「女性ならでは」って何?

こういう話はたいていブログでしているのだけれど、きょうはとくに詩のことに関して言いたいので、このnoteに書くことにした。

すでにあちこちでカミングアウトしていることなのだが、わたしは自分の性自認が曖昧である。セクシュアリティも含めて、いわゆる性的マイノリティだ。男性ではないのだが女性かと問われると自信がなく、むしろ、高山京子という珍種の生き物だ、という感じが強い。わたしのなかに少女はいないが少年はいる。成年男子はいないが成年女性はいる、と言った感じで、常にゆらぎにさらされている。

ところで最近、わたしは、たまたま思潮社刊の『続・吉原幸子詩集』の巻末に収録されたエッセイ「花のようでない女」を読んでいて、ふと、考え込んでしまったのであった。というか、羨望を禁じ得なかったのだ。それは、冒頭と末尾の以下のような部分である。

「わたしは”女”ではない。ーーという説と、わたしがとても”女”だ、という説と、実は両方ある。初めの方は、主に八十六歳になる母の言い草だ。Gパンにいつもの薄ぎたないセーター、アグラをかいて晩酌していたり、くわえ煙草で掃除していたりするわたしを、つくづく眺めてそう言うのだ。二十九歳の時子供をひきとって離婚して以来、”浮いた話”の一つもない(と信じこんでいる)せいもあろう」「いくらアグラをかいてお酒をのんだって私は女だと、やっぱり自分では信じているのだ。自分が女であることにとてもこだわるからこそ、頭脳でも体力でもなくもっぱら愛の深さにおいて(それがいちばん重要なのだ)女は男に優ると主張し、女を”花”と思っているのだ」。

さすが、新川和江とともに『現代詩ラ・メール』を創刊したひとの言葉だ、と思った。新川さんにも、女性と「いのち」について、なみなみならぬ信頼がある。この詩誌が創刊された1983年は、文壇的にも80年代フェミニズムが盛んで、大庭みな子や富岡多惠子、三枝和子などが活躍していた。今ではもうほとんど見かけないけれど、こうした女性の芸術には、長い間、「女性ならでは」という枕詞的批評が使われていた。何と楽なことかと思う。それで原稿料を稼いでいたなんて、ほとんど詐欺である。多くは男性の言説だったが、女性の書き手も、過渡期のフェミニズムとしてこうした言葉をよく使っていたと思う。

ところで、「女性ならでは」って、何なんですかね? たとえば「生む性」とかですか? それなら、生めない、生まないひとは女性じゃないんでしょうか? などとふてくされてみて、いよいよわたしは、自分が女性ではないような気がしてくる。自分は結局、性自認が曖昧なまま詩を書き続けていくしかないなと、さびしく決意する。ところでわたしは最近まで、某男性詩人を女性だと勘違いしていた。女性が書いたものだと思って読んでいた。それだけでもう、「女性ならでは」という批評が通用しない時代になっているはずだ。

吉原幸子の詩には読む者が何かに取り憑かれてしまうような不思議な魔力があって、わたしも、自分の書きたいことはすべてこのひとがやっているんじゃないか、とか、これはわたしが書いたものではないのか、などと錯覚するぐらい、その詩には強く惹かれる。あまりにのめり込んだらまずいという気さえしている。だがしかし、それは決して、「女性ならでは」だからではないと思っている。


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