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ゴヤ「あなたが思うより健康です」

フランシスコ・ゴヤは、18世紀後半のスペインの画家だ。彼のいくつかの作品を「美術史上最も暗い」と言う人もいる。

ゴヤの自画像

「黒い絵」シリーズ。1819年から1923年の間に、高齢のゴヤが自宅の壁に描いた。14点から成る。

自宅の壁ーー世に公開される前提で描かれたものではなかった。誰にも見られたくなかったのかもしれない。今回の文章を書くにあたり、改めて、見ちゃってごめんというような気持ちにもなった。

私には、他人とシェアしたくない自分だけの精神世界があり。いや、みんなそうだろうが。自分の場合、この闇は私だけが見れる美しいもの!的に、思い入れも強かったりするのだ。よって、そのあたり、人のこともけっこう気にする。


ゴヤは1746年スペイン生まれ。生家は中流階級。絵はほぼ独学で学んだらしい。すごい。

当時と現代で、ゴヤの知名度は異なる。もちろん、今の方が有名という意味で。

王室から肖像画の依頼を受けていた。なんと、盛るどころか、わざとブスに描いていたという。そんなゴヤ流の肖像画は、意外にも、スペイン宮廷で人気に。

風刺画のノリだったのかもしれない。

これはトム・クルーズ。

待ってw私の肖像画ww 私の肖像画もww

あーね、自虐ネタね。見せあったりしていたんじゃないか。たしかに流行りそうだ。


45才頃、原因不明(?)の病にかかった。

鉛中毒という説が有力だ。昔の画家がこれを患っていたとして、不思議ではない。鉛は、長い間、白色の顔料として使われていたのだ。

聴覚障害になった。音楽もおしゃべりも好きだったのに。そんなこと関係なく、耳が聞こえなくなったら大ごとだが。

『狂人のいる中庭』

聴覚を喪失した直後、描かれたもの。

『精神病院の中庭』とも呼ばれている。周囲の壁が高いことが、それとなく、表現されている。日当たりはあまり期待できなそうだ。彼ら彼女らに与えられている自由は、同じく、わずかばかりか。

看守らしき人物が、ムチを打とうとしている。

外へ出れて喜んでいるように見える患者も、じきに、はしゃぎすぎたりしてムチで打たれるのだろう。


時系列どおりではないが。私が勝手に関連性を見出しているため、次はこの作品を紹介する。

『マドリード、1808年5月3日』

1808年のこと。フォンテーヌブロー条約を破棄したナポレオンは、軍隊を侵攻させ、この地を占領した。このことが引き金となり、半島戦争が起こった。スペインは大混乱に。

異端審問の壊滅を望むグループの一員だったゴヤは、当初は、このような事態に満足していたものと思われるが。新しい統治者の残忍さを目の当たりにし、考えを変えた。

Wikiより。補足説明。

フランス軍は、反抗するスペイン人を片っ端から射殺していった。数百人が殺された。

作中のセンターに立つ人は、両腕を広げ光に照らされている。残念ながら、この後間もなく、足元の人たちと同じ運命をたどったのだろう。 

1814年に描かれた絵だ。ゴヤはこの時68才。


1814年のナポレオンの敗北後、ブルボン王朝は復活したが。前国王の啓蒙主義への情熱は、共有されなかった。

フェルナンド7世の治世中、異端審問も復活してしまった。

絶対君主は恐怖政治を敷いた。この頃には、王室からゴヤへの依頼も、当然なくなっていた。


時系列を元に戻す。

「ロス・カプリチョス」シリーズの制作が、精神病院を描いた数年後、はじまった。

突拍子もない行いや、気まぐれによる行いを意味する言葉。

全て銅版画だったのだから、量産(数百枚)できたはずが、ある作品を2日間しか表に出さなかったことなどがあった。辛辣な社会批判を含んでいたため、何作か、異端審問の抑圧を受けたのだと推測されている。

ゴヤの銅版画には、他に、「戦争の惨禍」シリーズがある。こちらは、戦火を経験した彼が、60才をすぎてから制作したものである。

計80点。


この後、複数のゴヤの銅板画を紹介していくが。これは「気まぐれ」でこれは「戦争の惨禍」でーーという区別はしないで、解説する。

私は、ゴヤの善悪の価値観は一貫していたと思っているため。

スペインは堕落した貴族と教会に支配されていると、そう感じていたゴヤは、自由主義の立場から民衆の覚醒をうながそうとした。彼にとって芸術とは、その手段だったとも言える。

ゴヤの啓蒙とは。無知で・理性に欠けていて・虚栄心が強い人々を批判することだった。


『理性の眠りは怪物を生む』

「ロス・カプリチョス」シリーズ最初の作品がこれだ。

眠ってしまう前は、机で勉強でもしていたのだろうか。

伝統的に18世紀後半の図像学では、フクロウ = 愚行、コウモリ = 無知、ネコ = 魔術の象徴だったが。ゴヤの作中では、それらは、単なるシンボル以上のものかもしれない。

