浦さんのはなし
昨年(2021年)の夏に入院していた時、病院の4床部屋の向かいのベッドに漫画家のみなもと太郎先生がいらっしゃいました。
思い切ってお声をおかけしたところ快く応じてくださり、退院まで楽しい時間を過ごすことが出来ました。
友人向けに限定公開したnoteを改訂・加筆したものです。お読みいただければ嬉しいです。
カエル純(吉原 純)
……………..
I.
2021年6月24日、7週間予定の入院初日。パジャマに着替えて病室の名前のプレートを見たとき、
(この人、漫画家の「みなもと太郎」の本名と同じ名前だな)と思ったのが始まりでした。
(…まあ、同じ名前のお爺ちゃんなんだろうけど)
その病室は呼吸器内科の4人用の相部屋で、私だけが循環器内科の患者(心臓病)でした。本来の病棟には空きがなかったのです。
検温や食事配膳のときの看護師さんの「お名前と生年月日をお願いしまーす」の返答を聞く限り、私が一番若輩モノの60歳。他の3人は70~80代のようでした。
浦 源太郎さんは私の向かいのベッドで、返事の声はかすれて少し聞き取りにくかったのですが、何度か聞くうちに終わりの部分が「3月2日」なのが分かりました。
このご時世なので、昼も夜も仕切りのカーテンを開けている人はいません。たまたま歯みがきや洗顔のときにカーテンが少し開き、顔を一瞬見られるくらい。
浦さんは小柄なお爺さんでした。みなもと太郎は今70代くらいかな?
イメージする顔立ちは、昔から〈自画像〉として漫画の中によく登場するコレです。
あまり参考にならないので顔写真もググってみました。(若い頃の著者近影しか覚えていなかったので)
うーん、似てるような気もするけど…どうなのかな〜。浦さんは髪の毛が黒いし。病院では染められないだろうから地毛だろうな。やっぱ別人なのかしらん。
しかしWikipediaに「1947年3月2日生まれ(74歳)」の文字が! そして2020年春から体調を崩して雑誌連載を夏以降休止していることや、作者の近況がほとんど発表されていないことをそのときに初めて知りました。
その後も看護師さんとのやりとりの「あら、浦さんて左利きなんですね!」という言葉を聞くや《左利き みなもと太郎》でググったりするなど、カーテン越しに密偵(笑)を続けること数日後、思い切って話しかけてみることにしました。
私は木曜日にちょっと痛そうな検査の予定があったので、決行は前日の水曜日、6月30日の午後。
浦さんが洗面台で手を洗って戻るところへ、「あの、向かいのベッドの吉原と申しますが…失礼ですが、みなもと太郎先生ではありませんか?」と声をかけました。
浦さんは目で笑って「はい!みなもとです」と答えました。
ー「小学生の時に「少年マガジン」で『ホモホモ7』(1970)を読んだ世代です。好きな作品は『レ・ミゼラブル』と『男の劇場』です!」
「あっ、リアルタイムなの?それはそれは。まあまあ、こちらへどうぞ!」とベッド横の椅子に通されました。
「何度か入院してますが、同室の人に話しかけられたのは初めてです。お医者さんの中に『風雲児たち』のファンがひとりおられたくらいでね」
というわけでご本人でした。話しかけてよかったー!もしご本人でも否定される場合も想定していたので、とても嬉しかったです。
みなもと先生の方でも、私の声のイントネーションが、先生が敬愛する漫画家のあすなひろし先生の甥ごさんにソックリとのことで(弟さんがいるとは聞いていないが…いやでもこの声の感じ…一応確認してからにするか)と気になっておられたのだそうです。
「広島に親戚はいない?じゃあ他人の空似だったんだ」
世代的にあすなひろし先生の漫画も「少年チャンピオン」で読んでいましたし、単行本も持っていたので不思議な気持ちになりました。
