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病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈56〉(終)

 二月のある晴れた朝、ついにオラン市の門が開かれた。
 待ちかねたように各地からは汽車や船などが次々と町を目指してやって来て、それらに乗り込んだ多くの人たちが久々にこの未曾有の災禍が通り過ぎたばかりの地に降り立った。一年近くもの間、互いに別れ別れになっていた人々は、それぞれにようやくの再会を果たしたことで、沸き立つようなその歓喜の渦に誰もが皆その身を任せていた。
 街角や広場のどこを見回しても、いたるところに人が溢れかえっていた。その中を歩きながらリウーは、今このときに至るまでの長い長いペストとの戦いの日々を、その胸の内において振り返っていた。
 この一年に及ぶ期間にわたって彼は、医師としてほぼ全市民と関わりを持つまでになっていた。この日も通りかかりに、さまざまな機会で見知った人々に始終声をかけられながら、リウーは彼ら市民たちがその全身をもって表すこの歓喜の意味を思い、そしてまた、しかしその歓喜の中にはもはや姿を見ることのありえない友タルーのことを思った。
「…初めてリウーはこの幾月かの間、すべての通行者の顔に読みとられていた、あの家族同士のような様子に、はっきり一つの名を与えることができた。今や、自分の周囲をながめてみるだけで十分であった。悲惨と欠乏をいだきつつ、ペストの終幕にたどり着くと、これらすべての人々は、彼らがすでにずっと前から演じていた役割−−最初はその顔が、今ではその服装が、失踪とはるかな祖国とを物語っている亡命者という役割の、扮装をついに身につけるに至ったのであった。ペストが市の門を閉鎖した瞬間から、彼らはもう別離のなかだけで生き、すべてを忘れさせてくれる人間的な温かみをもぎ取られてしまっていたのである。さまざまな度合いで、市中あらゆるところで、これらの男たち女たちは、すべての者にとって性質は同じではないが、しかもすべての者にとって同じように不可能な、一つの合体にあこがれていたのであった。大部分の者は、そばにいない相手に向って一つの肉体の温かみを、愛情や習慣を、力のかぎり呼び求めていた。またある者たちは、人々の友情の外に置かれていること、手紙とか汽車とか船とかいう、通常の友情の手段によって人々に結びつくことのできる状態にいないことにしばしば自分でも気がつかずに苦しんでいた。またそれ以外にも、もっと少数の、おそらくタルーのような人々は、自分でもはっきり定義できない、しかしそれこそ唯一の望ましい善と思われる、あるものとの合体を願っていた。そして、他に名づける言葉がないままに、彼らはそれをときには平和と呼んでいたのである。…」(※1)
「…少なくとも、ここしばらくの間は、彼らは幸福でいられるであろう。彼らは今では知っているのだ−−人が常に欲し、そして時々手に入れることができるものがあるとすれば、それはすなわち人間の愛情であることを。
 これに反して、人間を越えて、自分にも想像さえつかぬような何ものかに目を向けていた人々すべてに対しては、答えはついに来なかった。タルーは、彼のいっていた、困難な心の平和というものに到達したかのように思われたが、しかし彼はそれを死のなかで、もうそれが彼にとってなんの訳にも立たなくなったときに、やっと見出したのであった。反対に、ほかの人々−ーリウーの目に映ずる、家々の戸口で、薄れかけた日ざしのなかに、力いっぱい抱き合い、夢中になって顔を見つめ合っている人々が、彼らの欲したものを手に入れることができたとしたら、それは彼らがただ一つ自分たちの力でどうにもなることだけを求めたからであった。…」(※2)

