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世界の深層に近づく —吉原幸子の詩「選択」について—

今回は、詩人・吉原幸子の「選択」という詩について見ていきます。


   選択 吉原幸子

  <世界に深入りしたくない>
  と言った さびしい人は
  逃げて行った たぶん
  もう一つの“世界”のはうへ

  深入りする まさにそのことが
  わたしには いちばんまぶしい
  願ひだったのに

  ガラス扉にさへぎられて
  黄金きんの葉ずゑが光り
  “世界”は音もなく溢れつづけ
  そのふちに ゆれながらふみとどまって

  そしていま たうとう深入りできたよ! と
  つぶやきながらガラスを破る
  わたしに 待ってゐた風が流れこみ

  (掌の傷を 舐めながら)
  逃げて行ったひとに
  電話をかける

  <死んだあとの 幸せの味は
   いかがですか
   こちらやっと不幸
   まだ 肥りすぎてゐないなら
   会ひませう いちど>


 この詩の語り手は、一つの出来事に遭遇します。それは、知人が自殺してしまうという出来事でした。「世界に深入りしたくない」——、そう言い残して、知人は自ら命を絶ってしまったのです。
 知人の「世界に深入りしたくない」という言葉は、自殺者の遺言が往々にしてそうであるように、その人物の苦悩の深さを示しこそすれ、それが一体どのような種類の悩みだったのか、推し量るのが難しいものになっています。抽象的な言葉であるため、どのような意味でそう言ったのか、残された側には分からず、謎めいた印象を与えています。
 通常であれば、「ああ辛かったんだね」と自殺者に同情するだけで終わってしまいますが、この詩の語り手はそうではありませんでした。「世界に深入りしたくない」という言葉に、彼女なりの解釈を加えて、それにまつわる自分の考えを述べています。その内容が、この詩になるわけです。
 タイトルは「選択」となっています。生者というものは必ず、一つの岐路に立たされ、そこから広がる二つの道を「選択」するものだと言うのです。その「岐路」というのは、「世界に深入りするか、しないか」という分かれ道です。語り手は、知人の自殺を、世界に深入り「しない」方を選び取るという「選択」の結果として見ているのです。そして、自死せずに生きている語り手は、世界に深入り「する」方を選んだのでした。
 しかし、世界に深入りするとかしないとか、一体何のことを言っているのでしょうか。作品を読むと、世界に深入りする、というのは、この世の「不幸」のどん底を味わう、ということであると分かります。知人は、この「不幸」を味わいたくないがために、自殺したのでした。自殺をしないで生きることを選ぶ人も、この「不幸」を積極的に引き受ける覚悟を抱いてそうしているというよりは、ただ死ぬのが怖いから仕方なく生きているだけです。このように、自殺した知人も含めて、「不幸」を遠ざけたいと思う人がほとんどです。
 しかし、語り手は、そうではありませんでした。彼女は、むしろ、「不幸」を積極的に引き受けたいと望んでいたのでした。なぜなら、「不幸」になることは、「世界に深入りする」ことであるからです。語り手にとっては、「世界に深入りする」ことこそが、「いちばんまぶしい/願ひ」なのでした。
 このように、語り手は、自殺した知人の言葉をヒントに、「不幸」になることを「世界に深入りすること」と捉え、それを強く望んだのでした。ここで、知人は、「深入り」という言葉を、マイナスの意味で用いていますが、語り手はそれを、むしろ「世界の深層について知ること」という意味に捉え、プラスのニュアンスを生んでいます。この発想の転換に、この詩の核が潜んでいると言えるでしょう。
 ともあれ、語り手は「不幸」になりたいのでしたが、今のままではまだ、「不幸」には陥っていないのでした。「不幸」はまるで、「ガラス扉にさへぎられ」た向こう側の空間のようであり、そこでは「黄金きんの葉ずゑ」が光っているのでした。このガラス扉を壊さなければ、「不幸」にはなれません。語り手は、この「世界」のふちに「ふみとどま」りながら、「不幸」になる覚悟を決めます。
 そして、遂にガラス扉を割ることができ、語り手は、「世界に深入りする」ことができたのでした。「不幸」になった証しとして、彼女の掌は、ガラス扉を破った際の傷でいっぱいになっているのでした。
 語り手は、死後の世界の知人に電話をかけます。死を「選択」した知人はつまり、「不幸」を拒み、「幸せ」を選んだことになります。

  <死んだあとの 幸せの味は
   いかがですか
   こちらやっと不幸
   まだ 肥りすぎてゐないなら
   会ひませう いちど>

 と、語り手は電話で呼びかけ、作品は幕を閉じます。
 というわけで、この詩の語り手は、「不幸」になりたいと切望しました。不幸になることは、世界の深層に近づくことでもあると、彼女は知っていたからです。

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