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在るもの、在らぬもの

吉原幸子は書く。

おそろしさとは
ゐることかしら
ゐないことかしら
(「無題ナンセンス」)

あると思っていたものがなくなっていたり、一方、あるはずのないものが突然目の前に現れたとき、確かに戦慄を覚えることがある。わたしたちは世界を相対的に対象化し、名づけ、分類してはじめて安心を得られる。

詩人は別の作品でこうも書く。

見まはすと
わたしはどこにもゐなかった
わたしはまっただなかにゐた
こはかった
(「夢遊病」)

どこにもいなかった「わたし」を、わたしのなかで(まっただなかで)発見したという。幼少のころ、はじめて「わたし」が「わたし」であるという自我に目覚めた瞬間を、自分はまったくおぼえていないが、それは喜びではなく、恐怖の刹那だったのだろうか。でもときが経つにつれ、自分が自分であることにつねに違和感を覚え、他に違う自分を探し求めたが、これまでそうした自己に出会ったためしがない。やはり「わたし」は「わたし」の外には逃げられない。

見知らぬ他者を通じて自己を確認しながら、人は社会のなかで孤独に生きているが、他ならぬ「わたし」が「わたし」を自ら確認することは、ともすれば恐怖をともなう不快なものかもしれない。でもわたしには、在るものは在るし、在らぬものは一向にないように思われ、その在と非在とをともに否定することはやはりできない。

ふとあたりを見回してみると、確かに誰もいない。そして、視線を何かないものに向けてぐるぐるしている自分自身を、こうして確認するのだ、きわめて意識的に、外に内に。





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