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言葉の二重性 —吉原幸子の詩「誤差」について—
今回は、詩人・吉原幸子の「誤差」という詩について見ていきます。
誤差 吉原幸子
あなたの場所にむかって
めづらしく
できるだけゆっくりと歩いたはうがいい
ことになった 今夜
星がでてゐる
夢みる少女たちが考へたやうに
星になるために
死んで 空へ行く必要はない
あそこからみて 地球は星だ
わたしたちは すでに 充分に星なのだ
だが わたしのみてゐる<現在いま>のまへに
星たちは 何とまちまちの時間をはらんでゐることか
宇宙(そら)は何と でこぼこの平面であることか
光の速さが 有限である以上
地上の風景もまた
わたしに 一瞬おそく届いてゐる
いつも 二秒前の月をみてゐるやうに
わたしたちは 目の前の過去をみてゐる
ほほゑむあなたでさへ 影にすぎない
だからわたしは
さはらなければ <いま>を信じることができない
しかもさはりながら<いま>と言ひ終るとき
<いま>は過去だ
<いま>とは常に 未来にとっての過去なのだ
星をみる人にとっての 星のやうに
それなのに
光よりずっと遅く歩いて
わたしは あなたのもとへ届いた
この詩の内容には、語り手が、恋人である「あなた」のいる場所へ歩いて行く途中に考えた事柄が詰め込まれています。「あなた」との待ち合わせでは、いつも語り手が急がされるのですが、今日は、「できるだけゆっくりと歩いたはうがいい/ことになった」そうです。この二人がどのような状況に置かれているのか分かりませんが、もしかしたら、人目を忍ぶ仲なのかもしれません。「あなた」に時間の制約があるというのは、公然と逢うことができないからではないかと考えられます。
ところで、第一連の最後には、「星がでてゐる」とあります。そのため、第二連からは、語り手が、夜空に浮かぶ星を見て思いついた事柄が語られることになります。
例えば、
夢みる少女たちが考へたやうに
星になるために
死んで 空へ行く必要はない
あそこからみて 地球は星だ
わたしたちは すでに 充分に星なのだ
という第二連。これは、他の星から見たら、地球も一つの「星」にすぎない、という、「なるほど」と納得させられる論理です。それと同時に、「わたしたちは すでに 充分に星なのだ」という表現は、「地球は一つの星である」という以上の意味を持っている、意味深な表現に感じられます。しかし、これについては、後から説明します。
だが わたしのみてゐる<現在いま>のまへに
星たちは 何とまちまちの時間をはらんでゐることか
宇宙(そら)は何と でこぼこの平面であることか
という第三連ですが、これは、宇宙の星の光が地球に届くまでにはタイムラグがあるという現象について述べています。つまり、現在も我々が見ている星の姿は、過去のものでしかないのだ、ということです。そう考えると、星と地球の間の距離によって、そのタイムラグは変わります。地球から星たちまでの距離はバラバラであるため、星たちは「まちまちの時間をはらんでゐる」と表現され、また、宇宙は「でこぼこの平面」であるとも表現されるのです。
光の速さが 有限である以上
地上の風景もまた
わたしに 一瞬おそく届いてゐる
いつも 二秒前の月をみてゐるやうに
わたしたちは 目の前の過去をみてゐる
ほほゑむあなたでさへ 影にすぎない
だからわたしは
さはらなければ <いま>を信じることができない
ここでは、たとえ対象物と同じ地上にあっても、光が届く時間にはほんのわずかな「誤差」(これがタイトルです)があることが問題にされています。目で見ているものが過去のものなのだから、「ほほゑむあなたでさへ 影にすぎない」のだと、語り手は考えます。しかし、触覚というものは光の影響を受けないのだから、語り手は、対象物に触れることで、「いま」が実在していることを確かめたいという気持ちになります。
しかもさはりながら<いま>と言ひ終るとき
<いま>は過去だ
<いま>とは常に 未来にとっての過去なのだ
星をみる人にとっての 星のやうに
しかし、そもそも、「いま」を知覚することそれ自体が、時間を介在しているため(「いま」を認識する間に一瞬が経っている)、語り手は、「いま」というものは、実は概念の上でしか存在しないものなのではないか、と考えます。つまり、我々が、「いま」というものを認識しようとしても、実際は、「未来」から「過去」を認識することしかできないのです。
ここで、最後の連を見てみましょう。
それなのに
光よりずっと遅く歩いて
わたしは あなたのもとへ届いた
なぜ、「わたしは あなたのもとへ届(く)」ことができたのでしょうか。ここまでの話の流れだと、お互いがお互いを掴むことはできない、ということになっていたはずです。この三行は、これまでの流れを見事に裏切るものになってしまっています。
それについては、次のように言うことができます。この詩では、語り手は、「あなた」との待ち合わせ場所へ歩いて行くのを描写するのと同時に、「あなた」に逢ってから、思いを遂げる瞬間までを描き出しているのだと。つまり、語り手が歩く様子と、「あなた」に触れて結ばれる様子が、二重写しで描かれているのではないかと、指摘できます。
その根拠は、次のようになります。
まず、第二連には、「わたしたちは すでに 充分に星なのだ」という表現がありますが、これが意味深に感じられることを、既に指摘しました。この表現は、「地球も星の一つ」ということを表しているだけではなくて、実は、「わたしたち」、つまり、語り手と「あなた」を、遠く離れた星同士のように喩える効果も挙げているのではないでしょうか。容易には結ばれない、遠くの星同士。ここで、二人の関係が、「人目を忍ぶ仲」であるという可能性も想起されます。この二つの「星」が、どのようにして結ばれるのかという物語が、この詩の描き出すもう一つのストーリーであると言えます。
次に、第四連では、
ほほゑむあなたでさへ 影にすぎない
だからわたしは
さはらなければ <いま>を信じることができない
と綴られていますが、ここで、語り手は、実際に、「ほほゑむあなた」を目の前にして、「あなた」にさわろうとしていると、解釈することもできます。つまり、ここでは、語り手が歩きながら、形而上学的な思考を繰り広げるのを描くのと同時に、語り手と「あなた」の性愛の場面を描いてもいるのです。その次の連の、「さはりながら<いま>と言ひ終るとき」というのも、語り手が頭の中で考えている内容でもありますが、語り手が実際に「あなた」の身体に触れつつ、「いま」と呟いているところでもあると言えます。
したがって、「それなのに/光よりずっと遅く歩いて/わたしは あなたのもとへ届いた」という三行が綴られるのです。これは、語り手が「あなた」との待ち合わせ場所に辿り着いたということだけではなくて、語り手と「あなた」が肉体的に結ばれ、愛が成就したことをも表しているのでしょう。愛という概念は、時間の「誤差」をも乗り越えるものとして、ここでは想定されています。
このように、この詩は、まず、我々は「いま」を認識することはできない、という形而上学的な考えを述べています。もちろんこれが、この詩のテーマであり、核の部分を担っています。しかし、それと二重写しで現れてくる、語り手と「あなた」の愛の物語が、その核の部分をくるんでいます。つまり、この詩は、言葉の持つ二重性を活かした作品になっているのです。
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