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箱男体験

毎夜、安部公房を読んでいる。

 一日の終わりにシラーの赤ワイン一杯と『箱男』の一編を読む、そんな毎日を繰り返している。一見優雅なようだが、その実、大変無様な姿をしている。私も箱をかぶっている。
 
子どもの頃からの癖がある。友人はそれを『追体験フェチ』と称した。例えば、村上春樹の主人公がスパゲティを茹でると私も茹でるし、ロッキーが生卵を飲むと私も飲む。物語上の主人公の体験を現実で追体験するのだ。つまり、ガラスの仮面を読んだら当然泥団子を、食べるわけではない。追体験の可否は自分の理性がどこかで線引きしてるらしい。
 
一番困るのは、画面の向こうの主人公が水中に潜った時だ。私も同じく息を止める。そしてCMが挟まる。これが一番困る。それが原因で私はTVで映画を観なくなった。理解したいと望む対象がいて、より理解できうる手段があるから体験する、という感覚なのだが、傍から見ればただ影響されやすいだけなのかもしれない。
 
というわけで私は近頃箱をかぶっている。ご丁寧に物語の冒頭に≪箱の製法≫が書いてあったので、それに倣った。それが作者の目論見であると私は睨む。現実と虚構の境界を、読者自らに蝕ませるよう誘導する企てだと私は踏んだ。そしてまんまとそれに嵌っている。
 
『追体験フェチ』はその場限りのもので癖づくものでは無い。でも今回は少し危ない気もする。箱の中は心地よい。この感覚は現実を生きる社会人としてまずいと思うので、この体験を諦めようとも思った。ところが安部公房はこんなことを言っている。
「道にこだわりすぎるものは、かえって道を見失う」
なので、徒然なるままに箱男体験を完遂しようと思う。後の事は後の祭りとして、後の私に任せる事にしよう。
 
「べつに、あわてて逃げだしたりする必要はないのだ。逃げるてだては、またその翌日にでも考えればいいことである」

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