コロナ禍なので入院中も雑誌の編集さんやご家族との面会も叶わず、しかし元来はお話好きのようで、先生の体調が良いときに何回かお話を伺うことが出来ました。
ちなみに私は先生のギャグ漫画やエッセイ漫画が好きだったので、先生の最も有名な作品である『風雲児たち』についてはお話を伺っておりません(もちろん新刊が出たらすぐに読んでおりましたが…)。ファンの方はすみません(^_^;)
ザ・タイガースのトッポ(加橋かつみ)原案の第二作『真夜中の仔猫』(1969)
「かつみは京都の実家の隣の家の親戚の子でね。歳も近いので小さい頃からよく遊んでました。とにかく人の言うことを全然聞かないやつなんだよ(笑)まだタイガースでデビューする前に『ポエムを書いたから読んでくれ!』って部屋に来てね。これこれこうなって、みたいなプロットも話してたんだけど、「一応預かるよ」って答えておいたんですが、そしたらそのあとタイガースが大ヒットしたでしょ(笑)。
ある時「女学生の友」から連絡が来てね、『あなたがトッポの一番古い友達らしいと聞いたんですが、なにかエピソードがあったら聞かせてください』ってね。1967年に「別冊りぼん」でデビューしてたんだけど、向こうはこっちが漫画家だと知らなかったんだよね。そこで『かつみがボクにくれたポエムがあるんですよ。実はボクは漫画家でして、作品にもしてありますけど(この時点ではまだ描いてなかった)どうします?』ってね」
「それから急いで大阪へ行って、作画グループ(参加していた同人)の代表の馬場吉明と聖悠紀(デビュー前)と3人で徹夜で描き上げました。何ページだったかなー、24くらいかな?今なら短編扱いだろうけど、当時としては24ページはかなり長いんですよ。掲載されたらファンレターがどーんと来てね。その後も『ホモホモ7』の連載で食いつなぐまで、ジョトモ(女学生の友)にはホントお世話になったなあ」
中学の同学年には同じタイガースのサリー(岸部一徳)とタロー(森本太郎)とピー(瞳みのる)がいたそうです。みなもと先生お気に入りのタイガースの曲は「白夜の騎士」(1968)。
トッポじゃなくジュリーのヴォーカル曲ですが(笑)
ー「先生の《画業50周年パーティ》(2017)のときの昔のフィルムっぽい写真がネットに上がっていましたが、あれは映像ですか?」
「あれはね、日本テレビでやってた《われら夫婦》っていう5分番組に出たときの。1973年頃かな(正確には1976年7月29日放送)。当時は放送の記念に8ミリフィルムをくれたんです。
女房とは上京後、『ホモホモ7』の連載が始まってカンヅメになった旅館で初めて会いました。彼女は一条ゆかりの同級生で手伝いで来ていてね。休み時間に本を読んでたから、ヒョイと覗きこんだら落語の本だった。(なんだこの女のコ?)って。私も落語が好きだったんでね。そこからつき合いはじめて23の時に結婚しました。向こうは3つ下。瀬戸内海の小さな島の出身です。
ウチの地下の書庫には彼女の嫁入り道具の中にあった落語全集と、私が持っていた落語全集が並べて置いてあるんです。」
☆後日奥さまから伺ったところによれば、旅館で出会ったのは『ホモホモ7』よりも前、ジョトモ時代の上京のときだそうです。当時のみなもと先生はオカッパ頭で、奥さまの初対面の印象は(なんだか『おそ松くん』のイヤミみたいな人だわ…)だったとか。
ー「僕も中学生の時、講談社文庫の「古典落語」(興津要編)にハマって、もっぱらレコードで聴きました。三代目金馬の『金明竹』の長ゼリフとか覚えましたよ」
「加賀屋佐吉の使い?ちょっとやってみて!」
ー「えっ?…え、えーと《わて中橋のな、加賀屋佐吉から参じましたん。先度仲買いの弥市が取り次ぎました道具七品のうち(以下略)…かようお言づけ願いますー》」
