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わたくしの吉原幸子研究2022年

☆吉原幸子研究その1。2022年1月1日から2月7日に記す。

 

 

2022から40を引くと1982。40年前わたくしは吉原幸子という詩人がこの世にいることを知らなかった。中1だった。興味はベストヒットUSAが教えてくれる洋楽のヒットチャートに限られていた。文学にも詩にも無関心だった。1932年生まれの吉原幸子さんは50歳。現代詩のど真ん中にいた。雑誌「現代詩ラ・メール」を新川和江さんと創刊したのが1983年であるからいよいよ戦闘開始の時期にあたっている。1982年9月26日。渋谷の西武劇場に詩が好きな人々がわんさか集っていた。思潮社が企画した「詩のカーニバル・詩はこれでいいのか」が催されていたからだ。このイベントは鼎談あり講演あり朗読会あり討論会ありで午後1時半からなんと6時間も。例えば討論会のメンバーは鮎川信夫・北村太郎・安藤元雄・寺山修司・鈴木志郎康・天沢退二郎・佐々木幹郎・平出隆・荒川洋治の各氏に司会が菅谷規矩雄・清水昶の両氏。誰を目当てに集って来たのだろう。満員。導入として鼎談が。舞台には三つのパイプ椅子とスタンドマイク。現れたのは大岡信と谷川俊太郎そして吉原幸子。午前中に北海道にいた大岡信氏は楽屋で「すぐに帰らせてもらうから」とお疲れの様子だったらしい。打ち合わせもそこそこに舞台に上がった三者はほぼアドリブで語ったとのこと。アドリブだからこその本音もちらり。時代性を考慮しながら聴こう。

 

吉原)よく「あなたの一番自信のある作品はどれですか」とか「自分で一篇選んで下さい」なんて言われると、本当に困って「全部嫌いです」なんて言うんですけどね。

谷川)そりゃカッコよすぎるでしょ(笑)。

吉原)いえ、本当に。谷川)そのわりには舞台で堂々とお読みになるじゃないですか(笑)。

大岡)ぼくも同じ疑問を感じました(笑)。

吉原)あれはね、かなりずうずうしく見えるらしいんですけど、つまり書く時恥ずかしがってるのに読む時にもう一度恥ずかしがるのは卑怯なり、未練なりって自分で思うからなんです。

 

いじられながらも見事に切り返す幸子さん。思わず拍手。テキストとの距離の取り方をわきまえているところがさすがだ。書いた時に作者として自信がなくても読み手にまわって客観的に作品を眺める事ができなくてはならない。

 

吉原)自分の作品にはもちろん常に不満です。ですから「詩はこれでいいのか」って言われるとつい自分の詩のことを思い浮かべちゃいますけど、もし全体について言えることがあるとすれば、率直に言って「多過ぎる」っていう感じがあります。

谷川)詩が多過ぎるっていうことですか。

谷川)ぼくは交流分析の方の分類によると、比較的「アイム・オーケー型」っていう方に分類されるそうなんですけどね。

大岡)ぼくについても谷川はそういう分析をしたよ、「アイム・オーケーだ」って(笑)。

吉原)私はね、「アイム・ノット・オーケー」なんですよ。「ユー・アー・オーケー」なのに。

 

作品に対して作者はどのようにOKを出しているだろう。アイム・オーケー型の詩人なら書いているそばからOKを出しているのだろうか。それともやっぱり読者から高評価を得られた時点でOKになるのか。この問題を考えるには自作を批評する作者の言葉を聞くのが近道である。新装版『現代詩入門』(思潮社。1983年)の中には吉原幸子さんが書いた「曖昧なアリバイ」という文章が掲載されている。幸子さんは「独房」という作品についてその成立のプロセスを赤裸々に語ってくれている。コトバは自分を飾ることも暴くこともある。それも全部意味があってのこと。作品と鑑賞の間には正しい解釈が挟まれている必要がある。とわたくしはこの文章から感じた。例えば《ないホットドッグに/辛子と血をつけてたべる/まるでケチャップのやうにすっぱい》という詩句について幸子さんは次のように解説する。

《私はその前の晩も、のんだくれていたに違いない。のみはじめると何も食べないたちなので、前の昼からまる一日、“流動食”だけだったのだろう。気がつくと、惨めったらしくおなかがすいていた。ホットドックを注文し、ビニール容器の辛子とケチャップを塗って、ぼそぼそとかじった。当然、ケチャップも血の連想を呼んだ。〈ケチャップが血のようだった〉のではなく〈血がケチャップのようだった〉と(あとから)言いかえたのは、私にとっての血の優先的存在をあらわしたかったのだ》

この内的必然性は詩句だけを読む鑑賞者にはおそらく観えない。「血をつけてたべる」という云い方がいかにも気取っている。そう思うだけの人もいるだろう。しかし詩全体を味わう時。「血のようなケチャップをつけてたべる」よりも「血をつけてたべる」方が作者の真実を伝えているのは明らかだ。そのような隠し事を作者に強いるのがポエジイの働きなのではないか。幸子さんはこの文章の最後で自分の血で文字をしたためたこともあると告白している。それほど切実な問題を抱えていた内面をことばに移していたのである。

 

吉原をヨシハラと読む人とヨシワラと読む人がいる。幸子さんはヨシハラである。藤原はフジワラが多いがフジハラもちゃんといる。ハラをワラにしてしまう日本語のクセについて調べたくなった。北原白秋はキタハラ。中原中也はナカハラ。立原道造はタチハラ。だから吉原幸子はヨシハラで良い。詩が多過ぎると嘆いていた幸子さんはラ・メール会員から送られてくる膨大な作品に目を通しそこから秀作を選んで評を書くという作業に心血を注いでいる。ここでその短評をいくつか読んでみよう。

1《〈一冊の本〉とは、たぶん書き手の”一生“であろう。メルヘンタッチではあるが、〈最後に書かなければならない/ 一行〉──死、にまで思いをめぐらして、現実をもしっかり見据えようとしている。〈洗いたてのことば〉の清々しさ。》

2《宛名のない「ごめんなさい」を〈レポート用紙に〉書くところなど、微笑ましい。屠殺される牛と共に苦しんでしまう感情移入も。各連がバラバラのように見えながら危いバランスを保って美しい終連に流れこみ、世界への初々しい不安と陶酔を形成している。》

3《雪と雨のあわいにある〈みぞれがいい〉と言い、その三態に目と耳を凝らして微かなものを感じとる。詩歴の長い作者が、常に瑞々しい感受性を持続し、しかも大人のさりげない表現に結晶させる手腕はお見事。》

4《終りから二行目、文脈からはむしろはみ出る形で〈どうか〉の一語が置かれていることに感動した。つまり、〈この星が蒸発してガスと塵に還〉る可能性の消えない現代の若い世代にとって、これは一つの切実な祈りなのだろう。タイトルはむろん〈世界〉への、〈この星〉への”恋唄“。虫も貝も人も一緒くたに愛する思想だ。》

5《〈向こう〉とは”あの世“のようにも、また夢の中のようにも思える。その両方──つまり夢に彼岸の自分を〈いつも〉見るのだとしたら怖いはずだが、不思議と甘美な世界だ。もう一篇の「魚」も、母の胎内から〈魚のまま世界に旅立った〉としたら〈魚の私は、人間に生まれたかったなんて思わずに/真面目に生まれてきただろう/自分の身体の分だけ食べて〉と結ぶ、印象的な作品だった。》

6《岬さんは前号までの渡辺好子さんの新しいペンネーム。心機一転しようというわけか、オヤ、と思わせる作風の変化である。感覚的な鮮度は変わらないものの、表現に工夫をこらしすぎてやや硬直感がある。”コトバに淫する“道を避け、ナイーヴな良さを失わないで欲しいと思う。つまり、頭だけで書かず、目と耳と手で。》

7《非常に自由で率直な行と、少し気取ったり硬張ったりした行とが、混在しているように思われる。〈鏡を 午前中に……〉などの天才的な行と、〈……音のない喧騒〉などの類型的な行と。たまたま岬さんと「青」というモチーフも共通だが、同種の危惧を抱かせられる部分がある。既成のゲンダイシに似ないで!自分の個性を大切に。》

8《男女の会話、表情の変化、変身の妄想など、まるで一場の心理ドラマである。一連目がすでに全体の巧妙な伏線になっている。今回の入選作には虫だの蛇だのいろいろな動物が出てくるが、ここはやはり、仔犬や仔猫でなく鳥のヒナだろう。冷静なリアリズムで描かれた白昼夢。》

9《〈木の中を水がとおる音……〉の一行と、最終連の三行がスゴい。でも〈あなた〉が人間だとしたら、そんなに(永遠ほど)長い間、逢わずにいていいのだろうか? 〈わたしたち〉とは”木とわたし“かもしれない、などと、多様な読みとり方をゆるす、謎めいた作品。》

