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世界の名前を呼ぶ —吉原幸子の詩「唖」について—

今回は、詩人・吉原幸子の「唖」という詩について見ていきます。


   唖 吉原幸子

  夢のなかでだけわたしは
  叫ぶことができた
  目尻に涙をひきながら

  衿をたてて
  停車場の角をまがる
  するといつも 列車はうしろ姿なのだった

  世界がわたしを包んでいるのに
  わたしののばす腕は
  いつも そのふちにとどかない

  世界が あまりうつくしいので
  目ざめて わたしは 名を呼べない 

  もどかしい自転車 だけが
  枯れた桑畑の道をはしる


 この詩の中で最も重要なのは、第三連の内容だと思います。

  世界がわたしを包んでいるのに
  わたしののばす腕は
  いつも そのふちにとどかない

 この内容の通り、この詩は、「世界」の「ふち」に触れようとする語り手の話であると、とりあえず理解できます。実際、この内容は私たちにも共感できて、私たちは「世界」に包まれているのに、なぜかその「ふち」に触れることはできません。この、「世界」の「ふち」に触ることができないという不思議は、だから、この詩の掲げる人類普遍のテーマであると考えられます。
 そのように、「世界」の「ふち」に触れたいと考える人物が語り手として登場する作品ですが、この語り手は、実は、「世界」の「ふち」に触れるためのある方法を知っているのです。その方法とは、「世界」の「名」を呼ぶ、ということです。
 「世界」の「名」というのは、聞き慣れない表現であり、皆さんは戸惑ってしまうかもしれません。しかし、この「世界」の「名」という表現は、この詩を解釈する際に、重要なキーワードとなります。なぜなら、「世界」に人間のように名前があるのだとしたら、その名前を私たちが呼べば、「世界」は振り向くなどしてそれに応じ、その結果、私たちは「世界」の輪郭(「ふち」)に触れることができるのだ、という考えが、この詩には隠されているからです。そして、この考えこそが、この詩の根幹を成す発想なのではないでしょうか。それというのも、「世界」の「ふち」には触れることができない、というのが世の中の常識であるのに対し、それを覆すような方策を、この詩は提示していて、それこそが上に述べた、「世界」の名前を呼ぶ、という方法であるからです。ただし、実際には「世界」には名前というものはないため、これはフィクションであると言えます。だから、それを呼べば「世界」が振り向く、というのも、あくまで想像上の事柄であり、実際には「世界」を振り向かせる方法はありません。ただ、もし「世界」に名前というものがあったら、それを呼べば「世界」が振り向くはずで、その時、私たちは「世界」の「ふち」に触れることができるのだ、という論理は、「なるほど」と思わせるものであり、この論理を味わうことが、この詩を読むということなのです。
 では、ここからは、この詩の全体を見ていきましょう。その際に重要になるのは、「夢」というモチーフの使われ方です。

  夢のなかでだけわたしは
  叫ぶことができた
  目尻に涙をひきながら

  衿をたてて
  停車場の角をまがる
  するといつも 列車はうしろ姿なのだった

 この第一連において、夢の中で語り手が「叫(んで)」いるのは、「世界」の「名」であると考えられます。それは、「世界が あまりうつくしいので/目ざめて わたしは 名を呼べない」という第四連の内容を参考にすると分かります。第四連を要約すると、「世界」の「名」を呼ぶことができない、と言っていると考えられ、それは目ざめている時に関する発言なのだから、眠って夢を見ている時は、「世界」の「名」を呼ぶことができているのだと言えます。だから、第一連において、語り手が「叫(んだ)」言葉とは、実は「世界」の「名」であるのだと分かります。
 次に、第二連で描写される「停車場」での出来事は、語り手の夢の内容そのものであると考えられます。語り手は、去っていく「列車」の「うしろ姿」を目にして、それを引き留めようと、必死で「叫(んだ)」のでしょう。この時、「叫(んだ)」言葉とは、先程述べたように、「世界」の「名」です。そのため、語り手の頭の中では「世界」は擬人化され、まるで「列車」に乗っている人物であるかのように把握されていることが分かります。つまり、夢の中では、語り手は、「世界」をまるで人間であるかのように考えているわけです。
 ところで、この詩の全体は、「世界」の「名」を呼ぶと、「世界」はそれに応えて振り向くはずだ、という発想から成っていました。この考えは、読者にとっては唐突で、少々理解しがたいものです。そのため、この詩の作者は、語り手の夢の中に、擬人化された「世界」(正確に言えば、「世界」が乗る「列車」)を登場させることで、この考えへの読者の理解を促進しているのだと言えます。つまり、「夢」というモチーフは、この詩の世界観を象徴的に表すために用いられているのです。
 ここまで、語り手の夢の中では、「世界」は人間の形を取っていることを説明しました。その人間の形をした「世界」に、語り手は、夢の中でどうしても触れることができないのでした。なぜなら、語り手が見る夢の中では、いつも「列車」は「世界」を乗せて去ってしまうからです。この時、語り手は、自分だけが知っている「世界」の名前を叫んで、「列車」を引き留めようとするのでした。しかし、それでも、去っていく「列車」を止めることはできません。ここに、定刻通りに発車する「列車」というモチーフが活きています。
 さて、では、目ざめている時には、語り手は、「世界」に触れることができるのでしょうか。結論から言うと、触れることはできません。

