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『やまいだれ』



『やまいだれ』



六波羅蜜寺の空也上人立像のようなたたずまいで、左のレジに突っ立っている店員の男が、こちらどうぞー、と言ってわたしを見ながら手をあげた。
しかし、わたしは踵を返して、近くの棚に陳列してある蒸気でアイマスクを手に取り、商品の裏の説明書きをしげしげと見てごまかした。無論、買うつもりはない。なぜなら、それは家に腐るほどストックがあるからだ。それから、わたしはブリンク182が流れている店内を意味もなくぶらぶら一周して、ふたたびレジへ行くと、左のレジには客がおり、右のレジが空いていた。すると、お団子ヘアの店員の女の子が、こちらどうぞぉー、と手をあげる。わたしは意気揚々と鼠色のカゴを女の子のレジに置いた。
わたしは左のレジの男性店員のことが嫌いだった。なぜなら、彼は常に目が虚ろであり、生気の感じられない不気味な顔をしているからだ。彼の顔を見ているだけで虫唾が走り、彼の負のエネルギーがわたしの心身に転移しそうだから嫌なのだ。だから、わたしが買うペットボトルの飲み物やお菓子や化粧水なんかを彼に素手で触られたくないと思った。

その後、わたしは行きつけのカフェへ行った。
週に三、四の頻度で訪れる居心地の良い店である。
ただし、その店にもわたしの嫌いな店員がいた。指の第二関節まで濃い腕毛が這う、常にエロいことしか考えていないような弛緩した顔の男である。
わたしが店に入ったとき、その男がレジに立っていたので、すぐに踵を返して店を出ようとしたが、後ろから派手なマダム集団がやってきたので、何となくそのままレジへ進んでしまった。仕方なく、そのキモい男性店員からアイスコーヒーを受け取り、飲んだのだが、なんだか、金魚鉢の水でも飲んでいるような変な味がして、トイレで吐き出した。ガムシロップとミルクを入れてもダメだった。おそらく、生理的、精神的なものからくる症状なのだろう。


わたしはまずいアイスコーヒーのせいで気分が悪くなり、覚束ない足取りで、アーケード商店街を歩いていた。すると、スケーターファッションの男が私に声をかけてきて、わたしの目の前で、「あいしてまーす!」と言いながら、両手を広げて笑いかけてくる。無論、わたしは無視をしたが、男は、追いかけてきて、「彼氏いんの?」とか言うので、「すいません。彼氏いるので…」と嘘をつくと、「じゃあさ、今の彼氏と別れたらオレに連絡して。いつでも待ってまーす!」などと言って、得意げな顔で紙片に書いたラインのIDを渡してきた。返すか、ボケ。


苛々していたわたしは、行きつけのマッサージ店へ行くことにした。そこはアーケード商店の雑居ビルのなかに入っている。大概、事前に予約をしていなくても空いていて、受付に爽やかな感じの女性店員が立っていた。だから、今日も大丈夫だろうと思いながら店に入ると、受付には、田舎の道路のコンクリートくらい肌が荒い、センター分けで二重まぶたの目がバキバキの男が立っていた。この男はこの店の唯一の男性店員であり、わたしが嫌っている男である。無論、常に目がバキバキだから怖いのだ。
「よりにもよって、なんでこいつが今日、受付にいるんだよっ!」と思ったが、さすがにその場で店を出ることができず、仕方なく、三十分の全身もみほぐしコースにした。普段なら間違いなく六十分か九十分コースにするのだが、この男なら三十分コースが限界だ。こいつに体をあまり触られたくない。
そして、施術がいざ始まると、男は春画のタコのようにわたしのからだに執拗に絡みついてきて気持ち悪かった。体感でそう感じさせるような不快な揉み方だった。心なしか施術後の体がヌメヌメする。


マッサージ店を出ると、ぐったりだった。
路上では、シーシャとか吸ってそうな顔の小さな美人な女の子二人組が、笑顔でエナジードリンクを配っており、わたしはそれを一本いただくとすぐに飲み干した。そして、やっぱり美人な女の子はいいよね〜、などと思いながら、しばらく歩いていると尿意を催してきたので、近くの高層ビルに入った。


そこの地下に飲食街があり、寿司屋、牛タン料理、韓国料理、タイ料理、そば・てんぷら処などが入っている。私は通路の奥にあるトイレを使うことにした。すると、通路の中途にある半円形の桃色のソファには、くたくたのグレーのパーカーを着て、寝癖がついた白髪まじりのざんばら髪に不精ひげという不潔な感じの四十後半の男がひとりで座っていた。しかも、なぜだか足元が薄汚れた足袋である。
男は猫背で幕の内弁当を貪るように食べているのだが、終始、口から米粒をポロポロと自分の股間や太腿に落とし、「ああ、これはうめえなや」と割と大きな声でひとりごとを言いながら、血色の悪い唇を尖らせて、ペットボトルのお茶を飲んでいた。

わたしは、「うげぇ、変なのがいるよ…」と思って舌打ちし、男を見ないようにして素通りしようとしたら、男は、げっぷをしてから、ゲハゲハゲハッと烈しい咳をするので、わたしは顔をしかめた。男から変な菌をうつされたらたまらない。だから、廊下の端を走り抜けるようにしてトイレに駆け込んだ。

トイレのなかは荒廃した公園の公衆便所のような臭気がした。また、天井からはザアザアという波の音がさびしく流れてくる。個室に入り、便器のフタをあげると、さっきまで誰かが入っていたらしく、糞の残り香が便器の内側から漂ってきたので嘔吐を催して、卒倒しそうになった。また、先端が雑にちぎられたトイレットペーパーを引っ張ると、それがいつまで経ってもうまくちぎれず、リンゴの皮をむいているようにするすると永遠に途切れなかった。今日は仏滅なのかしら、とか思って、げんなりしていると、便器の底の濁った水に映ったわたしの陰気な顔が見えた。ドブネズミみたいに美しく生きたい。



わたしが子どもの時分、大人になることを楽しみにしていた。なぜなら、大人になれば、ある程度のお金があるだろうから、自分の好きな食べ物を自由に食べられるし、お酒も飲めるし、服も買えるし、素敵な恋愛もすることができると思っていたからだ。しかし、実際には大人になるにつれて、嫌なことや苦しいことや悲しいことばかりが無尽蔵にわいてきた。今では安い給料のために毎日、心身をすり減らして一生懸命に仕事をしている。それで得られるものとは何なのでしょう。また、何かを努力していても報われないし、素敵な恋愛など経験したことがない。挙句、わたしは体質的にお酒が飲めないのである。そうやって鬱屈した日々を過ごしていると、わたしはそんなことなど望んでいないのに、自分の心が病み、痛み、疲れていく。今では心療内科へ通院し、朝晩の薬を飲まないと心が不安定になり、めまいがして、職場へ行くことができなくなってしまった。とにかく、わたしは生きていて楽しいことなんてほとんどない。うわべの楽しさはそのへんにいっぱい転がっているけれど、それだけでこの世の中を生きていくのはあまりにも心細いし、苦しすぎる。


深いため息をつきながらスマホを見ると、友達からの結婚式の招待のラインがきており、「受付もお願いします!」というメッセージが書いてあった。
わたしはいよいよ死にたくなって、毒でも飲もうかな、と思いながら友達にラインを返し、上着のポケットに入れていたスケーターファッションの男からもらった連絡先の紙片をくしゃくしゃに丸めてトイレに流すと、糞の残り香がぷーんと漂った。



          〜了〜




愚かな駄文を最後まで読んでいただき、
ありがとうございます。
大変感謝申し上げます。

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