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虚無の向こう側へ —吉原幸子の詩「吐かせて」について—

 今回は、詩人・吉原幸子の「吐かせて」という詩について見ていきます。


   吐かせて 吉原幸子

  くろいくちびる くるほしいくさむら
  ちちいろのちぶさ ちのいろのちくび

  いろはにほへど nothing
  あさきゆめみて nothing!

  直立する たての重み
  横臥する うすい重み

    ——笑ひ声

  撃つ
  狡猾の硝煙の にくしみの薬莢の

  吐く
  胃のなかのにがさ めのなかのからさ

  さうして? さうして出かけるの?
  やま? それとも水、どこか水?

  わたしはただ 月に小石を投げ入れただけ
  ぶたの死ぬのをみてきただけです

  昨日はあった
  今日はあるのか

  邪魔な目かくし
  ひらひらする手を唇をひっこめて

  世界をおくれ
  まるごとガブリ

  ひっこめないのだなどうしても
  よろしい では

  わたしは
  狂ふ


 この詩の内容は、一見して、性愛の場面を描いているのだと分かります。第一連に、

  くろいくちびる くるほしいくさむら
  ちちいろのちぶさ ちのいろのちくび

 という描写があるからです。第三連の、

  直立する たての重み
  横臥する うすい重み

 からも、男女の性交の様子が想起されます。この男女の内の女性が、語り手に当たるのだと推測されます。
 しかし、この語り手には、どうやら、自分のしている性行為を冷めた眼で眺めているところがあるようなのです。なぜなら、第二連では、

  いろはにほへど nothing
  あさきゆめみて nothing!

 とあり、この二行からは、性愛とは結局、何も生まない虚しい行為であるということ、少なくとも語り手がそう考えていることが分かります。さらに、作中には「にくしみ」という言葉も見受けられます。語り手は、恋人との情交の果てに得るものが虚無であると知りながら、また恋人のことを憎んでさえいながら、なぜ性行為をするのでしょうか。ここに、一つ、作品の謎があると言えます。ここからは、この謎に対する答えを見つける気持ちで、この作品を読んでみましょう。
 ちなみに、作中には「笑ひ声」という描写がありますが、これは男性の笑い声ではないでしょうか。このことから、男性の方は愉しげであり、彼は語り手との情交に夢中になっているのだと分かります。
 さて、ここで、次の二カ所の表現に注目してください。まず一カ所目は、

  撃つ
  狡猾の硝煙の にくしみの薬莢の

  吐く
  胃のなかのにがさ めのなかのからさ

 という表現です。二カ所目は、

  わたしはただ 月に小石を投げ入れただけ
  ぶたの死ぬのをみてきただけです

 という表現です。この内、「撃つ」という表現からは、まず、男性の射精をイメージすることができます。しかし、語り手が女性ということを考えると、射精をする側ではなく、される側であるということが指摘できます。つまり、性交においては女性は受け身の立場を取るため、「撃つ」という動詞は、一見そぐわないように感じられるのです。
 これに関しては、次のように言うことができます。性交という行為は、男性が射精をすることであるため、一見、男性の方が主導権を握っているように感じられます。しかし、実は、その男性の心を刺激して、性交へと促すという点では、女性の方が主導権を握っているとも考えられるのではないでしょうか。このように、男性の心を「狡猾」に刺激することを、語り手は、「撃つ」と言っているのだと分かります。
 このことは、「わたしはただ 月に小石を投げ入れただけ/ぶたの死ぬのをみてきただけです」という二行にも明らかです。始めに、この詩は性愛の場面を描いていると指摘しましたが、より具体的に言うと、今まさに射精が終わったところを描いていると考えられます。とすると、「わたしはただ 月に小石を投げ入れただけ/ぶたの死ぬのをみてきただけです」というのは、近い過去に自分が行った行為について述べていて、射精のことを表していると言えます。しかし、それについて女性の側から言及しているので、「月に小石を投げ入れ(る)」は、男性の心を誘惑することを指していると考えられます。さらに、「ぶた」が「死ぬ」とありますが、「撃つ」、あるいは「投げ入れる」という行為の結果として、相手が「死ぬ」という現象が起きるのだと推測されます。そう考えると、「月」とは、ここでは男性の心の象徴であり、それに小石を投げ入れるということは、男性を誘うことを意味していると言えると思います。「ぶた」とは男性のことであり、語り手が、彼の心に石を投げ入れて誘ったため、彼の心は見事に落ちたのでしょう(それが射精の瞬間です)。そのことは、「ぶた」が「死ぬ」、と表現されています。なお、語り手は、男性を誘うにも、愛情ではなく「にくしみ」の感情を持って誘っているのだということを、忘れてはなりません。
 ここで、「ぶたの死ぬのをみてきた」という表現の中に、「見る」という動詞が隠れているのに注意して下さい。この「見る」という動詞は、「吐く/胃のなかのにがさ めのなかのからさ」の中の、「め」(目)という表現と繋がっています。語り手は、「ぶた」が「死ぬ」ところ、すなわち、男性の心が落ちるところを「見(た)」上で、自分の「目」の中の「からさ」を「吐(こうと)」しているのです。タイトルには、「吐かせて」とあるため、実際にはまだ「吐(いて)」はいないのだと分かります。「目」の中の「からさ」を「吐く」とは、どういうことだかまだ分かりませんが、「胃」の中の物を吐瀉するという実際の行為により、「目」の中の「からさ」も同時に洗い流されるのだと理解できます。
 では、男性の心が落ちるのを見た「目」の中の「からさ」を「吐く」と、一体どのようなことが起きるのでしょうか。この問題に、最初に提示した謎の答えがありそうです。
 作品には、

