日没を実感する太陽 —吉原幸子の詩「日没」について—
今回は、詩人・吉原幸子の「日没」という詩について見ていきます。
日没 吉原幸子
雲が沈む
そばにゐてほしい
鳥が燃える
そばにゐてほしい
海が逃げる
そばにゐてほしい
もうぢき
何もかもがひとつになる
指がなぞる
匂はない時間のなかで
死がふるへる
蟻が眠る
そばにゐてほしい
風がつまづく
そばにゐてほしい
もうぢき
夢が終る
何もかもが
黙る
この詩を読むと、「日没」というタイトルや、「雲が沈む」、「鳥が燃える」、「海が逃げる」などの表現から、真っ赤な夕陽が、色々なものを染め上げながら海に沈んでいく様子がイメージとして浮かんできます。それと同時に、「そばにゐてほしい」というフレーズや、「死」という単語から、誰かが死ぬ様子を描いた作品でもあることが分かります。その死んでいく人物は、自分一人で死の世界に行きたくない、誰かにそばにいてほしい、と願っているわけです。では、その「死んでいく人物」とは、一体誰でしょうか。
それは、すなわち、「太陽」です。先ほど、この詩は日没の様子を描いた作品であると言うことを述べました。この詩の中で、死んでいく人物が登場するのだとすれば、それは、海に沈んでいく夕陽を指すのではないでしょうか。つまり、ここでは、太陽という存在が擬人化され、それが死んでいく(沈んでいく)際の心情が描写されているのです。「雲が沈む」とか、「鳥が燃える」とか、「海が逃げる」などの独特の表現は、太陽ならではの、人間とは違う、特異な感性を表したものなのでしょう。
しかし、「太陽が沈む」いう現象は、あくまでも、ある地点から見た時に、太陽が沈んで見えることを指すだけであり、実際には、太陽が、海や地平線などに沈むことはありません。だから、「日没」は、それを離れた地点から眺める人にとっては存在していますが、太陽の側から見たら、本当は存在しない現象であると言えます。だから、この詩に登場する、「日没を実感する太陽」というモチーフは、まさしく虚構のものであり、言葉の中にしか存在しないものであると言えるでしょう。そのように、言葉の中にしか存在できない虚構の現象を、慈しみ、掬い取ってやろうという作者の姿勢が、この詩には溢れています。それを味わうのが、この詩を読むということなのでしょう。
ちなみに、ここでは「虚構」と書きましたが、太陽の擬人化を指して、「虚構」と言っているのではありません。もちろんそれも一つのフィクションですが、そうではなく、太陽の視点で日没を実感することは位置関係上あり得ないのに、それを可能にしているという設定について、「虚構」であると指摘しているのです。