人間という生き物の価値 —吉原幸子の詩「風」について—
今回は、詩人・吉原幸子の「風」という詩について見ていきます。
風 吉原幸子
犬が吠える
風が鳴る
こんや 車は通らない
にんげんにともだちはゐるか
にんげんに ともだちは要るか
卵をうんだことのない小さなめんどりと
ひよこが二羽
別々のところからきて
いっしょにくらして
別々に死んだ
めんどりはねえさんぶって羽根をひろげたまま
のこされるものを抱きつづけようとしたまま
紙の上を かさこそと
さむくなくてもふるへてゐた
色うすいひとにぎりのいのち
ひよこでさへ
さびしさによっては死なぬものか
猫や 寒さや たべすぎによってしか
死なぬものか
にんげんのひとりひとりが
ほんたうにさびしがれるか
さびしさによって死ねるか
それでも風のなかを
あ 車が通る
(わたしの指に
死んだひよこのうすいふんが まだついてゐる)
この詩は、ある道路の描写から始まります。語り手が、道路に面したところにいるのか、離れた建物の窓から道路を見ているのかは分かりません。しかし、語り手が道路を眺めていることは事実であり、この人物は、道路の様子について、「犬が吠える/風が鳴る/こんや 車は通らない」という描写をしています。
その描写の通り、その夜は、その道路には車が一台も通らないのでした。そのことから、語り手は、「一体、人間に友達は居るのだろうか」という疑問を抱きます。これは、「車が一台も通らない」という状況から、「友達に会いに出かける人が一人も居ない」という状況を連想したのだと推測されます。しかし、ここで注意すべきなのは、語り手の眺めている道路を通って友達に会いに行く人は居ない、という事実が、人間一般には友達が居ない、と、人類の在りようにまで敷衍されていることです。
ここで、表現を変えて説明すると、「車がこの道路を通る」という事柄が、「人間一般には友達というものが居る」という事柄の象徴として機能している、ということになります。このことは、作品の結末部分の伏線になっているので、頭に入れておいてください。
「人間に友達は居るか」(「にんげんにともだちはゐるか」)、という言葉の響きは、しかしまた、語り手に、「人間に友達は要るか」、という言葉を連想させます。人間に友達は必要なのだろうか——、いや、人間は真に友達を必要とすることができるのか? この問いかけが、この詩のテーマであると言えます。しかしまだ、この時点では、そのテーマは露わになってはいません。
次に、語り手は、一羽のめんどりの話を紹介します。そのめんどりは、自分の産んだ雛ではないひよこを育てたのでした。めんどりは死ぬ時に、ひよこ達を抱きしめたままだったと言います。残されたひよこ達は、めんどりが死んださびしさから震えていましたが、それでもそのさびしさによって命を落とすことはなかったと言います。
このようなめんどりとひよこの話を紹介した上で、語り手はこう問いかけます。
にんげんのひとりひとりが
ほんたうにさびしがれるか
さびしさによって死ねるか
ここでやっと、先程示したテーマが姿を現します。「人間は真に友達を必要とすることができるのか?」——、「友達」を「他者」と言い換えると、よりその意図するところがはっきりします。
人間は、いや、生きとし生けるものは、たった一人で生まれ、生き、死ぬという、孤独な生を生きています。その孤独を乗り越えようとする心の働きが“愛”であるとするならば、ここで問われているのは、「人間は“愛”を至上のものとして捉えることができるのか」ということに他なりません。なぜなら、相手がいなくなって感じる「さびしさ」とは、まさしく“愛”という心の働きに相違ないと考えられ、その「さびしさ」によって死ねるかどうかとは、“愛”に命を燃やすことができるかどうかという問題と等しいからです。
ここで、語り手の意識は、自分が現実に眺めている道路の方へ戻って来ます。その道路には、やっと車が来たのでした。ここで思い出してほしいのは、「車が通る」ことは、「人間には友達が居る」ことの象徴だったという事実です。やっと車が通ったため、人間には、やはり友達が居るのだということが改めて確認できました。しかし、ここで、最終連を見てみましょう。
(わたしの指に
死んだひよこのうすいふんが まだついてゐる)
このひよこの「ふん」は、先程のひよこの例が語り手の心に生じさせた、「人間は“愛”を至上のものとして捉えることができるのか」という問題意識を象徴しています。この問題意識を作中の言葉で端的に語れば、「にんげんに ともだちは要るか」(人間は真に友達を必要とすることができるのか?)となります。「にんげんにともだちはゐる(居る)」、しかし、その「ともだち」を、我々は心の底から「要る」と思うことができるのだろうか——、そのような問いがまだ語り手の心にあることを、ひよこの「ふん」が指についていることに象徴させ、この詩は幕を閉じます。
このように、この詩は、読んでいる我々に、我々自身の身近な人を、本当の意味で必要とすることができているのか、問い質しているのだと言えるでしょう。しかし、それだけではなく、人間というものの価値を改めて問い直す意味も持っていると考えられます。なぜなら、人間は普段、自分たちのことを高尚な生き物であると嘯いているけれど、他の生き物と何か異なる点があるのだろうか。高尚な生き物であるとすれば、“愛”のために死ねるはずだが、人間はそれも怪しい——、この詩は、そのような主張を内包していると言えます。
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