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幸せのほろにがさ —吉原幸子の詩「通過Ⅴ」について—

今回は、詩人・吉原幸子の「通過Ⅴ」という詩について見ていきます。


   通過Ⅴ 吉原幸子

  時の重さが
  思ひ出の量で きまるとしたら
  <いま>はいつも
  いちばんかるい

  身の廻りには
  ずっとたくさんの材料(もの)がある
  四角いハムとか
  ふすまのしみ
  朝のくしゃみ

  猫との会話
  しゃぼん玉
  ほろにがい幸せの材料たち

  ひとつだけ ふべんなのは
  そのなかにゐると
  すべての<もの>が
  まだ 思ひ出にならないことだ


 この「通過Ⅴ」は、「通過」というタイトルが付けられた作品群の内の、五(Ⅴ)作目にあたる詩です。
 皆さんは、この詩を一読した際に、ある表現に疑問を覚えなかったでしょうか。その表現とは、第二連の、「ほろにがい幸せの材料たち」という箇所です。これは、おそらく、「ほろにがい幸せ」という言葉が、「材料たち」という言葉を修飾しているのだと考えられます。しかし、一体なぜ、ここでの「幸せ」は、「ほろにがい」と限定されているのでしょうか。「幸せ」と「ほろにがい」。この、一見矛盾しているとも感じられる表現に、引っかかりを感じた人も多いと思います。この矛盾する表現は何を意味しているのか、という問いを立てた上で、この詩について、これから考察していきます。
 まず、「ほろにがい幸せの材料たち」として、具体的に何が挙げられているのか、見ていきましょう。

  四角いハムとか
  ふすまのしみ
  朝のくしゃみ

  猫との会話
  しゃぼん玉

 という、文字通り、私たちの「身の廻り」にあるものが、挙げられています。これらは、穏やかな日常を想起させるものばかりで、まさしく「幸せ」を象徴していると言えるでしょう。ということは、「ほろにがい幸せの材料たち」として名指されたものたちは、どれも人々の「幸せ」な暮らしを構成するものだと言えます。ですが、その「幸せ」という概念に、「ほろにがい」という形容詞が冠せられているのです。ということは、「幸せ」という、私たちにとって心地良い状態の中にも、実は、「ほろにが(さ)」というマイナスの要素が含まれている、この詩はそのような指摘をしているのではないでしょうか。
 では、なぜ、「幸せ」は「ほろにがい」のか。それについて考えるために、まず、「材料」という言葉に注目してみましょう。「四角いハム」や「ふすまのしみ/朝のくしゃみ」、「猫との会話/しゃぼん玉」などは、「幸せ」そのものではなく、あくまでも「幸せ」の「材料」なのでした。「材料」ということは、これから、それらが加工されることによって「幸せ」が生みだされるけれども、今はまだ、「幸せ」は生まれていない、ということを意味します。
 ここで、私たちの「身の廻り」にある「材料」が生成してできるもののことを、「幸せ」ではなく「思ひ出」と置き換えてみると、話は簡単になります。「四角いハム」や「ふすまのしみ/朝のくしゃみ」、「猫との会話/しゃぼん玉」などは、私たちがそれに囲まれている時は、「思ひ出」にはなりませんが、「時」が流れて、過去の出来事になってしまえば、それは「思ひ出」として昇華します。
 そのことは作中にも記されていて、第三連には、 

  ひとつだけ ふべんなのは
  そのなかにゐると
  すべての<もの>が
  まだ 思ひ出にならないことだ

 とあり、「思ひ出」という語に関して言えば、語り手の主張が理解できます。
 さて、今、私たちは、「幸せ」を「思ひ出」という語に置き換えて考えました。ここからは、なぜ、そのような置き換えが可能なのか、説明します。

  時の重さが
  思ひ出の量で きまるとしたら
  <いま>はいつも
  いちばんかるい

 と、第一連にはあります。ここでは、これを、「遠く過ぎ去った時期ほど、幸せだったように感じられる」というような意味に解釈したいと思います。私たちは、現在から離れた昔のことほど、「あの頃は幸せだった」と思い、懐かしむのが常です。つまり、作中の表現である「時の重さ」とは、「幸せだった」と感じられる度合いのことを指しているのです。「思ひ出」というものは、それが遠い昔のことになるにつれ、「幸せだった」と感じる度合いは大きくなり、反対に、現在に近づくにつれ、小さくなります。
 このように、「思ひ出」の古さと、「幸せ」の度合いは、比例するのでした。このことを、「思ひ出」の生成の段階に当てはめて考えると、「あらゆるものは、それが人の『思ひ出』になった時、初めて、その人にとっての『幸せ』へと姿を変える」ということになります。今、私たち自身を取り囲んでいる、「四角いハム」や「ふすまのしみ/朝のくしゃみ」、「猫との会話/しゃぼん玉」などは、そのままでは、「幸せ」として実感されません。そこに、「時」の力が介入することが必要です。「時」が、これらのものを消し去ったり変形させた時、私たちは、初めて、それらが自分の「幸せ」に他ならなかったことを実感するのです。もちろん、この時、これらのものは、既に「思ひ出」へと姿を変えています。
 ここまで、「幸せ」と「思ひ出」という二つの語が交換可能なのは、私たちを取り囲んでいるものたちは、それらが「思ひ出」になった途端、私たちにとっての「幸せ」へと姿を変えるからでした。そして、まさにこのことが、語り手が、「幸せ」には「ほろにが(さ)」が含まれていると考える理由ではなかったでしょうか。私たちは、全ての<もの>に対して、それが目の前に存在している内に、「幸せ」を見出したい。しかし、実際は、その素晴らしさを真に理解できるようになるのは、それが消え去った時なのです。この詩は、そのような、人間の幸福にまつわる逆説をテーマとする作品ではないでしょうか。人間の傍を、見えない「時」が通過していくというイメージで、「通過」というタイトルが付けられていると考えられます。 

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