10《表現力溢れる村野さんがしばしば”軽いもの“に逃げてしまうのには(勿体なくて)ハラハラするが、よく見ればこの詩も軽いばかりではない。むろん、人間関係の、一つの寓話。終りの二行におどけながらの哀しみも滲み、ともかくカンのいい書き手だ。》

11《かなり人間側に引きつけた観察ではあるが、繊細で、静かだ。バッタの死で〈地面がわずかに沈んだ〉り、母猫の目が〈ふかい既視感〉をもっていたり。”知ってはいたが、指摘されて思い当たる“表現の多いのは、さすがである。虫、虫、猫では偏っているので、連作を続けてみたらいかが?》

12《こいけさんも、夢想をたいへんリアリスティックに描いて、力づくでその詩の世界を”在らしめて“しまうタイプ。時にはそれが奇矯に見えることもあるが、この作品では〈ゆうべ/死なせてしまった……〉以下の数行とか、〈鳥が……羽を痛めないように〉とか、何か放心したような穏やかなものがあって、惹かれた。傾いた骨の灯台だというのに、陰湿にならないところが美点。》

13《”幻肢痛“といって、ない手足が痛む現象があるそうだ。その反対に、第三連のようなこともあり得るのかもしれない。だから、第四連の後半に説得力がある。また最終連、〈どのようにして……〉以下二行には、人生への入り口で息をひそめる少女とはまた違った、成熟した女性のシャイな期待が感じられる。無駄のない、シンプルな表現が好ましい。》

14《廃墟の庭土を〈舞台〉と見立てた所にまず、都会暮らしの者には生まれない土俗的発想を感じた。そこに登場する蛇(の抜け殻)、蓬、読経の声と、大道具・小道具も揃っている。それらをうまく配置したと言ってしまえばそれまでだが、生き方への自省や漠然たる不安感を絡ませ、この国の原風景とも呼べるような一つの雰囲気を醸し出している。》

15《〈……と教えた〉とあるから、ジョッキイとはかつての絵画の教師に作者がひそかに与えたあだ名ででもあったのだろうか? それを作者が幻想で彩り、〈燐光を放つ〉深夜の馬に乗せてしまったのだろうか? ジョッキイの顔は見えぬながら、幻の馬の姿と音(オノマトペ)とが強烈な印象を残す、不思議な作品。》

16《方言詩は珍しいということもあるが、それだけでなく、内容的にも素朴で大らかな、人と人との何とも言えない暖かさが魅力だ。干刈あがたさんの『島唄』にも伝承の唄がたくさん採録されているが、この詩も節をつけて唄えるのだろうか? それとも、ただ朗読するだけでまるで唄になってしまうのか。一度聞かせてほしいもの。》

17《まったく普通のコトバをこれだけ短かく使いこなして、場所、季節、時間、そして一つの”気分“を伝達することに成功。長すぎる詩を書く方たちに、見習っていただきたい!》

18《宇宙もの、S F仕立てと言っても、この作者はちょっと十光年をダシに使うだけで、関心の的は完全に人間界、昨日けんかした〈恋人〉に集中しているのだ。そこが可愛い。若い世代の、爽やかな語り口。ついでに言うと”光年“というのは時間の単位でなく距離の単位ですから、混同しないように(反町さんは正しく用いています)。》

以上18作品に寄せられたコメントを「現代詩 ラ・メール 19」1988年冬号から引用した。会員作品の紹介は「ハーバー・ライト」と題されていて152頁から168頁に掲載されている。329篇の中から27作品が選ばれたとのこと。短評だけを読んでも面白い。詩が想像できる。後から作品に目を通したら。幸子さんがいかに的確に作品を掴んでいるかが分かって感嘆した。一つ一つの作品にしっかり入り込んでいないと書けない文章だ。コメントをもらった作者は嬉しかったに違いない。理解されている。これくらい励みになるものはない。それにしても選ばれた作品の質が高い。これらを集めたアンソロジー詩集があったらみんな度肝抜かれるだろう。果たして今これだけの詩が書ける人がどれくらいいるだろうか。幸子さんに見て欲しい。この吸引力が全国の女性に力を与えていたに違いない。80年代に現代詩はピークを迎えていたのかも。もしまだ「ラ・メール」が発刊されていたら。わたくしは性別を変えて投稿したであろう。それほど幸子さんの選評は丁寧で愛がある。作品と真っ直ぐ向き合ってくれている。これは人柄からくるものか。「アイム・ノット・オーケー」の幸子さんは基本的に「ユー・アー・オーケー」だと云った。本心だ。さらに幸子さんはこの号で8作品を佳作に選んでいる。それらにはコメントがない。「文句なし」「言うことなし」ということだろう。どうぞ作品を見て下さい。読めばわかりますよ。という声が聞こえてくる。実際その8作品はヤバい。

 

わたくしは今月に入り現代詩文庫56『吉原幸子詩集』に収録された詩を毎日一篇ずつ読むことにしている。その過程で気が付いた事を少し記しておこう。詩集『幼年連禱』に収められた詩篇には人間以外の生きものがよく登場する。そのこと自体は別に珍しい事ではないかも知れない。しかし幸子さんのそれら生物に注がれる眼差しは独特だ。個をたやすく乗り越える術を幸子さんは身に付けているのだろう。同情とか共感のレベルを超えている。向こう側の視点を持ってしまう。その事に関連して最近目にした本に興味深い言及があった。『私たちはどのような世界を想像すべきか 東京大学教養のフロンティア講義』(2021年5月。トランスビュー)の中で田辺明生教授は述べている。

《採集狩猟民にとっての世界と農耕民にとっての世界は異なってみえるものでしょうし、人間にとって現れる世界とハエにとって現れる世界は違うものでしょう。そのように、一つの客体化された自然世界だけがあるのではなく、身体や立場に応じた多なる世界というものがあるということに、私たちはより敏感でなくてはいけません》

《科学の世界と意味の世界をどのようにつなげるのか、「一つの世界」と「多なる世界」のギャップをどのように媒介するのかという大きな問題が今、私たちの前にあるといえるでしょう》

このような最新の知性が辿り着いた問題意識と吉原幸子さんの詩はとてもよく馴染む。想像していたよりも科学的な要素が盛り込まれているし。それに比例する形で多なる世界の視点が導入されるからだ。詩を読んでいると主体がぼやけて来る。この「ぼかし」の効果について少し考えてみたい。

例えば「象」。

《象よ啼け れうれうと 墓場への道》という詩句では象を客体として眺め。「なけ」と呼びかける一方で《人知らぬ聖なる地へ 走るけもの》と形容しながら象になってみなければ分からない彼らの生態(あるいは儀式)を讃えている。象を「かれら」として見る眼差しと「われわれ」と見る眼差し。二つの視点が併用されている。ちなみに「れうれう」を最初に読んだ時わたくしはオノマトペだと勘違いした。象の鳴き声をレウレウと表記するなんて。なかなかセンスがあるなあと思っていた。しかしよく考えるとこれは「寥々」の平仮名表記であり「りょうりょう」と読むべきだと後で気が付いた。幸子さんは歴史的仮名遣いの使い手である。それを踏まえれば「れうれう」は「りょうりょう」だ。「寥」という漢字はむなしいことを表わすからこれで意味が通る。象が寥々と啼いているのである。

例えば「無題(ナンセンス)」。

浴室でなめくぢを見つける主体。ところがいつの間にか《わたくしはなめくぢの塩づけ》となっていなくなってしまう。

例えば「血」。

蚊をたたきつぶす主体。ところが反芻していると《この虫こそがわたしだった》という考えにたどり着いてしまう。

例えば「こひびとよ」。

恋人への呼びかけで始まるのだが《それがわたしだったのか あなただったのか もう わからなくなって》しまい。終わりには《わたしたちは 一人しかゐなかった》と。

田辺明生氏の講義の続きを引用する。

《人間を英語で human being と言いますが、人間は一つの存在(being)として固定的なものというよりも、人間とは何かを探究しながら人間になっていく(becoming)ものですし、さらに人間だけでなく他の存在と共に生成していく(co-becoming)ものである》

幸子さんのテキストはまさに human co-becoming の立場から生成しているものとわたくしには思われる。第一詩集の刊行が1964年であることを考えても時代的に符合する。田辺明生氏は「人新世」の本格的な始まりを1950年代の「大加速」に見ている。こんにちに続く環境問題がそこから起こっているからだ。レイチェル・カーソン『沈黙の春』の原著が1962年の出版。詩人の直感はそうした時代の無意識を自然と取り込んでしまうのかもしれない。さらに幸子さんの同化は無機物にも向けられている。