  昨日はあった
  今日はあるのか

 とか、

  世界をおくれ
  まるごとガブリ

 などの表現が見受けられます。ここから、「目」の中の「からさ」を「吐(いて)」しまうと、「今日というものは実在するのか」などという、「世界」にまつわる問題を解くことができるのだ、という事実が読み取れます。これはどういうことでしょうか。
 冒頭で、私たちは、語り手が、性交とはすなわち虚無であると考えていることを確認しました。このことから、自分の手に落ちて性交をする男性を見ても、語り手自身の「目」は特に汚れたりはせず、ただそこに虚無を映すだけであると分かります。ただし、「にが(い)」、「から(い)」という印象は語り手に残します。その「目」の「からさ」を「吐く」ということは、虚無をさらに洗い流すというようなことなので、虚無の向こう側を見ることができるということではないでしょうか。だから、性交の後に「胃」の中のものを吐瀉し、それと同時に、「目」の中の「からさ」を「吐(いて)」しまうと、世界の秘密を知ることができる——、語り手はそのように考えているのです。この「世界の秘密を知ることができる」というメリットこそ、語り手が、虚無だと分かっている性行為に耽る理由なのです。
 実際に、語り手は、吐瀉する場所を求めています。

  さうして? さうして出かけるの?
  やま? それとも水、どこか水?

 という表現が、「水」辺で吐いてしまいたい、という気持ちを表しています。
 しかし、語り手の「吐きたい」という衝動を邪魔するのは、他ならぬ恋人の男性なのでした。彼は、射精が終わった後も、語り手のことを愛撫します。語り手はそれを、「目」の「からさ」を「吐く」のを邪魔する、「目かくし」であると捉えます。

  邪魔な目かくし
  ひらひらする手を唇をひっこめて

 という記述から、それが分かります。そして、男性がどうしても愛撫を止めないので、

  ひっこめないのだなどうしても
  よろしい では

  わたしは
  狂ふ

 という四行が生まれているわけで、これが話の結末となっています。
 この詩がテーマとして提示する考えは、「性愛とはとどのつまり、虚無である」というものです。その上で、作品中では、この「性愛が虚無である」という事実を利用してその虚無の向こう側にある世界の秘密を探ろうとする語り手の様子への、作者の詩的想像が展開されています。この「世界の秘密」というモチーフそのものは、あくまでもフィクションの上にあるもので、この詩のテーマにはなり得ません。しかし、性愛の「からさ」を「吐く」ことで、虚無の向こう側に行き、「世界の秘密」を知ることができるのだ、という論理は、十分、ウィットに富んでいます。このウィットに、この詩の核があります。つまり、この詩は、テーマと核という、二つの中心を持っているわけです。
 ところで、吉原幸子の詩の登場人物は、絶望していても、その絶望を利用して世界の深部に近づこうとする傾向があるように思います。

  こちらやっと不幸

 と、幸福な死後の世界に逃げて行った知り合いに自分の不幸を報告する、「選択」という詩にも、そのような傾向が見られます。もちろん、この「吐かせて」という詩でも、語り手は、絶望(虚無)の向こうに見える世界の深淵を探ろうとしています。先程、この「吐かせて」という詩には二つの中心があると述べました。テーマという中心の方は、「性愛とは何か」という人類共通の問題に対する答えを提示するものになっている一方、詩の核という中心の方には、「絶望を利用して世界の深部に迫る」という作者独自の発想が反映されています。



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