「難解な現代詩」になるが、嫌味はない。『移季』の(棄)にしびれる。こういう詩を書きたい。
岬多可子の第4詩集『静かに、毀れている庭』を読む 。前々作の性愛、前作の「こども」に対する視点は消散し、ただそこにあるもの、のこされたものに対する眼差しが増える。散文詩は一篇もなく、行分け詩に漢語が増し、詩人の時の重なりを感じる。『苺を煮る』に惹かれる。著者署名に身が引き締まる。