  世界が あまりうつくしいので
  目ざめて わたしは 名を呼べない

 とあることから、それが分かります。語り手は、「世界」の「名」を知っているけれど、「世界」のあまりの美しさに絶句しているため、その名前を口に出すことができない、と言うのです。そのため、目ざめているときですら、語り手は、「世界」を振り向かせることができないのでした。このように、「目ざめている時は、自分の知っていることを口に出すことができない、それを叫ぶことができるのは、眠って夢を見ている時だけである」という状況を、この詩は描いています。その葛藤が、唖者の抱くジレンマに似ていることから、作品のタイトルは、「唖」となっています。
 いずれにせよ、作品の中で語り手は、実際には、「世界」の「名」を呼んで「世界」を振り向かせることができませんでした。しかし、先程も述べたとおり、この詩の根幹にあるのは、私たちは普段は「世界」の「ふち」に触れることができない、という指摘であり、またそれに対する、「世界」の「名」を呼べば、「世界」は振り向き、私たちはその「ふち」に触れることができるはずだ、という方法の提案です。そのような提案をすることが、この詩の第一の目的であるため、その方法が実行に移されなくても良いのです。
 今述べた通り、語り手はその方法を実行することができませんでした。それは、語り手が「唖」の状態(「世界」の美しさに絶句した状態)に陥ってしまったからですが、作者がそのような設定にしたのは、「世界」の「ふち」に触れる、ということが具体的にどういうことなのか、明記するのを避けるためでしょう。現実の世の中では、「世界」の名前など存在しないため、「世界」が振り向くということはあり得ないのです。とすると、「世界」が振り向くという状況を仔細に描くことは難しくなります。そこで、作者は、わざと語り手を「唖」の状態にして、「世界」の「名」を呼べないという状況を生み出したのでしょう。
 さて、最後の連には、

  もどかしい自転車 だけが
  枯れた桑畑の道をはしる

 とあります。これは、夢の中で追いかけられなかった「列車」を、現実で「自転車」を使って追いかけるという語り手の行動を表しています。語り手はそれほど強く、「世界」の「ふち」を捕まえたい、と熱望していたのだと、この表現から分かります。
 ここまで見てきて、次のようなことが分かります。
 この作品はまず、私たちは「世界」に包まれているのに、その「ふち」に触れることはできない、という一つの矛盾を指摘しています。ここに、私たち人間にとって普遍的な問題の提起がなされています。その上で、作品は、仮に「世界」の名前というものがあるとすれば、それを呼ぶことで「世界」が振り向き、私たちは「世界」の「ふち」に触れることができるのではないか、という考えを提示しています。実際には、語り手は「世界」の美しさに絶句するあまり、「世界」の名前を呼ぶことができない、とされ、この人物が「世界」の「ふち」に触れるところは描かれません。これは、作品の中心が、「世界」の「ふち」とはどんなものなのか、仔細に描くことではなくて、あくまでも、皆が「なるほど」と頷くような、「世界」の「ふち」に触れるための方法を提示することに据えられているからでだと言えるでしょう。「世界」の「ふち」に触れるための方法。そこに含まれているウィットこそが、この詩の感動の中心なのです。

 

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