例えば「挽歌」。

ひとけのない遊園地の情景を描いたあとに《死んだおもちゃよ わたしはお前たち》と。

例えば「病院」。

色がみで出来た金魚に同化して遠くへ泳いでいこうとする。

例えば「不眠」。

《かちかち、かちかち》と時計の針そのものになってしまう。

主体がぼやけることについてもう少し考えてみたい。これは意図的なぼかしなのかそれとも天然なのか。幼年期というものが一般的に自我の確立していない時期であるとすれば。「幼年連禱」と題された詩篇に現われて来る「わたし」はハッキリした主体を持っていない方が自然だろう。幼年時代というのは誰にとっても謎と不安に満ちている。そしてそれをコトバに変換することが当事者にとっては容易でない。だからこそそれを試みる事に意義がある。そしてそれに成功すれば価値もでてくる。コトバにしにくいからこそ形式を選ばなくてはならない。詩という形式は子どものコトバに類似している。詩の形ならかろうじて捉えることができるかも知れない。幸子さんは記憶を記録したかったのだろう。しかしそれはとても不確かだし曖昧だ。じぶんで捏造してしまうこともあるかも知れない。但しその事に十分に自覚的である。参照できる先人たちはたくさんいる。例えば萩原朔太郎。わたくしが最初に買った詩集は旺文社文庫の『萩原朔太郎詩集』である。この編者が那珂太郎さんであった。わたくしは那珂さんの解説のおかげで日本語の詩の世界に入門できた。朔太郎の歴史的仮名遣いにもこの文庫で触れる事に。『月に吠える』の中の「蛙の死」という作品を読んで電流が走った。そしてこの詩には「幼年思慕篇」という文字が添えられている。「蛙の死」の中に主体は出て来ない。那珂太郎氏が幸子さんの高校時代の教員だったという事実は重要だ。那珂氏の証言では幸子さんが高校生の頃は中原中也を気に入っていたらしい。あるいは那珂氏の教示でその他の近代詩人たちの作品に触れて行ったのかも知れない。戦後になって詩を書いている幸子さんがなぜ歴史的仮名遣いにこだわったのか。その謎を解くカギもこのへんの事情にあるのではないか。ちなみに「ハラ」組の詩人(北原・中原・立原・吉原など)の中で萩原朔太郎は数少ない「ワラ」派である。萩原をハギハラと読む人はおそらくいない。

 

萩原朔太郎の「蛙の死」をバージョンアップさせると吉原幸子の「虐殺」になる。また萩原朔太郎の「春夜」をバージョンアップさせると吉原幸子の「生きものの夏」になる。というのがわたくしの印象。ただし朔太郎の方は「幻覚」の記録で幸子さんの方は「記憶」の記録である。まるで那珂太郎氏を媒介して朔太郎の感覚が幸子さんに隔世遺伝しているかのようだ。「蛙の死」ではカエルが子どもたちによって殺され日が暮れて丘の上で帽子の人がそれを見ている。「虐殺」ではミミズとダンゴムシとトンボと青虫などが子どもたちの犠牲になり夕暮れに窓の奥から少女がそれらを見ている。見ている者が影の中にいるので誰だかわからない点と子どもらは見られていることに気がついていない点も同じである。帽子の人は作者自身かもしれないしそうでないかも知れない。窓の奥にいる少女は作者自身かもしれないしそうでないかも知れない。わたくしも少年時代ずいぶん生き物を殺した。蛙の生皮を剥いでザリガニ釣りの餌にした。蜘蛛とカマキリを同じ虫籠に入れてどちらが勝つか観察した。ミミズを切り刻んで虫眼鏡で太陽光を反射させ焼いた。蟻の巣に大量の水を濯ぎ込んで全滅させようとした。蛹の中身を覗きたくなってハサミを入れた。少年は好奇心にかられてそのような行為を遂行する。そしてそれを少しも残虐だとは思っていない。それを残虐だと見るのは大人である。大人の視線を通さなければ少年はじぶんが虐殺を行なっていることに気がつかないのだ。年長の友人がヒキガエルを壁に繰り返し叩きつけて遊んでいる光景が記憶にある。ところで。「蛙の死」を読んでわたくしはどうして子どもたちが蛙を殺したと思ったのだろう。詩にはそんなことは少しも語られていない。蛙が殺されたこと。血だらけの手をあげて子どもたちが輪になっていること。月が出たこと。人が立っていること。それらが並列されているだけの話である。蛙を殺したのは丘の上に立っている人だったかもしれないではないか。その死骸を子どもたちは触っただけかもしれないではないか。詩というのは実に恐ろしい。説明しないからどうにでも読めてしまう。帽子の下の顔がどんな表情をしていたか。悲しんでいたか。笑っていたか。それも読み方によって変わる。それに比べると「虐殺」の中の犯行は明らかに子どもたちによるものである。そしてそれを監視している少女の位置も動かない。幼少期の経験をわたくしと幸子さんは共有できていると云える。朔太郎の「春夜」は海の中の生き物をみつめる視線が渚をあるく人々へ移っていく。幸子さんの「生きものの夏」も海辺が舞台で生きものたちと人々の暮らしが記録されている。詩の材料が共通なだけではない。どちらもどこか不気味な様子が全体を包んでいる。そしてここでも朔太郎は「幻覚」を記録している。《腰から下のない病人の列》という詩句をどう解釈するか。海につかっている人々を連想するか。それとも幽霊を連想するか。ただ夜だからそう見えるのか。それに対して幸子さんはやはり「記憶」を記録していると云える。他人の記憶がどうして芸術になるのか。この問題をめぐって考察することがこの研究のメインテーマになりそうだ。その延長で幻覚を芸術とみなしてきたことの是非も論じてみたい。まずは徹底的にテキストを読むこと。それも声に出して読むこと。繰り返し。

 

わたくしの息子が高校時代に使用していた筑摩書房の『精選国語総合現代文編』には幸子さんの「喪失ではなく」が掲載されていた。谷川俊太郎「二十億光年の孤独」と萩原朔太郎「死なない蛸」「およぐひと」そして室生犀星の「小景異情その二」が一緒に紹介されている。わたくしが使用した『現代文改訂版』には島崎藤村「白壁」・上田敏訳の「山のあなた」「落葉」・高村光太郎「根付の国」・佐藤春夫「犬吠岬旅情のうた」・西脇順三郎「天気」「眼」・伊東静雄「わがひとに与うる哀歌」・山之口貘「弾を浴びた島」・黒田三郎「そこにひとつの席が」などが明治大正昭和の代表作として選ばれている。30年のひらきがあるわたくしと息子。同じ筑摩書房でもずいぶん様相が違っている。詩歌に対する熱量の差がそうさせたのだろうか。息子の教科書には《「喪失ではなく」について、表題の「喪失ではなく」にはどのようなことが表されているか、説明しなさい》と書かれていた。「喪失ではなく」というタイトルはこの詩をいくら読んでも出てこない。この問いはあまりに酷である。要するに「えうねん(幼年)」を再認識できるのは大人であるということ。失ってみなければ気付けないことがあること。その発見が啓示のようにふと作者に訪れたことが流れるように記されている。のだが。それでも「喪失ではなく」というタイトルがどうしてそこから出てくるのか生徒たちには一向に解読できなかったであろう。やはりここでは詩集としての『幼年連禱』をきちんと示すべきだ。幼年連禱二の「喪失」と幼年連禱三の「喪失ではなく」をセットにして読むだけで良い。「喪失」では失われた幼年が二度と戻らないことを悲しんでいた。「喪失ではなく」ではそれは失われていなかったことに気がついた。この前言撤回あるいは反転こそが『幼年連禱』を読み解く鍵ではないだろうか。詩の中にあって前言撤回の話法は大きな仕事をしてくれる。例えば幸子さんの詩句から。《するとおまへは ゐなくなるくせに そこにゐる》(「無題」)。《わたしはどこにもゐなかった わたしはまっただなかにゐた》(「夢遊病」)。《わたしたちは 一人しかゐなかったのでした》(「こひびとよ」)。

わたくしが前言撤回話法で最初にやられたのはやはり松本隆さんの詩。聖子ちゃんの「小麦色のマーメイド」の《嫌い あなたが大好きなの 嘘よ 本気よ》と。ここで当時の男子中学生はみな卒倒する。そしてラストで《好きよ 嫌いよ》。反語の見本のような決め台詞。嫌いよで終わる余韻の半端なさ。幼年連禱二の「喪失」では《大きくなりたいよう》が《小ちゃくなりたいよう》に反転する。《もう 泣けなくなってしまった》と云ってすかさず《そのことがかなしくて いまは泣いている》と結ぶ。

 

