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湖水を覆う雲・秘密・永遠なるもの

 「万葉集」は、我が国最古の「歌集」で、全二十巻、ある。

 載せられている「うた」は、四五四〇首もあって、「詠み人」は、「天皇から農民まで」と、大変に、多岐にわたっている。

 「うた」の表わされかたは、一見すると、「漢文」のようにも見えるのだけれど、「漢文」ではない。

 よく見ると、本来の「漢字」や「熟語」のほかに、「音」や「意味」だけを拝借して、まるで「宛て字」のように使われている「万葉仮名(まんようがな)」というものが、混じっているのだ。

 「ひらがな」が生み出される以前に、主に「万葉集」を中心に使われていた「表記のしかた」で、見慣れると、その「宛て字的な一文字」が、「漢字」の持つ「意味」も、合わせて伝えていたりすることが、だんだんと、わかって来る。

 だから、意外と、「奥深くて面白いのだな」ということに、気付く。

 編纂が始まったのは、七世紀末あたりで、その後、代々引き継がれ、完成を見たのは、八世紀末から九世紀だと言われている。

 ひとことで言えば、「万葉集」は、日本の文学の「はじまり」であって、大変に膨大な「書物」なのだ。

 そんななかで、「額田王(ぬかだのおおきみ)」は、「万葉集」初期の代表的な「歌人」である。

 彼女の「うた」は、第一巻と第二巻に、長歌と短歌、合わせて十首、載せられている。

 どれも、千三百年以上も前に、詠われたものなのに、その「うた」は、今、観ても、抜群に、「粋」で、「お洒落」で、リズムやことば選びが「完璧」だ。

 そのうえ、気品に満ちていて、まるで「宝石」のように、美しい。

 彼女が「表現する」あふれる「おもい」は、「とき」を超えていて、「永遠」さえも、感じさせてくれる。

 それでも。。

 彼女の生涯については、ほとんどのことが、「謎」に包まれているのだ。

 「天皇、初め鏡王の女額田姫王を娶して、十市皇女を生しませり。」

 (てんのう、はじめ、かがみのおほきみのむすめ ぬかたのおほきみを めして、とおちのひめみこを なしませり。)

 「大津京」の時代、その宮廷文化の中心に在って、大活躍をしていたはずなのに、「日本書紀」のなかに、たった一行、このように、簡単に、記されているだけの、彼女の人生。。

 どんなひとだったのかを、知る手がかりは、ほとんど、ない。

「歴史的な資料」を駆使する研究者でさえ、いろいろに、「推測」するばかり、である。

 彼女の人生を、雄弁に、物語っているのは、残された「うた」だけ、なのだ。

 ーーわたしは、わたしだけの「感受性」で、彼女の「たましい」と彼女の「うた」の「秘密」を、「感じとって」みたい。

 「琵琶湖」を感じる「旅」を終えてから、一ヶ月あまりが過ぎ、「記憶」と共に、研ぎ澄まされてゆく「感受性」のなかで、わたしは、そんなふうに、思うように、なっていった。。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 「琵琶湖(うみ)を見る」。

 それが、第一の目的で、生まれて初めて訪ねた滋賀県。

 それなのに。。

 「三井寺」の、誰も来ないような、奥まった場所にある、高い「展望台」にまで、頑張って、登って行ったというのに、巧妙に「隠されて」、見ることが出来なかった「琵琶湖(うみ)」。。

 わたしは、「旅」から帰ってからも、どうしても、そのことが、気になって、「隠された琵琶湖」の「意味」について、ずうっと、考え続けていた。

 ーー琵琶湖だけを隠した、霧と雲の、不自然なさまが、なにより、気になる。

 ーーわたしが立ち寄る場所ごとに、他の観光客が、まるで、散るように居なくなって、いつもひとりになってしまったのも、今から思うと、不自然過ぎる気がする。。

 ーー見せられた「景色」は、もしかしたら、何かの「メッセージ」だったのだろうか。。

 気になったわたしは、あの日の「琵琶湖のお天気」を、調べてみた。

 すると、琵琶湖の上に、「霧と雲」が、かかったのは、わたしが、三井寺に着いて、「琵琶湖」をめざして歩き、見えない「琵琶湖」を眺めていた時間帯だけ、だったのだ。

 お昼過ぎからは、琵琶湖の上だけを、あんなにもしっかりと、覆っていた「霧も雲も」消えて、「良く晴れた」と、その「お天気情報」には、書かれていた。

 ーー信じられない。あの時間帯だけ、「隠されていた」なんて。。

 そう言われてみれば、早朝に、ホテルから、「日の出」を観に行ったときの琵琶湖は、良く晴れ渡っていて、雲は、全く、かかっていなかったのだった。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 ーー雲が隠す。。