 道中で偶然にコタールの騒動と出くわした後、リウーはその足で、喘息病みの爺さんのところへ往診に向かった。
 爺さんは相変わらず、ベッドの上でエンドウ豆を移し替える作業にいそしんでいた。すっかり夜の空気に包まれた街からは、昼間からずっと引き続いている人々の歓喜の声が、遠くこの部屋の中にも届いてきていた。
 診察を始めると爺さんは、「例のお連れさんはどうなりましたかね」とリウーに尋ねてきた。
「…「死んだよ」と、ごろごろいう胸を聴診しながら、リウーはいった。
「へえ!」と、ややとまどった様子で、爺さんはつぶやいた。
「ペストでね」と、リウーは付け加えた。
「まったくね」と、ちょっとたってから、爺さんはいかにもそうだという調子でいった。「一番いい人たちが行っちまうんだ。それが人生ってもんでさ。だが、あの人は、自分が何を望んでるか、ちゃんと知ってる人だったな」
「どういうわけで、そんなことをいうんです」と、聴診器をしまいながら、リウーはいった。
「どういうわけってことはないがね。あの人は、しゃべっても意味のないことはいわなかったね。とにかく、わしにゃ、あの人が気に入ってたんでさ。だが、まあ、そういうもんだね。ほかの連中はみんないいまさ−−《さあ、ペストだ。ペストにかかったぞ》なんてね。もう少しで、勲章でもほしがりかねない始末でさ。だが、いったい何かね、ペストなんて?つまりそれが人生ってもんで、それだけのことでさ」…」(※3)
 その診察を終えての帰り際、リウーはふと、ここのテラスに上がってみようかと思い立ち、爺さんにその許しを願い出たのだった。
「…「迷惑かな、テラスに行って見ちゃ」
「なに、ちっとも。連中をながめようってわけだね、あの上から。たんとながめておいでなさい。だが、どうせあの連中は、いつだって相変らずですぜ」…」(※4)
 リウーがテラスに出て外の様子を眺めてみると、そこにはかつてタルーと語り合ったときと、まるで何も変わらないような夜があった。しかし、ここまで波のように打ち寄せてくる、街中の沸き立つざわめきは、この夜がもはや「反抗の夜ではなく、解放の夜であること」を物語ってもいたのであった。
「…暗い港から、公式の祝賀の最初の花火が上った。全市は、長いかすかな歓呼をもってそれに答えた。コタールもタルーも、リウーが愛し、そして失った男たち、女たちも、すべて、死んだ者も罪を犯した者も、忘れられていた。爺さんのいったとおりである−−人々は相変わらず同じようだった。…」(※5)

 そう、人々は「いつだって相変わらず」であり、その日々の営みは途切れることなく「繰り返し」なのである。まるで一枚きりのレコードを、繰り返し繰り返し鳴らしているかのように。
 しかしそれは、いつ何処で誰がしていることだとしても、きっとそうなのだ。そういった日々というものは「日々」と言いながらも、「いつだって相変わらず同じように繰り返す」ことにおいて、ある意味では「日付を持たない」かのように無時間的なものなのであり、ゆえにそれ自体としての歴史を持たないし、それを作りもしない。だからその意味でそれは無変化なものであり、ゆえに無限で永遠なものでもあるのだ。
 一方で人間は、病や戦をくぐり抜けることで変貌し、歴史を作り、それをさらに「自らの」歴史として抱え持つ。それはまさしく、人間が有限な存在であることの証でもある。有限だからこそ、それが可能となるのである。
 無限永遠と有限刹那、この相反する二つの要素を同時に有する人間の生というものは、まさに矛盾そのものなのであり、そしてそれこそが不条理そのものなのだ。

 そう。繰り返すのは、人なのだ。健やかなのであれ、病んでいるのであれ、それは人が健やかなのであり、また人が病むのである。その主体は、人なのだ。
 シーシュポスの神話を思い出してみよう。岩を山の頂上に担ぎ上げるやいなや、直ちにその岩は斜面を転げ落ち、それを追って麓に駆け戻り、再び岩を担ぎ上げてはまた転げ落ち、そしてまた担ぎ上げ、また転げ落ち、それをただただ繰り返す。その繰り返しの過程はしかし、それを繰り返している己れの主体性というものを、己れ自身として見出す過程でもあるのではないか。その行為を繰り返すのが己れ自身に他ならないというのであれば、それは自らが自らの主体性において繰り返していることに他ならないということなのではないか。
 岩を山頂に運び上げても、直ちに転げ落ちてしまうことが、たとえ「運命」なのだとしても、しかしそれを運び上げる「人」がいなければ、この運命はけっして作動することはない。もしこの私が、何かしらの不幸に見舞われるのだとしても、しかしそこに「この私」がいなければ、何ぴとであれ「この私」を不幸にすることなど、けっしてできはしないのだ。
 そこに「人間」がいる、「この私」がいる。その、けっして揺るがすことも、取り消すこともできない事実を確認することのできる、単なる一つの要件としてしか、いかなる運命も不幸も、あるいはどのような災禍や不条理も、この私の身において作動することなど、けっしてできはしない。そこに「人間」がいなければ、「この私」がいなければ、お前たちはけっして、何もすることができないのだ。
 もしこのことが確認できるとするならば、人間は、そしてこの私は、そういった運命や不幸、あるいはどのような災禍や不条理からも、自分自身に対する主体性を自ら取り返すということが、もしかしたらできるようになるのかもしれない。そしてその、自らの主体性を取り戻した人であるならば、たとえどのような「戦」の繰り返しに対してでも、敢えて自ら主体的に「反抗する」こともまた、可能となるのかもしれない。
 自分自身の主体性を取り戻すこと。だがしかし、今現在においてそれを「取り戻すことができた」などとは、何ぴともゆめゆめ思ってはならない。ただ常に取り返そうとして努めること、「そのために戦う」こと、繰り返し繰り返し、相も変わらずに。それが意志であり、誠実さであり、人間になるということだ。
 なあ、そうだろう?友よ。

〈了〉

◎引用・参照
※1 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳
※2 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳
※3 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳
※4 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳
※5 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳

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