幼年連禱二から三へ。なにか見えない小さな態度の変更があるように思えて来た。「喪失」ではじまる二と「喪失ではなく」ではじまる三の差異について。二はノスタルジイが強いように見える。失ったかけがえのない時間への。三は「思い出」に昇華させて慈しむ。三に集められた詩篇はどれもどこか微笑ましい。たとえそれが戦争体験であったにしても。それはきっとそれらの事象を「思い出」として幸子さんの胸がしっかり受け止めているからではないか。哀しい記憶と甘い記憶の違いか。あるいは不安と安心のちがい。『現代詩手帖』2013年2月号「吉原幸子の世界─没後10年」には池井昌樹氏と小池昌代氏の昌昌コンビが幸子さんについて語っている。直接面識のあった年下の者から幸子さんはどんなふうに見えるのか。気になる箇所を抜粋する。

《その頃の吉原さん、基本的にはやさしかったけれど、何か、けんかしようと思って待ち構えている思春期の男の子のような目をしていました》と小池氏。

《『オンディーヌ』と『昼顔』が出たときの吉原さんて、すごく輝いていました。はじき返されるような輝きでした。けれど、わたしにはとても馴染めなかった》と池井氏。

《「女性詩」を書いた吉原さんなんだけど、わたしが立ち止まらされてしまう吉原さんの詩って、性を超えているんですね。女性でも男性でもない》と池井氏。

《わたし感傷性って、女のものじゃなくて男のもののような気がしてならないんです。女の詩人にあんな感傷ないですよ。もっと冷めてるっていうか、現実的。わたしがそうなのかしら。わたしは、女の詩人で吉原さんのような感傷性を持っている人が他に思い当たらなくて》と小池氏。

どの詩人にも多面性があると思うが吉原幸子さんのペルソナはより複雑だと感じる。一周すると単純に見えるのかもしれないが。即断は禁物。他の詩人たちの証言も参照しよう。

《言葉を無駄とは思わぬまでも、疑うべきもの、信じ過ぎてはいけないものと思って、ものを書くのもたつきの道と割り切って生きてきたから、生活の形は違っても、吉原さんとはそのあたりで暗黙のうちに共感し合っていたのではないか》と谷川俊太郎氏。同じく『現代詩手帖』2013年2月号より。

《わたしは、いつのまにか幸子さんが大好きで、小学生みたいによく、ふざけっこをしていたのだ。彼女の方が、ちょっと要領がいいので、わたしが損をする。彼女はイタズラッ子で、わたしが、こまるのをみて、楽しむのだ》と白石かずこ氏。同じく『現代詩手帖』2013年2月号より。

《吉原幸子と知り合ったのは、昭和三十七年、ほとんど同時に「歴程」に入ったのがきっかけだったのだが、「歴程」というグループに全く無知だった私は、このグループのお祭り好き、「歴程」という詩誌が出なくても、野球好き、お芝居好き、お金がなくてもお出掛け好きに驚かされた。「未来を祭れ」という旗印の年一回の歴程祭のお芝居のお稽古とやらで、伊豆山の旅館での集会となった。私たちより一年早く入っていた山本道子とも、そのときがはじめての出会いで、吉原幸子と私と山本道子は、あっという間に一生の友となるのである》と新藤凉子氏。同じく『現代詩手帖』2013年2月号より。

《だれか、や、なにか、に会うとき、どうしようもなく「外がわから出会う」しかないのだけれど、吉原さんとあうとき、私は「ひと」としてでなく「いきもの」同士として会っている気がした》と工藤直子氏。

同じく『現代詩手帖』2013年2月号より。《美貌の詩人は、酔うほどに目がすわり、弁舌は凄みを増した。やりこめられてたじたじの私がいた。それもそのはず、吉原さんは東京市四谷區生まれの、ばりばりの東京子。歯切れの悪かろうはずはない》と福島泰樹氏。同じく『現代詩手帖』2013年2月号より。

《吉原さんは花の雰囲気を詩に取り入れようなどとは決して思わなかった。その詩には「うた」があるけれども、雰囲気を重んじているのではなく、きわめて骨太の詩なのである》と高橋順子氏。同じく『現代詩手帖』2013年2月号より。

《吉原幸子は特に心に誠実だったが、心だって体と同じように、野放しでいるとついラクなほうへと流れる。たとえば辛いことは見ぬふりをしようというような。自分の心に障るものにひたと目をやる習性は、終始この書き手を蝕み、詩を豊かにもしたと思う》と井坂洋子氏。『現代詩手帖』2013年2月号より。

《思春期の頃から最後の作品まで吉原さんは詩のなかで繰り返し泣いてきた》と平田俊子氏。『吉原幸子全詩』から「泣」「涙」「なみだ」を探して貼った付箋は百枚近くになったとの事。同じく『現代詩手帖』2013年2月号より。

《ちょっと心を病んだような人が会に来たりすると、明け方までつきあって話を聞いたりするので、翌日はほんとに消耗しきっていましたね》と棚沢永子氏。同じく『現代詩手帖』2013年2月号より。

《いま思うと母のことをちょっと怖がっていたのかもしれません。おばあちゃん子でしたから。ただ、毎年母が連れていってくれる歴程の夏のセミナーや旅行は楽しみでした》と吉原純さん。同じく『現代詩手帖』2013年2月号より。

《〈ゐる〉のうずくまった形象は〈在る〉という姿をあらわしている。変り身とは縁遠く、強情なまでにがんじえない彼女の骨の髄には失われた旧カナへの思いがつよくあった》。《いまの若い人には気障に思われかねない旧カナ遣いに固執するのは、吉原さんの矜持だった。吉原さんは想いをうたへ昇華させるきわめて繊細な技巧派であったといえるのだ》と國峰輝子氏。同じく『現代詩手帖』2013年2月号より。

そういえば《れうれうと 象は啼く》をよく見ると「れ」が象の鼻を連想させるし「う」が象の耳を連想させる。もしも「寥々」という漢字で表記していたら象のイメージが弱まっていたにちがいない。

《象よ啼け れうれうと 墓場への道》

形から連想できるようにあえて歴史的仮名遣いを使用したとわたくしは考える。

《なめくぢ 匍ってゐる》

この場合も「いる」より「ゐる」の方がなめくぢ感が出るのではないか。旧カナの「ゐる」という字の存在感。さらに「なめくじ」と「なめくぢ」では圧倒的に旧カナの「ぢ」の方が良い。草稿段階では「じ」であったものを幸子さんは「ぢ」に直した。理由は「なめくち」という語源からくる生々しさが「じ」にすると失われるからだろう。口を舐めた跡となめくぢの這った跡の類似性。コトバの中にある身体感覚。このような仮名遣いへのこだわりも朔太郎ゆずりである。那珂太郎さんが教えてくれているように「てふ」を「チョウ」と読ませなかった朔太郎。しかも作品「恐ろしく憂鬱なる」は「てふ」の字形の効果で蝶々が舞っているように見えるではないか。こうなると「れうれう」もわざわざ「りょうりょう」と読み直さなくても良かったのかも知れない。作品に註が付されていないのでどちらとも云えないがわたくし個人は「れうれう」はそのままレウレウとオノマトペとして読む方が好き。賢治さんだって字形で遊ぶ。虫が水の中で体をくねらせている様子を字にしちゃう感覚。

 

2022年2月2日。2が並んだので昨日S野くんと合流し三鷹→荻窪→吉祥寺→調布と古書めぐり(鷹窪ジョージ府に落ちる)。吉原幸子研究の資料集め。道すがら研究の中間報告。見つけた資料の中でも「國文學」1978年10月号が大いに参考になった。「幼年連禱」の詩篇を精読する過程で幸子さんは朔太郎の影響を強く受けているに違いないとわたくしは思っていた。ところが掲載された文章を読むと朔太郎の作風にあまり馴染めなかったらしい。さてさてその真偽は。

幸子さんいわく《正直にいえば、文学青年たちの間で詩の神様のように言われている割には、あるいはそれだからこそ、私には朔太郎の世界にどうも素直に入ってゆけない思いがあった》。

幸子さんいわく《まだ人生のうす暗さや湿っぽさにほんとうには出会っていない若い女の子に、彼の苦しげな溜め息や”病的“な触覚はなんとなく気味がわるかったのだろうか。ちょうど、女学生のころ少し異常なラブレターをよこした大学生の、暗い眼つきと不精ひげがこわかったように》。

幸子さんいわく《今の時点でさえ、私はその時期の彼の一連の作品に、ほとんど目をそむけたくなるほどの尻込みを感じる》。

幸子さんいわく《つまり、私には今、それらのイメージがわからないわけではない。その情景がありありと見えてこないわけではない。逆に、見えれば見えるほど、私の”健康な“側の感覚がそれを拒否するのだ》。

幸子さんいわく《「わかったわかった、もう見せないでください」と言いたくなるような、生理的な拒絶反応》。

ここまで来ると「ちょっとちょっと」とこちらが云いたくなります幸子さん。もしかしてこれはいわゆる近親憎悪? 似ているからこそマトモに見られない? 