 同じことを、毎日、悶々と、考え続けているうちに、

 「万葉集」の、ある「うた」たちが、ふと、わたしの脳裏を、よぎった。

 それは、第一巻にある、額田王のうた二首だった。

 一七「味酒 三輪乃山 青丹吉 奈良能山乃 山際 伊隠萬代 道隈 伊積流萬代尓 委曲毛 見管行武雄 數々毛 見放武八萬雄 情無 雲乃 隠障倍之也」

 書き下しをすると、

「味酒(うまさけ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山のまに い隠るまで 道の隈(くま) い積もるまでに つばらにも 見つつ行(ゆ)かむを しばしばも み放(さ)けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや」

(うまさけ みわのやま あをによし ならのやまの やまのまに いかくるまで みちのくま いつもるまでに つばらにも みつつゆかんを しばしばも みさけんやまを こころなく くもの かくさふべしや)

 そして、反歌として

一八「三輪山乎 然毛隠賀 雲谷裳 情有南畝 可苦佐布倍思哉」

 書き下しをすると、

 「三輪山を 然も隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや」

 (みわやまを しかもかくすか くもだにも こころあらなも かくさふべしや)

という「うた」たちだった。

 これらは、「近江京」への「遷都」の道すがら、やがて、かの地で即位して、「天智天皇」となる中大兄皇子に成り代わり、「巫女」として、また「歌人」として、額田王が詠んだ、三輪山への「別れのうた」と、それに添えられた※「反歌」なのである。

 ※(「反歌」とは、先に詠った「うた」のなかで、表現しきれなかったおもいや事柄を、付け加える意味で、「添えられたうた」のことを指す。)

 大昔から、畿内の天皇家を、代々守ってくれていた、「御神体」である「三輪山」との別れに際して、その「御霊鎮め(みたましずめ)」と「決別の儀式」とを兼ねて、その日、行列の御一行は、道々の曲がり角ごとに、一旦立ち止まり、「三輪山」を眺め、祈りを捧げながら、少しずつ、「近江」へと、歩みを進めていたのだった。

 ところが、これで見納め、となるはずの「三輪山」が、「雲で隠されて」、どうにも、見えない。

 いつ晴れて、見えるかと、期待しつつ、何度も止まって、道の曲がり角ごとに振り返るのだけれど、一向に、「雲」は晴れないのだった。

 最初の「長歌」の現代語訳は、

【三輪山が、奈良の山の端に隠れるまで、いくつもの曲がり角ごとに、たくさん見続けていたいのに、何度でも、見たい山なのに、こころなく、雲が隠したりして良いものでしょうか。】

 また、「反歌」の現代語訳は、

【そうまでして、「三輪山」を隠すのですか。「雲」だけでも、こころがあって欲しいものです。隠すなんて、あってはならないことです。】

といった感じだろう。

 ーー雲が隠す。。
 
 ーーあんなにも、観たくて、高い展望台にまで登ったというのに、「雲」が隠して、「琵琶湖(うみ)」が見えない。。

 「琵琶湖」を見ることが出来なかった自分の心情と重なるような「うた」たちが、「万葉集」のなかにあったことに、わたしは、ようやく辿り着いたのだった。

 ーーあの景色は、額田王からのメッセージだったということなのか。

 ーーそういえば。。

 あの日、「三井の霊泉」を参拝したあと、金堂から、三重塔をめざして、紅葉の道を歩きはじめたときのことを、わたしは、鮮やかに、思い出した。

 歩き出してしばらくしたころ、スラックスとブラウスを着ているはずの自分が、なぜか、その上に、古代の衣装をも纏っているような、不思議な「体感」を味わったことを。。

 そうして、

 ーーすべては、終わったこと。。

 ーーそう、わたしは、かつても、ここを、歩いていた。。

ということばが、自然に、口からこぼれ出て来たことを。。

 ーーあの「景色」は、額田王のたましいが、わたしに、何かを、伝えようとして、「見せたもの」だったのだ。。

 わたしは、そんなふうに、感じ始めた。

 何かが、少しずつ、分かってゆくような、そんな、「予感」が、わたしを、捉えはじめていた。。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 額田王については、生まれた年さえ、定かではない。