そんなフクロウもコウモリもヤマネコも、意識的思考が麻痺している夢の中に、登場しているのだから。

ゴヤが社会に失望していただけではないことが、うかがえる。

人々が理性や合理性を維持できれば、闇を遠ざけ光をもたらすことができる。ゴヤは、そう信じていた……少なくとも、そう願っていた。

眠っている人はゴヤ自身という見方もある。続きを書くことをうながすかのように、ペンを渡す1羽がいる。

エンリケ・チャゴヤ『理性の眠りは怪物を生む』1999 年。ゴヤのパロディーだ。怖い絵だね。

年老いたゴヤは、にぎやかなマドリード中心地を離れ、郊外の「キンタ・デル・ソルド」(聾者の家)へ移り住んだ。

1900年に撮影された邸宅・聾者の家。
前の所有者も聴覚障害者だったため、こう呼ばれた。

ここで、冒頭に書いた「黒い絵」シリーズが描かれた。

ゴヤはフレスコ画の達人だったが。「黒い絵」シリーズをこの技法で描かなかった。彼は、やはり、それらを長持ちさせるつもりはなかったのだろう。

郊外に滞在したのは3年間だけだった。都会に戻ったのではない。政治的な不安がつのり、スペインそのものから逃亡した。心境的には、スペインを見限ったのかもしれない。フランスで余生を過ごした。


『我が子を食らうサトゥルヌス』

我が子(自分の地位をうばうと予言された息子)を食べている。

ローマ神話のサトゥルヌス(ギリシャ神話のクロノス)は農業の神だ。自分の子に殺されるという予言を恐れ、5人の子どもたちを喰ったというストーリー。

小さな子どもではない。未成年でさえないかもしれない。なのに、親が自分に向ける暴挙を止めることができていない。その力も術もない。

こんなグロテスクな絵だ。自分に関係するところなど一切ないと思っていた人が、多いのではないだろうか。


『溺れる犬』

忠誠心が常に報われるとは限らず、忠実な人が溺死することもあると。

人間に最も忠実である動物を用いて、そのようなことを表現した。

ゴヤの「追求」はけっこう容赦なくて。王室の彼のパトロンたちは、彼が異端審問に召喚された時、直接的に擁護したりしたのだが。ゴヤは、そんなこと知ったことかと、貴族の腐敗に対するマクロな批判を続けた。

恩知らずというよりは、忖度なしといった感じだった。この場合、溺れた忠犬は貴族の方だった。


『自慰する男を嘲る二人の女』

知らなかった人は、タイトルにギョッとしたことだろう。

左側の女も自慰を行っているという説がある。不毛の象徴だとか。

どれだけ、ある種の人間を嫌悪していたら、こんな表情が描けるのだろうか。真ん中の人(少女か)、すごく嫌な感じの顔つきだ。

この小説を思い出した。

「黒い絵」シリーズの話はおしまいにする。いったりきたりで申し訳ないが。銅板画の方は大量だから。

『小鬼たち』

いたずら好きでみにくい空想上の生き物として、聖職者を描いた。大きな手が不気味だね。ゴヤ、恐れ知らず。


『素敵な先生!』

性労働を魔術と同等にあつかった。

年経た「魔女」が年下の「魔女」に、ほうきにまたがって空を飛ぶ方法をレクチャーしている。意味わかるよね。

ここにもフクロウ。スペイン語では、フクロウ(búho)は、売春婦を意味するスラングでもあった。

この話は多くの人に語られているため、他力本願で。

たしかに。魔女宅で伝わらなかったから、せんちひでやり直したのかも。次は、誰が見てもわかるような表現にした。

凡人の我々にはあれで伝わらず。誠に申し訳ない。
(誰がわかるんだよ〜〜)笑
笑笑

主題歌を依頼し待つこと1年。しびれを切らしたジブリ側が、松任谷さんの既存曲の中から選んだのが、アレ。

メッセージを残す側でも受ける側でもいいから、リアルに想像して。明るい曲調なだけ。怖い。

『仕立て屋のできること!』

盲信という概念が探求されている。

マントをまとった司祭のように見えるが、布でおおわれた木だ。にもかかわらず、ひざまずく女性たち。

偽りと策略に気づかないほどの崇拝は、よくないと。


『彼らはYesと言い、最初に来た人に手を差し出す』

社会的儀式の背後にも偽善がある、という指摘だ。結婚についての作品である。

年配の男と結婚する若い女。場面に不つりあいな仮面は、彼女が愛で婚姻するのではないことを表している。老人もまた、トロフィー・ワイフを欲しがってのこと。

どっちもどっちの似たものどおしである、と。


ふと、思った。ゴヤってAdoさんの歌みたいだな。

正しさとは愚かさとは。それが何か見せつけてやる。

あなたが思うより健康です。一切合切凡庸なあなたじゃわからないかもね。頭の出来が違うので問題はなし。(耳が聞こえなくなっても、暗い絵を壁一面に描いても。私の精神は君らよりはずっとマシなのだよ。心配無用)