幸子さんいわく《心理的には、それは一種のてれ臭さにも似ている》。←やっぱり。

『月に吠える』はウエットすぎると感じていた幸子さんも「殺人事件」という作品だけは暗誦できたらしい。それで大学の先輩にこの詩をメモに書いて渡したら返詩をもらった。なんで朔太郎の作品に返詩? 先輩に訊くと「これきみの作品じゃないの?」と勘違い。というエピソードが挟まれている。やっぱり似ているんだわ。考えてみれば人生のコースもよく似ている。結婚して子ができて離婚して実家に子をあずけるという流れとか。お酒に飲まれてしまうところとか。ひたすら詩友に恵まれていることとか。仲間と詩誌を出したり。人魚詩社というネーミングと書肆水族館のネーミングの類縁性等。思い出したいのは吉原幸子さんが「前言撤回」の名人であるということ。わたくしの見立てでは萩原朔太郎に関して「嫌いすぎて好き」なんだと思う。あるいは「好きすぎて嫌い」? この『國文學』1978年10月号には那珂太郎氏と大岡信氏の対談が掲載されている。筑摩書房の『萩原朔太郎全集』全十五巻の編纂を終えられた那珂太郎さん。その仕事ぶりが垣間見られる素晴らしい対談だ。このとき朔太郎の自筆歌集「ソライロノハナ」が編纂の最後の段階で見つかったらしい。拾遺詩篇や草稿もぐんと増え。さらに未発表ノート二十数冊の活字化など。その編集の作業は想像を超える大変さだったに違いない。このような先人の労苦のおかげでのちの我々は詩人の全貌を知ることができる。

 

那珂太郎さん。本年が生誕百年。改めて感謝の意を。吉原幸子さんが恩師・那珂太郎(福田正次郎先生)について語ったエッセイには《終戦の翌年、中学(その頃はまだ高女)二年の私が疎開先から東京へ復校してくると、米軍の教科書検閲などで慌しい雰囲気のなかに、髪の長い、思索的な眼をした若い国語教師が居られました》と。それから五年間の中高校生活を同じ学校で過ごされた那珂太郎さんと幸子さん。その麗しい交流を想像してなんだか涙がポロポロこぼれてきた。

《私は今、かつて印象深くきいたたくさんの先生の講義を思い起します》

《先生の朗々たる名朗読のお声、朔太郎は勿論、近松の曾根崎心中の有名な道行「此世の名残り夜も名残り、死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜……」などきかせていただいた経験は、後に私に全十六巻の近松全集を読ませるだけの力をもっていました》

《先生の名づけられた「果樹園」という校内誌に、国語の宿題で書いて行った私の”処女作“をのせ、激励して下さった先生は、「君は宿題でないと書けないのかね。困ったもんだ」と嘆いて下さり、また賞品として原口統三の『二十歳のエチュード』を選んで下さり、御自分の作品ノートを読ませて下さり、サイン入りの第一詩集を贈って下さいました》

(吉原幸子『人形嫌い』(思潮社)「師への手紙」より)。

 

ここから「幼年連禱四」のJをめぐる問題について考察してみたい。『現代詩手帖』2013年2月号に戻って。「池井昌樹+小池昌代対談」で池井さんは《この詩集のなかに突如として「Jに」という一連があって、これがいいんですね》と。ところが小池さんは《わたしはこれがダメなんですよね》と。「池」と「昌」が同じふたりでも「Jに」関しては評価が真っ二つに分かれるという面白さ。二人の論点を比較してみる。

《本当ならもう少し隠しておいてほしい》(小池)

《Jを透かして自分の幼年が世界を見ている》(池井)

《吉原さんの吐息を見ることになるのが苦手》(小池)

《息子恋しの詩じゃないんだよね》(池井)

《読んでいると、恥ずかしいんですよね》(小池)

《恥ずかしいを超えて、吃驚仰天するのね》(池井)

《生理にひっかかってくる》(小池)

《Jについて書いているんじゃない、Jを通して向こう側にあるものを書いている》(池井)

この読みの違いがどこから生じるのか。男性と女性の違いだと云い出すと現在では全く通用しない話になってしまう。母の側と息子の側という視点でも同じことか。わたくしが「J」で思い描いたのはまずJesusの「J」。こうなると話者は必然的に聖母になる。「愛」という作品で《みんなをつつんで そしてもうだれも死なない》と詠んでしまう詩人なら聖母の視点からだって書けてしまうだろう。しかし「Jに」の話者はそんなにあたたかい眼差しでわが子を見ているわけでもない。母性より知性が強い。母性の側面だけを読めば小池さんのような評価になるだろうし知性の側面だけを読めば池井さんの論点にうなずくことになるだろう。わたくしには《おそろしさとは ゐることかしら ゐないことかしら》と問う「無題(ナンセンス)」の話者の顔が浮かんでいる。その顔をよく見るとサルトルに似ている。あるいはデカルトにも見える。サルトルならジャン=ポールの「J」か。デカルトなら Je pense, donc je suis の「J」か。東大の仏文科の学生時代に《大学の演劇部に所属したことによって、サルトル、カミュ、アヌイ、ジロドゥの(主に戯曲の)世界が、こんがらがりながら押しよせてきた》と語る幸子さん(吉原幸子『人形嫌い』(思潮社)「読書の旅」より)。

「存在」への問い。幸子さんは幼年期から変わらず問い続けてきたのだろう。例えばサルトルの『嘔吐』の中の《私の考え、それは〈私〉である。だから私にはやめることができないのだ。私は私が考えているものによって存在する……そして、私は考えることをやめることができない》という主人公の内省。同じくサルトル『嘔吐』の中の《いまのこの瞬間でさえ──それは恐ろしいことだが──もし私が存在するとすれば、それは、存在することに私が怖れを抱いている〈から〉だ》という言葉と《おそろしさとは ゐることかしら ゐないことかしら》という問いはきれいに付合している。「ある」ということが自明の世界。それについての異議申し立て。「ない」のではないかという懐疑。サルトルを経由してデカルト的省察へ。幼年連禱を読んでいるとデカルトの顔が頭に浮かんでくるのはなぜか。デカルトの『省察』(中央公論『世界の名著』22)からいくつか言葉を拾ってみよう。狂人たちは《無一物なのに自分は帝王であるとか、裸でいるのに紫の衣をまとっているとか、頭が粘土でできているとか、自分の全身が南瓜であるとか、ガラスでつくられたものであるとか、しつこくいいはっている》。けれどもそんな私も《夢のなかで、彼ら狂人たちが目ざめているときに体験するのと同じことをすべて体験し、ときにはもっとありそうもないことをさえ体験する》。《この手を私は、故意に、かつ意識して、伸ばすのであり、伸ばすことを感覚している。これほど判明なことが眠っている人に起こるはずはないであろう。とはいえ私は、別のときには夢の中で、やはり同じような考えにだまされたことがあったのを、思い出さないだろうか》。《これらのことを、さらに注意深く考えてみると、覚醒と睡眠とを区別しうる確かなしるしがまったくないことがはっきり知られるので、私はすっかり驚いてしまい、もう少しで、自分は夢を見ているのだ、と信じかねないほどなのである》。

幸子さんの詩句に戻れば《わるくないもん だって 夢がいけないんだ 紙が》(「狂」)。《支那料理やに西瓜があるものだらうか》(「夢遊病」)。《それでも あるならば せめて うつくしい 手ざはりのみよあれ》(「怠け者のうた」)。《覚めたとき わたしにはわからない 夢のなかで みたと思った色が 色 そのものであったのか それとも ただ 色の記憶であるのか》(「忘れた」)。これらは詩作というより思索であろう。夢や記憶にまつわる思索の言葉(省察)がそのまま記されている。とわたくしは思う。小学生の頃から日記を欠かさず記してきた少女は東大で演劇に目ざめ卒業して「劇団四季」に入り二十代半ばで結婚し三十手前で出産そして『幼年連禱』を生み出す。これら半生の闘いの記録の果てに「Jに」がある。なかでもわたくしが最も心動かされた詩句

《手をさしのべ 身をのり出して むきたての世界を おまへは つかむ》(「Ⅷ Jに」)

生まれたばかりのJに憑依して語られた渾身のコトバ。西田幾多郎なら「純粋経験」と呼んだであろうところのもの。かくしてわたくしのJをめぐる考察は「純粋」にまで到達し〈J=純〉というふりだしに戻ったわけであるが。これまでの深読み。Jesus のJ。ジャン=ポール・サルトルのJ。ジャン・アヌイのJ。ジャン・ジロドゥのJ。という迂回が無意味であったわけではない。本人は《「あたらしいいのちに」に続いた「Jに」の連作が、生れてきたJという存在にダブりながらもう一度私に、”幼年“をみつめ直させたのである。一・二・三章でああも言いこうも言いたかったのは実はこんな単純なことだったのか、という驚きと共に、私は『幼年連禱』の第四章を書き上げた》と。あとは「墓碑銘」をつけて閉じてしまえばもう言葉は要らないという地点にまで到達してしまった。ちょうどランボーがそうしたように幸子さんの詩作もそこで終わってよかったのである。ところがここでもやはり前言は撤回される。さちこさ〜ん!この先をわたくしはあまり見たくない。ひとまず第一弾をここで終えよう。

