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恋愛の不可能性 —吉原幸子の詩「彼の一日」について—

今回は、詩人・吉原幸子の「彼の一日」という詩について見ていきます。


   彼の一日 吉原幸子

  コウエンノハナビ
  モエテタ
  火ガシンヂャッタ

  クモガオシッコシテ アメガフルヨ

  クロイオンガクダネ

  オンガクノナカニ
  海ガキタ
  海ガイッチャッタ

  オ月サマ ハンブンダッタ
  ダレカタベチャッタノ?


 タイトルに「彼」という言葉があることから、この詩の語り手は男性であると考えられます。この男性の語り手が、大人であるのか子供であるのか、ここではまだ、分かりません。しかし、仮に大人であるとすると、この人物について、狂人であると判断する読者は多いと思います。普通の大人は、「オ月サマ ハンブンダッタ/ダレカタベチャッタノ?」などという発言はしないからです。
 しかし、作品をよく読むと、この語り手は、実は狂人ではないのだということが分かるのです。この語り手は、雨の音について、「クロイオンガク」と表現し、また雨が降る様子を見て、「海ガキタ」と発言しています。仮に、雨のことを雨と認識しないで、「クロイオンガク」や「海」と認識しているのだったら、それは本物の狂人です。ですが、彼の場合は、あくまでもそれが「アメ」(雨)であると分かっているため、本当に狂っているわけではないのだと考えられます。つまり、彼は、ただ狂人のふりをしているだけの人物なのです。
 この語り手が知能の低いふりをしているだけなのだと分かると、この人物が子供であるという可能性も否定されます。彼は、大人であり、かつ、何らかの事情で狂ったふりを装っているのです。そう考えると、その「ふり」の下手なところも目に付いてきます。彼の語りの内容は、狂人のふりをする人の言いそうなことではあるけれど、おそらく本物の狂人は口にしないだろうという表現で満ち溢れています。例えば、「オ月サマ ハンブンダッタ/ダレカタベチャッタノ?」などは、それがありふれた、陳腐とも言える表現であることから、常人が、狂人のふりをする際に言いそうな言葉であると指摘できます。
 では、この語り手は、一体なぜ、狂人のふりをしているのでしょうか。それについては明記されていませんが、おそらく、働かなくて済むためであると考えられます。「オ月サマ ハンブンダッタ/ダレカタベチャッタノ?」などという陳腐な発言をする人物なので、狂人のふりをする理由も、また俗なものであるのだと予想されます。ですが、これに関しては、また後で言及したいと思います。
 ともあれ、作中で語られる内容は、夜の出来事についての描写(花火や月)に終始していますが、作品のタイトルは「彼の一日」となっています。このことから、彼は一日中この調子で、狂人のふりをしているのでしょう。その内の夜の部分だけが作品の形にされているというわけです。
 ところで、この詩は、もう一人の登場人物の存在を暗示しています。その登場人物とは、おそらくこの語り手の男と恋愛関係にある、一人の女性です。なぜ、その女性が存在していると断言できるかというと、タイトルに「彼」とあるからです。「男」ではなくて、「彼」とあるということから、一人の男を「彼」と名指す人物の存在が浮かび上がってきます。ここでは、それを、恋人の女性として捉えました。文字通り、自分の「彼」(彼氏)の話を綴っている、一人の女性です。そして、この女性こそが、男性の語りを引用している、真の語り手であると言えるのではないでしょうか。つまり、男性の肉声を文字に起こしているのは、この女性であるということです。この女性と男性の関係性は、男性の方が女性に生活を頼っているのではないかと想像されます。いわゆる「ヒモ」になるために、男性は、狂ったふりをしているというストーリーが、浮かんできます。
 では、この女性はどのような人物なのでしょうか。この女性の特徴が顕れているのは、次の一点にだけです。すなわち、男性の語りを、片仮名と漢字交じりの文章で引用しているという点です。
 漢字の表記は、私たちにとって馴染み深いものですが、片仮名で表記されると、何か異質であるという印象を受けてしまいます。最初に、私たちが、この男性のことを狂人であると勘違いしてしまったのも、内容の異様さという理由に加えて、片仮名で書かれているから、という理由もあってのことだったはずです。—そう、片仮名表記というものは、狂人の語りを表すのにピッタリな表記法であるという発想が、私たちの頭にはあります。ということは、この真の語り手である女性も、自分の恋人である男性のことを、狂人だと思ったために、彼の肉声を、片仮名で表したのでしょうか。
 そういう可能性も、もちろん、あります。彼女は、男性の狂人のふりに気づかないで、本物の狂人であると思い込み、彼の肉声を片仮名で表したのだと。しかし、これでは、あまり面白い読みになりません。
 では、面白い読みとは、一体、何なのでしょうか。—それは、彼女は彼の狂人のふりに気づいていたが、彼女にとっては、恋人が狂人だろうが、狂人のふりをする常人だろうが、どっちでも良かったのだ、という読みです。どっちにしろ、彼女にとっては、そもそも恋人というものは、狂人と同じくらい遠くに位置する存在だったのだということです。いや、「恋人」と限定する必要はありません。この女性にとっては、他者というものは、皆、狂人のように、自分とは遠い存在であると感じられていたのではないでしょうか。ここに、やっと、この詩のテーマが浮かび上がります。それは、恋愛の不可能性、もしくは、他者とのコミュニケーションの不可能性です。この女性にとっては、他者は皆、狂人なのであり、だからこそ彼女は、男性の肉声を狂人のそれとして、片仮名で引用したのでしょう。そして、コミュニケーションの不可能性というのは、何もこの女性だけに当てはまることではなく、私たち人間皆に当てはまることです。
 このように、この詩には、一対の男性と女性が登場します。その内、男性の方が、一見、常人離れした存在のように感じられますが、実は、女性の方こそ、普通の人とは異なる、鋭い感性を持っていたのだということが分かります。その鋭い感性は、恋愛、もしくはコミュニケーションの不可能性という一つの真実を掴み取っていたのでした。

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