自然が人間を必要とする —吉原幸子の詩「交替」について—
今回は、詩人・吉原幸子の「交替」という詩について見ていきます。
交替 吉原幸子
にぶってしまった 針の尖で
つきさせるものは もうない
ああとても
そんなに足早に 歩けないのに
いつかきっと
逆光の浜辺を
海と朝日にむかって馳けてゆくものの
小さなうしろ姿 さよなら
わたしを置いて
わたしの足もとに
シャベルや花バケツを置いて
わたしは自然を信じようと思う
自然がわたしを要らなくなるとき
静かに 見送りながら
あの山々の 木を伐り
苗木を植えた人たちのように
黙々と
素朴に
するどい未来を 信じようと思う
この詩は、人間の生と死をテーマとして扱っています。人の生死について、私たちは、次のように理解することができます。
人間が人間として生きるということは、その存在を「自然」から認められているということです。反対に、「自然」がその人物の存在を必要としなくなった時、人は死ぬ——、死という現象について、このような捉え方をすることも可能です。
そのように、「自然」が人を必要としなくなるため、人間は死ぬのですが、ここで、死んだ人間がどうなるか、考えてほしいと思います。死んだ人間は、土になり、「自然」に還ります。「自然」の一部になるということはつまり、今度は、人間という存在を必要とする側に回るということです。そして、「自然」に必要とされて、新しい人間が誕生します。その新しい人間も、いつかは「自然」に還り、他の新しい人間を必要とする側に回ります。タイトルの「交替」とはこのような仕組みを一言で言い表したもので、この「交替」劇は、半永久的に続きます。
この「交替」の仕組みを、より作品の内容に沿った形で、もう一度説明したいと思います。
作品の第一連には、
にぶってしまった 針の尖で
つきさせるものは もうない
ああとても
そんなに足早に 歩けないのに
とあり、語り手が、歳を取るなどして弱ってしまったことが表されています。ここでの「にぶってしまった 針」という表現は、最後の連の「するどい未来」という表現と対置されています。「針」はおそらく人間の足の裏に付いているというイメージであり、古い人間である語り手の「針」はにぶってしまっていて、もう早くは走れないのです。一方、新しく生まれてくる人間(「するどい未来」という表現は、新しく生まれてくる人間を指す)の足裏にある「針」はあくまでも「するど(く)」、早く走るのに適しています。
いつかきっと
逆光の浜辺を
海と朝日にむかって馳けてゆくものの
小さなうしろ姿 さよなら
わたしを置いて
わたしの足もとに
シャベルや花バケツを置いて
という第二連。「いつかきっと/逆光の浜辺を/海と朝日にむかって馳けてゆくもの」とありますが、この「馳けてゆくもの」とは、早く走ることができているため、新しく生まれてくる人間を指しているのだと分かります。「いつかきっと」とあるため、それはまだ生まれていない命であり、ここではそれが馳けてゆくという幻の情景が描かれているのでしょう。その新しい人間を、古い人間である語り手は、見送っているのです。では、なぜ、この「新しく生まれてくる人間」は、語り手である「わたし」の足もとに「シャベルや花バケツ」を置くのでしょうか。それは、語り手に、死んで土に還り、その上に樹木や草花を根付かせることを促しているからではないでしょうか。
わたしは自然を信じようと思う
自然がわたしを要らなくなるとき
静かに 見送りながら
あの山々の 木を伐り
苗木を植えた人たちのように
黙々と
素朴に
するどい未来を 信じようと思う
これは、第三連と第四連です。第三連の、「静かに 見送りながら」とは、第二連で古い人間である語り手がしたように、新しく生まれてくる人間を見送る、ということです。「あの山々の 木を伐り/苗木を植えた人たちのように」という表現は、第二連で、語り手の足もとへ置かれた「シャベルや花バケツ」を想起させます。ということはこの「あの山々の 木を伐り/苗木を植えた人たち」とは、既に死んで、今はすっかり土となってその上に植物を根付かせている存在のことを指すのではないでしょうか。この第四連では、そのような昔に死んだ人々と同じように、自分もやがて生まれ来る新しい命のことを信じて、死んでいこうという決意が語られていると言えます。
このように、この詩では、生命の「交替」劇が描かれています。人間の死について、それは「自然」に必要とされなくなることだと捉えること、あるいは、死ぬことにより「自然」に還った人間が、新しい生命を求めるせいで、新たな人間は生まれるのだと捉えることは、極めて斬新な発想であると言えます。
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