 

 

 

☆吉原幸子研究その2。2022年2月12日から2月28日に記す。

 

 

吉原幸子さんは記憶を言葉で再構成する能力が人一倍優れていたのであろう。それを日記として提示してもよかったし。あるいはエッセイの形でもよかったのであるが。たまたま詩のグループに所属して他の詩人たちと触れ合っていく内に詩集としてまとめる方法があるという事を学んだのだと思う。記憶は映画のように動画として残っているのだろう。そのフィルムを時にコマ送りしてみたり静止してみたり巻き戻しや早送りしてみたり。その塩梅が実に巧みである。詩は省略の文芸であるから削り方次第でどうにでもなる。意味不明になったり暗示的になったり示唆的になったりあからさまになったり。わたくしの印象では無駄な言葉はきちんと削られているが真意がくみ取れなくなることがほとんどない。伝わるように書かれている点では日記であり克明でない点では詩になっている。「第一詩集論」というものがあるとすれば『幼年連禱』はその例として重要な位置を占める筈だ。北原白秋の『邪宗門』。萩原朔太郎の『月に吠える』。宮沢賢治の『春と修羅』。中原中也の『山羊の歌』。これら第一詩集と幸子さんの『幼年連禱』を比較してみればその存在の独自性も明らかになるにちがいない。例えば『邪宗門』は詩としての格調は高いかも知れないが意味はよく分からない。『月に吠える』は画期的な詩集であるがそのグロテスクな雰囲気に慣れるまでには時間がかかる。『春と修羅』は新感覚かもしれないが語彙が特異すぎる。『山羊の歌』は告白し過ぎ。その点『幼年連禱』は誰の胸にも眠っているノスタルジイを十分に想起させてくれるし。共有しやすい体験に立脚している。「少年」や「少女」としないで「幼年」としたところにも上手な配慮を感じる。まるでジェンダーフリーを先取りしているかのようだ。内容面で見れば北原白秋の第二詩集『思ひ出』や萩原朔太郎の『純情小曲集』の方が近い。また我が子をテーマにしている点では中原中也の『在りし日の歌』と比較できる。そう考えるとこれまでの近代の詩人たちが第一詩集として世に問う在り方と幸子さんの第一詩集の在り方は逆転していると云えるのではないか。室生犀星も第一詩集は『愛の詩集』であり『抒情小曲集』はその後だ。白秋と朔太郎と犀星はまず大人としての立場から第一詩集を世に問うてその後に望郷や郷愁をまとめている。幸子さんはちょうどその反対ではじめに幼少期を追憶し。あとから恋愛問題を詩としてまとめたかたちになるだろう。しかし詩集が成立する過程を詳細に調べてみるとさらに興味深い点に行きあたる。それは『幼年連禱』がまとまる過程で同時に『夏の墓』が成立しているという事実だ。むしろ『夏の墓』が出来てしまう事によってあわてて『幼年連禱』がまとめられたというふしがある。こうして考えて行くと。詩人たちは失恋と郷愁のあいだで詩を作っているのではないか。という問題が浮上してくる。

 

わたくしは以前から文学における「赤と白のテーマ」というものを考えて来た。赤という字が象徴しているのは〈女性・生・血・卵子〉であり。白という字が象徴しているのは〈男性・死・骨・精子〉である。さらに日本の国旗や紅白歌合戦などにも関係がある「赤と白」について。『幼年連禱』の中にも作者の意図とは関係なくこのテーマが表面に現れてきているのをわたくしは見る。例えば「狂」という作品に《赤い字を 書くのです》のすぐあとに《いっぽんの 白い髪》とある。例えば「花」という作品に《透きとほった血をにじませて ひとひらひとひら 死んでゆき 傷口をつなぐ 白いもめんいと》とある。例えば「絵本」という作品に《何もいらなくなってしまった この白い 赤い味》とある。例えば「虐殺」という作品に《みみずの白い死》と《赤い血は空に流れて》とある。例えば「生きものの夏」という作品に《白い荘の 夏ごとに 庭は狭まり のぼった 赤いさるすべりと》とある。例えば「朝」という作品に《こはれた赤いバケツ》と《きびがら細工の 白い切り口も》とある。例えば「通勤」という作品に《白いもやのなか 白い鳥が渦巻く》のすぐあとに《朝日も 夕日のやうに 赤いのだった》とある。このように「赤と白のテーマ」が散りばめられているおかげで詩集全体に統一感があるように思われるのだ。それを一言で「生命力」とか「ライフ」とか「人生」などと云っても良い。あるいはそこから「受精」のイメージも出て来るだろう。そのおかげで「Jに」の連作に強い説得力が感じられる。新しい生命が誕生した事によってテーマが完結しているように見えるからだ。だからわたくしは『幼年連禱』の締めくくりは「Jに」の連作でよかったのではないかと考えるのであるが吉原幸子さんはそれをしなかった。ここが次の問題なのだ。

 

「Jに」の連作は生の賛歌である。Jの目を通して「純粋経験」にまで到達しコトバのいらない世界を手につかんだ。筈であった。ところが『幼年連禱』は赤組の勝利に終わらなかった。白組つまり死が忍びよって来て詩人を脅かすことになる。そして幸子さんは「かなしいおとなのうた」と題された作品群を集める。「忘れた」という作品はデカルトの省察そのものである。脳が見ているのは外の世界か。それとも脳の中の世界か。「考える」ことを考えている。《思った そのことだけが のこってゐて》=コギトエルゴスム。「Jに」はいつの間にか「子に」となり《裁くべき神》となった。《赤なら 赤 といふことばによって ふりかへる するともう 赤はない》(「忘れた」)と云い《白く ただよふことができたら》(「ひとで」)と云う。さらに白組の攻勢は続く。《しらじら明けの 今日》《わたしには 父もない 母もない》(「夜明けに」)と云い。《めんどりだけで生んだ卵が 白く 店先に 氾濫し》《何といふ おびただしい 死》(「卵」)と云う。そしてJはコトバのいらない世界を離れ《クモガオシッコシテ アメガフルヨ》と云い出すようになる。赤は圧倒され白が世界を覆う。《白いもやのなか 白い鳥が渦巻く》《朝日も 夕日のやうに 赤いのだった と 人たちは もう憶ひ出さない》(「通勤」)のだ。この一連の白の攻勢によって作者はバタンと詩集を閉じる。そのために「墓碑銘」を記す。しかしそれはほんとうの終わりではなかった。墓碑銘は記したがそれを刻む墓がなかった。作者には反復が必要だったのだろう。こうしてひとつの夏がやって来る。「かなしいおとなのうた」を書き進めているうちに詩集『夏の墓』の作品たちが生れて来てしまった。年譜がそれを裏付けている。

1961年 長男純、生まれる。『幼年連禱』を書きつぐ。

1962年 離婚。草野心平を識り「歴程」同人となる。

1964年 第一詩集『幼年連禱』(歴程社)。詩集『夏の墓』(思潮社)。同人誌「ヴぇが」創刊。

 

2022年は幸子さんが「歴程」の同人になってから60年の佳節でもあるわけだ。ここで少し「歴程」にまつわる話を幸子さんの口から聞かせてもらおう。出典は吉原幸子『人形嫌い』(思潮社)から。

《高校卒業から長いブランクを置いて、私が「歴程」同人に推せんしていただくことになったのも、たしか同窓会がきっかけでした。国立の町で桃を買い、御一緒に草野心平さんのお宅を訪ねた時のことはよく覚えています》(那珂太郎氏へ宛てた「師への手紙」より)。

《私は歴程であまり古株とはいえないから、歴史にのこる名舞台、太郎さんと会田綱雄さんが有史以前の女になって男どもを食べてしまったというそれを、残念ながらみていない。──それでも、仲間入りさせていただいてから十年余りが、いつの間にか経ってしまった》(山本太郎との思い出を語った「太郎さんとフェスティバル」より)。

《今思い出してみると、参加後初めてのフェスティバル、私の歴程での初舞台には、太郎さんと共演している。しかも夫婦の役だった》(「太郎さんとフェスティバル」より)。

《先に改札口をとおり、たまたま隣のプラットホームで買い物(むろん、ポケットウイスキーの)をしていた新藤凉子さんと私の眼に、同じホームを向うの端からぶらりぶらりとやって来る怪しき三人連れの姿が映りました。これが粟津、安西、中桐のお三方。この奇しきめぐり会いによって伝令がとび交い、電車はわれわれ全員をのせて出発できたのです》(歴程の座談会のため箱根へ向う同人たち。「酒とことばと数学と」より)。