「いや〜、フツーはこういう話をすると『寿限無』をやるんだよみんな。『金明竹』やるヒトめずらしいよ(笑)」
ー「バスター・キートンの映画がお好きだとネットに出てましたが」
「チャップリンのリバイバルの後に、キートンも1973年に劇場公開をやったんだよね、《ハロー・キートン》てシリーズで4本だか6本だか。『海底王キートン』(1924)が好きでね~」
ー「僕は『探偵学入門』(1924)が好きです。リバイバル上映には間に合わなかったので大学生の時に自主上映会とかで見ました。あと『荒武者キートン』(1923)」
「『荒武者キートン』!あれも良かったね…。当時エレノア夫人(キートンの最後の奥さん)が来日してね。映画会社の方のご厚意で同席させてもらったんだ。そしたら日本側の人がね、夫人に寅さんの映画を紹介したんだよ。思わず横にいた通訳のアメリカ人に『寅さんじゃねェんだよなあ…』って言っちゃったよ(笑)」
その後、お好きな映画の話になり、《生涯のベスト4・洋画編》として
1. 冒険者たち (1967) /ロベール・アンリコ監督
2. 狼は天使の匂い (1972) /ルネ・クレマン監督
3. さすらいの青春 (1967) /ジャン=ガブリエル・アルビコッコ監督
4. シシリアン (1969) /アンリ・ヴェルヌイユ監督
を挙げられました。
「それと『海底王キートン』ね」
ベスト4はコメディではなくフランス映画でした。
「私の作品タイトルに『◯◯◯たち』が多いのは『冒険者たち』が大好きだからです」
「日本映画だとやっぱりクロサワが好きだね…」
あっ、黒澤映画がお好きなのか。
ー「実はおととし亡くなった父親が昔、東宝で黒澤明の助監督をしていまして」
「えーっ!」
ー「『隠し砦の三悪人』(1958)からです」
「観た?…えっ、観てないの!?ダメだよーもったいない!退院したらすぐに観なさい!(笑)」← 観ました(^^;
東宝の俳優陣が来賓で来ていた両親の披露宴の写真をお見せしたり、媒酌人が東宝の川喜多長政・かしこ夫妻だったことを伝えると、
「その人たちの娘さん(川喜多和子氏)だよ。エレノア夫人に会わせてくれたのは…」と感慨深げでした。
『隠し砦の三悪人』の脚本の写真にも見入っておられました。
「月に100ページ書いてた時もあったけど、徹夜もキツくなってきた50歳を機に『風雲児たち』の連載一本だけにしぼることにしました。それで空いた時間に何をしたかといえば、コミケへの出店と漫画史の研究。結局やることは漫画なんだよね(笑)」
そんなお話を聞いているうち、あっという間に7月9日、みなもと先生の退院日になりました。私の退院は8月12日なのでまだ先です。
前日に顔見知りの看護師さんに写真を撮ってもらい、LINEも交換しました。
先生はガッシリとした体型で背筋も伸び、お元気なご様子でした。
「女房も喜んでるから顔だけでも」とのことで、退院日に迎えに来られた奥さまにも1階ロビーの離れた場所からご挨拶だけさせていただきました。
最初に声をかける時に迷った「黒い髪」について先生にお尋ねしたところ、
「それがね、薬が変わったら一度抜けた髪がまた生えてきてね。それはずっと黒で白髪は一本も生えてこないんだ」とのことでした。そんなことあるんだ~。
病名については公表されていませんでしたが、この少し前に発売されたリイド社の「コミック乱」の色紙プレゼントで、近況コメントに《ガンガン療養中でございます》と書いておられました。
ー「えーと先生、この《ガンガン》は…」
「それはイタズラ心です(笑)」
やはりギャグ漫画家の血がそうさせるのでしょうか。おそるべし(^^;
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II.
