これから
書いてしまえば書けないことが、書かないうちなら書かれやうとしているのだ
吉原幸子の詩の一節を初めて知ったのは恩田陸の「三月は深き紅の淵を」の中での引用だった。読み終えた後もなんだか気になって、その後もずっと心に留まり続ける言葉になった。
書く前の白い紙には何でも書ける。どんなものも紙の上で生まれ、そして生かすことができる。これから生み出されようとする全てが、宇宙が生まれようとする萌芽に至るほんの一瞬前が、激しい爆発の一秒前の緊張が、何も書かれていない紙には宿っている。
この言葉を知った後で僕は気付いた。ああ確かに、書いてしまえば、もう書けないのである。最早晩夏を感じる空も、疫病に戸惑う人間の悲しさも、恋に散じる火花の温度も、僕の言葉に固定されて。だからこそ大切に、大切に、生み出さなければならないのだ。生まれてしまった言葉は、もう取り戻すことはできないのだから。
何かが起ころうとしているただの白い紙に、底知れぬ興奮と、深い畏怖を感じるのはそんな理由もあったりする。