《例外的に、永遠に青春の中にふみ止まっているような人たちというのもいるし、そのような人間の集団もある。私の知っているそれらの一つは、「歴程」という詩人のグループ。今の私がいちばん“打ちとける”ことの出来るのは、そこである》(「わたしの男友達」より)。

《二十歳から七十歳までの世代を抱えこみながら、そこでは、実際の年齢はほとんど問題にならない。中でも特に私がなつかしさを感じるふたり、草野心平さんと会田綱雄さんについて少し語ろう》(「わたしの男友達」より)。

幸子さんは歴程で水をえた魚(酒をえた幸子?)になって実に楽しそうである。

 

草野心平さんと云えば。2018年11月11日に純さんやポエ友たちとツアーで行った山梨県立文学館が懐かしい。またみんなで歴程フェスティバルのようにわいわいやりたいな。草野心平展に行っていちばんためになったことは自筆原稿をこの目で確認できたこと。例えば『第百階級』の中の「生殖 I 」という作品の「る」がなぜ20個なのか。その理由が分からなかった。原稿をみるとそれが一目瞭然。原稿用紙20字の上から下までびっしり書いたらそうなった。重要なのは20という数ではなくマスに対し「る」をびっしり埋めているという事実。連結した蛙の卵がはち切れんばかりに池を埋めている様子を描きたかったのだと思う。『第百階級』の序文は高村光太郎。この時から二人は切っても切れない関係だった。光太郎いわく《彼は蛙でもある。蛙は彼でもある。しかし又そのどちらでもない》と。さすがに見抜いている。蛙が両生類であること。水中から陸へあがった最初の部類であること。さらに飛び跳ねることで空へも行こうとすること。陸海空の支配者としての蛙。その階級を百とした草野心平さんの慧眼! 高村光太郎から吉原幸子まで分け隔てなく人間として付き合った心平さんは過去現在未来の詩の体現者だ。

 

草野心平さんが中華民国に留学している時に広東で創刊した詩誌『銅鑼』について触れておこう。創刊同人は五人(草野。黄瀛。原理充雄。劉燧元。富田彰)。1925年4月のことである。三号で(坂本遼。岡田刀水士。高橋新吉)が加入し。四号で(宮沢賢治。三好十郎)が加わる。ガリ版刷りであったところが実にカッコイイ。その後の加入者も凄い顔ぶれ。土方定一。佐藤八郎(サトウハチロー)。手塚武。小野十三郎。尾形亀之助。岡本潤。壺井繁治。赤木健介。野川隆。三野混沌。江森盛彌。猪狩満直。妻木泰治。など。アナキストの詩人が目立つ。心平さんがアナキスト気質だったことによるのだろう。集って来た同人たちがあまりにも癖が強かったせいで結果的に対立が生じ1928年6月で自然消滅してしまう。このあと心平さんは『学校』という詩誌をつくる。その後の事についてはアナキストからマルクス主義者に変わっていった壺井繁治の文章がとても参考になる。『現代詩の流域』(筑摩書房)から引用する。

《『学校』の創刊されたのは一九二八年十二月で、東京から前橋へ落ちのびてきた草野心平の発企に基づくものであり、伊藤信吉と横地正次郎とがその発行・運営の事務を助けたということである》(204頁)

《一九二九年版『学校詩集』(1929年4月)の執筆メンバーをあげてみると、有島盛三・萩原恭次郎・広葛寿夫・碧静江・逸見猶吉・伊藤和・猪狩満直・岩瀬正雄・伊藤信吉・黄瀛・神谷暢・小森盛・草野心平・木山捷平・金井新作・宮崎孝政・三野混沌・森佐一・森竹夫・岡本潤・尾形亀之助・尾崎喜八・大江満雄・小野整・小野十三郎・更科源蔵・杉山市五郎・坂本遼・薄野寒雄・坂本七郎・柴山群平・局清(秋山清)・高村光太郎・竹内てるよ・吉田一穂・山本和夫・横地正次郎などであって、この顔振れを見ると、アナキスト詩人、またははっきりとアナキスト詩人といえなくても、少なくともアナキスティックな傾向の詩人が圧倒的であるといえよう》(206頁)。

よくみるとアナキストばかりでなく意外なメンバーが加わっている。木山捷平や大江満雄や吉田一穂の名があるのが嬉しい。心平さんの顔の広さがこの『学校』にも表れている。詩人と詩誌との関係は船乗りと船との関係になぞらえることができるだろう。草野心平という船乗りは『銅鑼』という船が難破すれば『学校』という船に乗り換え。『学校』がだめなら『歴程』という大きな船へと乗り込む。こうして言葉の大海を渡っていく。おおキャプテン心平! 誰もが怖れた文芸界の海賊。また一人一人の詩人を見ればそれぞれ詩誌という船に乗って航海を続けて行ったことが分かる。例えば壺井繁治で云えば『赤と黒』に乗り『ダム・ダム』に乗り『文芸解放』に乗った。しかしその中でアナキスト批判をした事で仲間たちから暴力(半殺し)をふるわれ彼らと訣別。『左翼芸術』を創りマルクス主義へと移っていった。やがて戦前の共産主義への壮絶な弾圧を経験していく。詩人たちの主戦場は詩集ではなく詩誌だったのだ。吉原幸子という詩人の目覚めもまた『歴程』加入にあるということはとても意義深い。そして『ヴぇが』という同人誌をつくり『ラ・メール』をつくった。正に航海そのものである。草野心平の詩的遺伝子をきちんと受け継いでそこに「女性の時代」という要素を組み込んだのだ。幸子さんの最も深い理解者の一人である石原吉郎氏は「最高の法廷で」という作品論の中で次のように述べる。

《『オンディーヌ』のなかの、比較的みじかい詩篇を私は愛する。彼女のたましいの弁証法が、美しい、完成されたすがたでそこにあるからだ》。

また詩集『昼顔』の中の作品を通して

《「通過」と名づけられたこれら一連の詩には、危機をぬけ出た人のしずかな弁証法が、いたるところに安堵とともに息づいている》と。

確かに『幼年連禱』から『夏の墓』へ。『オンディーヌ』から『昼顔』へ。詩集ごとに幸子さんの詩は発展しゆくプロセスに見えるかもしれない。例えれば「三歩進んで二歩さがる」ので必ず一歩前進していると云ったような。しかしわたくしの印象は石原吉郎氏とは異なる。結局幸子さんの営みは「三歩進んで三歩さがる」という無為(ナンセンス)にあるのではないか。振り出しに戻ってしまう。スタート地点に帰ってしまう。前言を撤回してしまう。これは通常のクリエーションとは次元を異にする営みだ。構築しているようでそうではない。まるで壊すために積み上げる子どもの積み木遊びのように。これは吉原幸子のポストモダン的側面なのかもしれない。そのことを裏付けるように幸子さんは随所で「一瞬」の価値について語っている。即興的なものへの興味。一回限りの出来事への思い入れ。そのためには作り上げてしまう精神に反抗しなくてはならない。わたくしはその点についてもデカルトの哲学との類縁性を感じる。精神を不滅のものとするためにあらゆる物質を否定できてしまう一方で。物質の仕組みを徹底的に解明しようとするデカルト。その二元論は決して総合されることはない。つまり「弁証法ではなく」。

幸子さんに初めて会った時の印象を石原吉郎氏は次のように語っている。人の顔を真っすぐ見つめる。その瞳がキラキラ輝いている。作品から来る印象と人物がぴったりな人に会ったのは初めてだったと。

石原氏の云うように幸子さんの作品は〈たましいの弁証法〉の賜物でもある。負の経験を昇華して芸術を作り出すという点ではその通りであろう。あるいは女から妻へ妻から母へと進化する弁証法。男と女が夫婦となって子が生まれるのも弁証法。『幼年連禱』における「Jに」を一つの到達点とすればまさに「純粋」へいたる弁証法であり「絶対」へいたる弁証法であると云って良い。しかし幸子さんの究極の志向がナンセンスにあるとすれば石原氏の言葉さえ裏切ることができるだろう。「純粋ではなく」であるし「絶対ではなく」でもあるような。こうした着想からわたくしは詩集『夏の墓』の詩篇を読んでみた。

《ふんでおくれ ののしっておくれ わたしには それがふさはしい》(「馬に」)

《あなたの深まりの底に あなたはだまる わたしはゐない》(「嫉む」)

《時が死ぬ けふが死ぬ 人も死ね》(「瞬間」)

《死にたいといふ日に きれいになるためのジュースをのみ》(「石」)