先生の退院と同じ日、私は呼吸器内科から本来の循環器内科の病棟へ移りました。
ご自宅で療養中のみなもと先生とはLINEでやり取りをしていました。
私も家に帰れば先生のご興味を引きそうなモノはひとつふたつある筈なのですが、なにせ今は入院中の身。手持ちのスマホや以前SNSにアップした写真ぐらいしかお見せすることができず、歯がゆい思いでした。
日本ではビデオ公開のみだった映画『マスターマインド』(どう見てもユダヤ人にしか見えないサムライが出てくるアメリカのB級コメディ。1969年の京都でロケをしている)もお見せしたかったな…。
7月20日、みなもと先生が外来診察を受けにいらした時(直接はお会いしていませんが)、差し入れでみなもと先生のコミケ本を何冊か頂きました。名著「お楽しみはこれもなのじゃ」も。
「間違えて4階の病室まで上がっちゃって、男性の看護士さんに怒られちゃった(笑)」
ー「あのヒトちょっと怖いんですよね。本は笑顔で届けてくれましたが」
「たたみかけてくるんでね(笑)」
そういえば先生にお声をおかけする前、夜10時の消灯後にテレビかラジオの音が大音響で部屋中に響き渡ったことがあって、その直後、みなもと先生が「あわわわわ!なんてことだ...」と慌てふためいておられたことがありました。
たぶんイヤホンが抜けちゃったんだと思います。なんの番組かはわかりませんが、わりとキャピキャピした女性の声でした。その慌てっぷりはホントにマンガのようで、向かいのベッドの中で私はひとりニヤニヤしていました。
同じ20日の病院でのPCR検査のとき、たまたま横に居られた小林のり一さん(コメディアン三木のり平氏のご長男)に話しかけておられます。
*小林のり一さんは2022年7月6日に亡くなられました。ご冥福をお祈りします。
「隣にいた人が『田沼のりかず。昭和26年..』って言うのを聞いて、(あれ?もしや…)と思ってね。
あなたが私に声をかけてくれたのを見習ったのだヨ(笑)。いや、顔は知らなかった。名前だけ」
みなさん、本名を覚えているといつかそういう機会が訪れるのです(^^)
ー「よく見ればのり一さんの写真の背景、見覚えがあります(笑)」
「のり一さん、あまり詳しくツイートしなければ良いが」
ー「このくらいでしたら大丈夫だと思いますが。先生がお元気そうな印象だと思います」
「ならヨカッタ。」
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7月26日に先生が再び入院されました。今回は病室も離れ離れですので、会話はやはり基本LINEで。
先生のいる呼吸器内科棟の院内コンビニには、私がいる循環器内科棟から平日の夕方にだけ買い物に行く事が許されていたので、コンビニ横のソファで短い時間だけでしたがお話を聞くことが出来ました。
今回の私の入院は当初ICDという心臓の手術の予定が組み込まれていたのですが、入院後に症状が安定したため延期になり、退院が5日ほど予定よりも早くなっていました。
私の退院が近づいた頃、「これ、この前女房が持ってきたフェイスシールド。吉原さんのぶんも預かっているから」「感染者が増えてきたから気をつけてね。郵便局とか極力行かないように。俺も妻も同じ意見」とご心配していただき、ありがたかったです。
ー「今回の入院は先生のおかげで楽しい時間を過ごすことが出来ました。ホントに読者冥利に尽きます!」
「…ありがとう。コロナが収束したらまた会いましょう。今は握手が出来ないのが残念だね」
ー「そのときは『隠し砦の三悪人』の脚本の現物、お持ちしますね」
「あー、あれはぜひ見たいなあ」
8月7日に私は退院し、家に着いてから「お先にシャバに戻りました」と先生にLINEしました。30分後、LINE電話が着信しました。
奥さまからでした。
今回の事を思い返すと不思議な気持ちになります。
6月初旬、私は主治医の先生から『来週から入院出来る?今すぐ入院しないと危ないよ』と言われていました。「いや、家族もいませんし、猫も預けなければなりませんし、いろいろ準備もあるのでなんとか再来週に」と無理やり伸ばしてもらった入院でした。その結果、先生と同じ部屋になったわけです。
お医者さんの中に『風雲児たち』のファンがいたというお話だったので、その作品以外のファンからもひとり召喚されたのかな?と今は思っています。
先生のお身体の具合は波があり、お声をおかけする勇気はなかなか出なかったのですが、友人に相談したところ「そんなこと、もうこの先一生起こらないよ!」と背中を押されて決心したのでした。
『レ・ミゼラブル』が好きです、とお伝えしたところ、
「『ラ・マンチャの男』も少し後に書いたんだけど読んでない?あれは自信作なので機会があったら読んでね」と仰っていた『スターウォーズ・ドン・キホーテ』(1988)。入院中にAmazonのKindle版「みなもと太郎の世界名作劇場」で読む事が出来ました。メイキングともいうべきあとがきも含め、素晴らしかったです。