現代の代弁者は私やろがい。私が俗に言う天才です。

個人的な絵を見ちゃっていいのかなというのが、完全にいらぬ世話に思えてきた。今回のタイトルも、今決まった。


『生徒はもっと知らないだろうか?』
『それ以上でもそれ以下でもない』

ゴヤは、絵画は幾何学的な正確さによって教えられたり評価されたりするのではなく、動きや技法を通して感情を表現することによって教えられたり評価されたりするべきだと、考えていた。

子どもに対する学校のあり方にも、同様の考えをもっていた。

「アカデミーは制限的であってはならない。強制と隷属のパターンを排除し、機械的な教訓や月例賞も排除すべき。自由で高貴なものを卑しく下品なものにしてしまう。幾何学や遠近法を学ぶための決まった期間があってはならない」

ゴヤは考えていた。愚か者が愚か者を教育するということについて。

私たちが、自分たちの嘘や誤った表現を教え続けるなら。将来の世代は、どうやって、より合理的で豊かな社会を築くことができるだろうか。


権威や教義に関する伝統的な考え方は、徐々に変わりはじめていた。

ゴヤのような芸術家にとって、その変化は、早くおとずれてほしいものだった。

19世紀間近には、ヨーロッパは、革命!理性!進歩!の理想に沸き立つようになった。

ゴヤの祖国も、良くも悪くも変化していった。

新しい理想、たとえば自由。古い慣習、たとえば腐敗。とハッキリ区別できるほど、線引きするのが単純なものでも・移行するのが簡単なことでもないのは、現代人にもよくわかるだろう。

恋愛を例にしてみようか。

何事も、一足飛びに解決なんかしない。


余談。

2009年にプラド美術館が、それまで代表作とされていた『巨人』はゴヤの作品ではない、と結論づけた。

『巨人』

総合的に検討した結果だそう。

決め手の1つは、「AJ」というサインが発見されたこと。このイニシャルをもつ弟子が、本当の作者なのではないかと。いや、それはないという反論もある。

誰が描いたのだろうね。


ゴヤについての回だが、ゴヤ以外の画家の話もする。

怪物は芸術に馴染みが深い。

芸術家のもつ独創性や奇抜さは、ヒエロニムス・ボス(ボッシュ)の『快楽の園』にて、ある種の頂点に達した。

3つのパネル:エデンの園・現世・地獄から成る巨大な絵だ。

ボッシュの人生の多くは、謎に包まれている。この『快楽の園』や『悦楽の園』というタイトルも、世間が後づけしたものである。

肖像画さえ、おそらくボッシュであろうと推察される
というくらい。

異端とされたキリスト教運動「自由な精神の兄弟たち」と、関係があるのではないかと言われている。地上で罪をおかすことなく生きることは可能である、と信じた一派だ。


このハチャメチャが?笑笑

右下に巨大なイチゴがあるのが、わかるだろうか。当時、イチゴは媚薬と考えられていた。

フクロウを1羽発見。センターライン左端だ。この作品が描かれた時代(1490年~1510年の間と推測されている)、何の象徴だったのか。

ロマネスク期(10世紀~12世紀)には、知恵のシンボルだった。ゴシック期(12世紀~15世紀)には、神の光に背を向ける暗愚の象徴だった。ゴヤの絵で説明したように、18世紀後半だと愚行の比喩だった。コロコロ変わるため、フクロウはわかりづらい。


白と黒の鳥は、人間の善悪の象徴だそうだが。私には、白い鳥が少ないように見える。

錬金術に使用される器具に似たガラスの容器は、人間社会のもろさを表しているとのこと。


左下の拷問と上部の燃える都市は、わりとわかりやすいが。他は、かなり近づいて見ないと難しい。中央は河川だ。軍隊が通る橋の下で人が溺れている。下部では、人間と動物のハーフ(?)が人間をいためつけている。


こちらは、より見やすい。鳥頭人間が人間を食べたり拷問したりしている。楽器が拷問器具に使われている。

罪深い人間は、獣のようになるということか。動物「失礼な!」「勘弁して〜」。

割れた卵は、もろい人間の身体や体内を表す。にしても、どんな表情か。作者、本当にぶっとんでるな。


私のお気に入りはこの子だ。オシャレなトカゲの上陸。

拡大して探してみて。ドレス?かわいいな。

いつも読んでくれている人から、思われてしまいそうだ。今回の大テーマは何だったの?と。

何だったんだろうね。人間のこと、自分も含め、よくわからないんだ。

私たちは、闇夜を照らす一筋の光なんだろうか。それとも、永遠に満たされることのない怪物なんだろうか。そのどちらもか。どちらでもないのかも。

とりあえず、あきらめても無駄だから(このフレーズを何回書いたことか)。私は誰かと戦闘などしないが。覆水は盆に返すこともできると、ずっと信じていくよ。

『I was born』吉野弘