《いつも ないものを欲しがる》(「天邪鬼」)

《平和や 希望を 吸ひこんで 煙にして 灰にしてしまふ 無益ないとなみ》(「港の宿で」)

《バラをたべることを せめてください》(「パンの話」)

《愛することは こはすこと》(「帰宅」)

《何もない 誰にも 何もない ひとといふ幻は いちばんをかいし》(「待つ 二」)

《さうです わたしはいつもうろうろする 一匹の餓鬼です》(「鬼に」)

《裏切りのためにこそ 誓ひがある》(「破棄」)

《神は たしかに ゐなかった》(「冒瀆」)

思い付くままに無為を感じる詩句を拾ってみた。まだまだあるのだが。創造よりも破壊を企てていることは明らかであろう。人はこれらをストレートな表現とみなすかも知れない。しかしそれは誤解。幸子さんはひねくれている。想像以上にひねくれている。「純粋」を壊しにかかっている。「絶対」を崩しにかかっている。

幸子さんが戦略家であるということがわかってしまえば詩集『夏の墓』の詩篇はすんなりと頭に入ってくる。いつものようにわたくしの我見で読んでみれば。白の支配がこの詩集全体を覆っている。

《白い カンナ屑》(「散歩 一」)

《白い椅子と白いテーブル》(「風景」)

《白い 粉のやうな花びらが》(「横断」)

《白い芍薬の花が》(「ふと」)

《暗いとき 雨は白い》(「港の宿で」)

《白い浜を こどもが走る》(「断つ」)

《白い一本のタバコ》(「点火」)

《白い猫だった》《白い海になる》《白い庭をよぎって》《この白い陽ざししか》《白い血のにほひ》(「晩夏」)

《白濁と》(「驟雨」)

《白日のもとで!》《白さに》《白い衣に包み》(「或る宴」)

《白い海賊船》(「HELP!」)

《ぜんぶまっ白の紙が欲しい》(「これから」)

《白い愛がゐる》(「てがみ」)

わたくしの考えでは「赤」が生(エロス)の象徴だとすれば「白」は死(タナトス)の象徴である。『夏の墓』という詩集に「白」が散りばめられているのは偶然ではない。漢字の世界では「春=青」で「夏=赤」である。この公式を当てはめれば「夏の墓」は「赤の墓」となる。赤い夏が死んで白い秋が来る。

参照は「青春・朱夏・白秋・幻冬」という言葉。

 

 

 

☆吉原幸子研究その3。2022年3月5日から3月31日に記す。

 

 

オンディーヌという人名は誰を指すのか。芝居も音楽も伝承も知らない場合。このオンディーヌという単語が人名であるということすら分からない。吉原幸子さんの詩集からスタートする人もいるかもしれない。先日S野くんと古書店をめぐったおりS野くんが文庫のコーナーから抜き取ってすかさずわたくしに渡してくれたのが光文社古典新訳文庫のジロドゥ『オンディーヌ』。

家に帰ってじっくり解説に目を通した。訳者の二木麻里さんの丁寧な解説が素晴らしい。作者ジャン・ジロドゥがドイツ文学専攻の学生であったと知って「ワオ!」となった。フリードリッヒ・フーケの『ウンディーネ』をドイツ語で読んだジャン・ジロドゥ。さらにドビュッシーのオペラ『ペレアスとメリザンド』の初演を観ているジャン・ジロドゥ。

メーテルリンクの『ペアレスとメリザンド』のあらすじと『ウンディーネ』の類似。そしてフリードリッヒ・フーケが参照したパラケルススの論文のこと。ラテン語のundaが波のことで。undina(ラテン語)とUndine(ドイツ語)と ondine(フランス語)は直訳すると「波の女」であることなどが次々に説かれていて目の鱗がいくつあっても足りない。水脈を辿ると中世のメリュジーヌ伝説にたどり着いてその広がりは想像を超えている。当然『崖の上のポニョ』にまでその流れは続いているであろう。

幸子さんは東大でフランス文学を専攻。演劇部でジロドゥに触れる事になる。

ジロドゥ『オンディーヌ』の騎士ハンスのセリフがいちいち面白い。

《ぼくは話が好きなんです。うまれついての話し好きですね。戦に出れば四六時中、誰かしら話し相手がいるでしょう。仲間の機嫌が悪ければ、捕虜や神父と話せばいい、いちばんよくしゃべりますからね》

《騎士にとってはそれぞれの動物が象徴なんです。吠えている声や呼び声は象徴的な文として、魂に刻まれる文字になる。だから、けものは話しかけてくるというより、魂に書きこんでくるんです》

《ひとつの動物は、ひとつのことしか話しませんからね。離れたところから、ときどきひどい発音でものを言ってきます。鹿であれば純粋さを尊べとか、イノシシなら、この世に重きをおくなとか・・・》

オンディーヌと騎士ハンスの出会いの場面。

《あたしが女の子でいるにはわけがあると思ってた。そのわけは、男のひとがきれいだから》

とオンディーヌ。そのすぐあとで

《もう知ってる、人間は嘘をつくってこと。きれいなひとはきたないひと、勇気のあるひとは臆病なひと》

ハンスの心の中に勢いよく飛び込んでその勢いのまま離れていくオンディーヌのあり方は〈前言撤回話法〉そのものである。

もしかしたら吉原幸子さんの前言撤回話法の原型はこのオンディーヌの性格にあった?

《知ってる、あたしはそいつらに耐えられないってこと!》

 

吉原幸子さんの「空襲」と一緒に読みたい小説がある。

四年前に出版された宮内悠介『ディレイ・エフェクト』。いまウクライナで起こっている現実と日本で暮らすわたくしたちの日常が重なっているとすれば。状況で読み身で読むことができる筈なんだ。12歳の吉原幸子は空襲のあった東京の夜の空を見た。

小説『ディレイ・エフェクト』の話者は8歳の娘に東京大空襲の現場をひそかに見せたいと思っている。「ディレイ・エフェクト」という作品は2017年に「たべるのがおそいvol.4」で発表されているのだがまるでパンデミック後の新しい日常を予測しているかのような世界を描いている。得体の知れないウィルスによって掻き乱された2020年。ディレイ・エフェクトによって混乱する2020年の東京。専門家がいくら議論しても答がはっきりしないというもどかしさ。あの2020年という時代の空気が見事に描かれていることに今更ながらびっくり。

だいたい2020年にはオリンピックができなかったことすらもう忘れかけている。

《開催予定であったオリンピックの目処も立たぬまま》と話者は云う。近未来を描いたSFってやっぱりちゃんと読み込んでおかないといけないな。

現実に起こってからあたふたしないための心の準備。

まあ全部が予言だと思ったら単純に楽しめないけれど。2022年もまた少し前の近未来だったしこれから先の人々には歴史の中の一場面なのだと思うと気味がわるい。きのうの地震のことだって。2011年と切り離せない。30年前のソ連崩壊と現在のロシアだって。

ちなみに1991年の夏わたくしはベルリンにいた。そこでゴルバチョフ大統領が軟禁された事件に遭遇。生々しい現場の空気を体感している。

ディレイ・エフェクトなんだよ。幸子さんは「ふるさと」というエッセイの中で次のように書いている。

《再び新宿近辺へ戻って三年ほど小学校へ通った頃、戦争が始まった》

《都内疎開のようにして池袋の奥へ引越した時点から、二軒の家は一軒になった。それから地方への疎開をまたいで高校卒業までの足かけ十年、そこは私の少女期とほぼ重なる歴史をもつことになる》年譜を見ると。

 

昭和17年 豊島区高松に転居。長崎第二国民学校に転校。

昭和19年 山形市光明寺へ集団疎開。

昭和20年 帰京、都立第十高女に入学するが、群馬県敷島村に疎開。県立渋川高女に転入。

昭和21年 帰京。都立第十高女に復学。

 

10歳から14歳までのあいだに二度の疎開としばしばの転校を余儀なくされた。戦時下の厳しい現実を生きた。

いちばん多感な時期に受けたであろう心の傷はのちの詩作品にしみでてくる筈だ。たとえその傷を本人が無意識の奥へ隠し甘い思い出に加工してしまったとしても。

また「三十年列車」というエッセイには次のような記述も。

《きいろい灯りは全部消えている。人々は全部起きている気配がする。しかも汽車は停まっている》

《キジュウソウシャ、というようなことばが押し殺してきこえる。もう少し大きな声で話しても、あのうるさい爆音でとんでいるものたちに聞こえはしない筈なのに。私は母の膝に顔を埋めて、背中で爆音をきいている》

人間の頭上に爆弾を落としたりミサイルを打ち込んだりしているのも人間。だとすれば戦争を経験すると人は人間を信じることができなくなるにちがいない。いま誰もが人間不信に陥っている。と思う。心の傷は深い。

 

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