『風雲児たち』歌舞伎化のときにミュージカル版『ラ・マンチャの男』の松本白鸚氏に本を渡し、後日、本人から『面白かった』と言ってもらったのが「チョと自慢です」とのことでした。
未読の方はぜひ!電子書籍版が入手しやすいです。
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私は以前中古レコード店で働いていたこともあるので、先生と音楽の話をもっとしてみたかったです。
先生自身が関わったレコードはコミックソング「とんでもナイト・フィーバー」(1978)のジャケットのみだそうです。このシングル、わりと見かける印象なのでそこそこ売れていたのではないでしょうか。先生も「一度『11PM』で演奏しているのは見た」と仰ってました。
クラシック音楽がお好きだというのは知らなかったのですが、言われてみるとしっくりくるものがあります。昔ソノシートでシューベルトの「未完成」を聞いたのが好きになったきっかけだそうです。
奥さま談「部屋にクラシックや映画音楽が流れると『あ、仕事に入ったな』と分かるのです。感情を維持するのに欠かせないの」
「ベートーヴェンとかシベリウスとか、静かに心を揺さぶられるものが好きだったわね」
病院で伺ったときはドビュッシーの名前も挙げておられたので好きな曲はなんだろうと思っていました。聞けずに残念です。
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ー「先生の《日本映画のベスト4》は何ですか」
「『赤ひげ』の1位は不動。
以下は入れ替わりあるとして、
『七人の侍』、『怪談』、『楢山節考』、『喜びも悲しみも幾歳月』、『カルメン故郷に帰る』、『切腹』と黒澤の全作品。 あと何だっけかな。
小津・溝口は味わうチカラがコッチに足りないかも。
えーとまだある。
市川崑の『東京オリンピック』はもっと評価されるべき。
川島雄三はもっと勉強したい。弟子の今村昌平がイカン。彼が『幕末太陽伝』のラストに反対してあの作品は真価を失ったと思う」
ー「幕末太陽伝の幻のラストですね。本当、せめて撮影だけでもしておいてくれたら…と悔やまれますね」
「フランキーが現代に飛び込んで来ていたら、私がホモホモ7を描く必要は無かったような気が今でもしてるのです」
ー「それはびっくり。」
「誰にも言ってないけど」
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いつも本かマンガを手にしていらっしゃいました。パジャマの上からYouTube動画でもよく着ている薄手のAmazonのパロディーのジャンパーを羽織って《院内コンビニの中で本の品揃えが一番良い店》に毎日、出かけられていました。
「呼吸器内科棟の店はあんまり面白い本ないんだよねー」
みなもと先生、ありがとうございました。またいつかどこかでお話の続きを。
III. 後日談
2021年11月6日、奥さまの浦静香さんのご厚意で、みなもと先生のご自宅におじゃましました。(この頃は都のコロナの新規感染者数が2ケタ程度にまで下がっていました)
病院でお名刺を頂いた時にも驚いたのですが、私の自宅と先生のご自宅はわりと「ご近所」だったのです。
奥さまのご案内で先生の仕事場や有名な地下の書庫を拝見し、先生の思い出を伺い、ご仏壇に手を合わせさせていただきました。
この奥さまも1970年代末まで先生のアシスタント・共作者として陰ながら先生を支えていらした方ですから「オールドみなもとファン」としては感激なのです。
同じ月、Twitterで知った神保町アットワンダー〈ブックカフェ二十世紀〉での「みなもと太郎先生に言葉を贈る会」にも足を運びました。
私が行ったのは雨が降る月曜日22日の夕方で、私の他には誰もお客さんはおらず、会場は静かでした。
展示されている原画やビデオ(例のご夫婦で出演されたテレビ番組)を見た後、会場の係の男性に声をおかけして、ここに書いたような、みなもと先生と出会った話を差し向いで話していたところ、男性が「知り合いに黒澤明の研究家の人がいるんだけど、その人を紹介させてもらえませんか」と言うので、私で良ければ…とお答えし、後日、槙田寿史さんをご紹介いただきました。(件の男性はアットワンダー代表の鈴木宏さんでした。)
そして今夏、槙田さんからのお話で、2022年の8月2日から11月27日まで開催の国立映画アーカイブの展覧会《脚本家 黒澤明》に、『隠し砦の三悪人』の脚本など数点の資料を貸し出しすることになりました。
そう、先生が現物を見たいと仰っていたあの脚本です。日の目を見るのは、まさしくみなもと先生との御縁以外の何物でもありません。みなもと太郎ファンで黒澤映画もお好きな方は、ぜひ会場でご覧になってください。
きっと先生も見に来られていると思いますので(^^)
(了)
2022年7月15日公開
*公開に際し、みなもと先生の奥さまの浦静香さまからご許可をいただいております。
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