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脱学校的人間(新編集版)〈71〉

 現代に生きる者はおそらく誰もがみな、学校ならびに教育に対し「自身の将来を貸しにする」ことで、いずれそこから何らかの利益を享受しうるものなのだと考えている。
 人はおそらく誰もがみな、自らの将来を貸しに出したその時点において、すなわち教育環境であれば「生徒として学校に入学したその時点」において、そこであらかじめ決定され約束された将来を、そこから一定期間を経た後に、現実のものとして決済され実際の利益として間違いなく受け取ることができるものと考えている。そしてその約束が「実際に間違いなく守られるだろうということを信用している」からこそ、「その他の将来についての自由」をその貸しによって喪失し、あらかじめ決定された将来にその全ての可能性を集約・一元化されることについても、それもまたやむなき事だと受け入れている。ともかくその、あらかじめ決定され約束された将来についてだけは、いずれ満期期限にもなれば最初から予定されていた通り、元本を割り込むことなく利回り込みで確実に決済されるものだと信用しているからこそ、その信用にもとづいて、自らが貸しに出しているその「不自由な」一定期間を、それなりに安心して過ごしていることもできるのだし、またそうでなければならないものと思っている。彼らは誰もがみな「貸したものならばいずれ必ず返してもらえるものなのだ」ということを何ら疑うことなく信用しているし、実際この社会がそのように「安心して約束を信用していられる社会」であると心底から信じきっている。もしそうでなければこの世の誰一人として、自らの何をも他人へと貸しに出すことなどけっしてできはしないだろうし、そもそもそのような気にすらなりえないはずである。
 一方で「教育する側」もまた、彼ら「生徒=顧客の信用」に応えて、「約束した将来を予定通りの結果で決済し引き渡す」ことで、さらに新たな信用を「他の生徒=顧客」たちから取り付けることができるようになる、つまりさらに「新たな顧客=生徒」たちをより広く多く入学させることができるようになる。
 こういった、まさに「Win−Winの関係」を維持していくためにも、この約束は確実に果たされなければならないのだ。

 ところが内田樹は、「インプットされたものが、どのようにアウトプットされて戻ってくるのかわからないのが教育だ」などというようなことを、何ら憚ることもなく曰っている(※1)。またしても矛盾に頬かむりしたかのような物言いであるが、しかしそれでは「約束と信用にもとづいた教育」など成り立ちようもない(そもそもそんな『約束をした』つもりはないよ、と彼は言うのかもしれないが)。
 もしも「一万円を貸したら三年後に一〇〇円の板チョコになって返ってきた」などとでもいうような、全く不条理な決済のされ方をするならば、一体どこの誰が安心して、その一万円の手持ちなり三年の月日なりを安々と貸しにすることができるだろうか?そもそもそういった偶然に全てをまかせたような、いわばギャンブルまがいの出たとこ勝負を回避するためにこそ、「約束と信用による取引」というものがあるはずなのだが、しかしそんなあからさまな「約束不履行」が平然とまかり通るようでは、もはや誰も何を信用してよいのかわからなくなるだろう。これは明らかに、システム体系としては全くの欠格だといっていい事態である。
 しかし現実としては、そのような欠陥システムがまさに体系化されつつあるわけなのである。その証左がいわば「格差社会」の現出に象徴されるところでもあろうが、その現に生じている格差社会の体系の中では、一万円を貸したら一〇〇円の板チョコで返ってくるという不条理な決済も、むしろ「貸した方が悪い」といった自己責任論で片づけられてしまうわけである。
 こういった具合に「教育に対する信用不安」が高まる過程で、人はますます「直接的な有用性」を求めるようになる。
 内田は、子どもたちが「この勉強は何の役に立つのか?」と教師や親たちに訊ねる様を、「彼らは等価交換を要求しているのだ」と嘆いてみせる(※2)。しかしここで請求されているのは「交換」ではなく、速やかな「決済」なのだ。そしてこの決済では、その時点において確実に手に入れることのできる「具体的なキャリア」が要求されているわけである。「約束された将来が約束通り決済されることを、もはや全く信用することなどできない」という不安な状況のさなかにあっては、ともかく回収することができる分だけでも今すぐに決済したいと考えるのは至極当然のことだと言える。要するに「将来的なキャリアの約束がアテにならないから、そのつど具体的で現実の役に立つ何らかのキャリアとして確実に決済されることを、今ここで要求されている」ということなのである。

 教育を受けることによって、そこから自分自身に何かしら有利有益なものを得たいという感性的な欲求は、人々の心身に広く深く沁み込みきった従来の生活慣習も手伝って、もはや容易には抜け出せない重篤なアディクションともなっていると言えるだろう。では人々は一体、教育を受けることの「何が有利有益なのか?」と考えているのかといえば、そこには「教育を受けることによってのみ社会的に有用な人間になることができる」という、「将来的な結果からさかのぼった前提」が、暗黙にあるいは公然と判断されているのだと言える。「有用な者が社会的に受容されるのだ」という判断が、自明なものとしてそれを前提し、そこからさらに「社会に受容されることの有益性」へとその自明性は転化され、人は「学校に行くことによって成長し、社会的に受容されうるような有用な人間になるべし」ということが、何より最優先のことだと考えられるようになる。
 ところでなぜそれを最優先にできるのかと言えば、「それが約束だからだ」ということに他ならない。ゆえに「何の役に立つのか?」という問いは、「それが役に立つという約束であるということを前提に、その前提を信用した問い」だということになる。
 そもそも約束は、一人ではけっしてできない。ゆえにその問いかけは「約束した者同士の間で、互いに対等の立場で交わされている」もののはずなのだ。しかし、その問いに誠意をもって答えることもなく、素知らぬ顔で債務を踏み倒そうというのであれば、それは明らかな詐欺行為であるのに他ならないし、重大な背信行為として厳しく罪に問われるべきものなのではないだろうか。

〈つづく〉
 
◎引用・参照
※1 内田樹「街場の教育論」
※2 内田樹「下流志向」


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