 「天皇、初め鏡王の女額田姫王を娶して、十市皇女を生しませり。」

 (てんのう、はじめ、かがみのおほきみのむすめ ぬかたのおほきみをめして、とおちのひめみこを なしませり。)

 「日本書紀」に書かれた、この文章から、娘がひとり、いたことは、おそらく、確かである。

 「十市皇女」の父親である「天皇」とは、「天武天皇」(大海人皇子)であって、「天智天皇」(中大兄皇子)ではない。

 額田王は、ごく若い時代、「斉明天皇」にお仕えしていたころに、その息子であり、のちに「天武天皇」となる「大海人皇子」と「恋」をして、結ばれ、「十市皇女」を産んだとされている。

 大海人皇子も中大兄皇子も、同じく「斉明天皇」の息子で、中大兄皇子は、大海人皇子の兄である。

 ただし、通説では、二人は、父親が違っているため、異父同母兄弟ということになっている。

 古代の結婚年齢は、中国の法律を真似て、「男は十五歳以上、女は十三歳以上」と定められていて、子どもを産むのは、だいたいのところ、「十代のうち」が中心であった。
 
 そのため、額田王も、十六歳から十八歳のあたりで、「十市皇女」を生んだのではないか、と言われている。

 ただし、「十市皇女」が生まれた年についても、六五三年(白雉四年)か、六四八年(大化四年)と言われていて、どちらなのか、定かでない。

 額田王が、六五三年に、十六歳で、「十市皇女」を生んだと仮定すれば、額田王の生まれた年は、六三七年だし、十八歳で生んだとすれば、六三五年生まれ、ということになる。

 また、六四八年に、十六歳で「十市皇女」を生んだとするなら、額田王の生まれた年は、六三二年となり、十八歳で生んだとすれば、生まれた年は、六三〇年となる。

 つまり、額田王の生まれた年は、六三〇年から六三七年までのあいだ、あたりかと、推察されていることになる。

 全く定かでない上に、七年もの、開きがあるのだ。

 額田王が、生まれた年が、そんなにも大切な理由は、天智六年(六六七年)に、大津京に遷都したとき、果たして、額田王は、何歳だったのか、ということが、問題だから、である。

 仮に、六三〇年生まれなら、「大津京遷都」のとき、すでに、額田王は、三七歳になっているし、一番若く見積もったとしても、三〇歳には、なっていることになる。

 彼女の孫にあたる「葛野王」が生まれたのは、天智天皇八年(六六九年)だから、大津京遷都のときには、額田王は、あと二年後には、「おばあちゃん」になるような年齢だった、ということなのだ。

 額田王は、「大津京遷都」の際に、大海人皇子と別れ、「天智天皇」となる「中大兄皇子」に、「召されて」いるらしいのだけれど、「后」になったという、記述は、実は、どこにも、ない。

 では、なぜ、「額田王」は、「天智天皇」に、「召された」のか。

 この点に関しても、どろどろの不倫劇にしてしまう人から、ただ、お仕えするためだけに付いて行ったのだ、と解釈する人まで、百通りくらいのおはなしに、分かれてしまう。。

 ただ、わたしは、「天智天皇」が、自らの治世にとって、「額田王」が、絶対的に必要だと、判断したからではないか、と思っている。

 「三輪山」の「御霊鎮め」が出来るほどの、「神格」を備えた「巫女」としての側面、多くの古典に精通し、教養を備えた「歌人」としての「才能」、さらには、「宮廷文化」の「宴」を仕切り、盛り上げるための「文化人」としての、艷やかな「才覚」。。

 「額田王」は、たったひとりで、そのすべてを身に纏っている、第一級の「才女」だったのだ。

 だからこそ、おおかたの反対を押しきって、歴史ある三輪山が見える地域から、「国防」と「通商」を中心に見据えた、あまり歴史の無い「近江」へと遷都するにあたって、「天智天皇」は、何としても、「額田王」を、そばに置きたかったのだと、わたしは思う。

 「近江に、来て欲しい。」

 中大兄皇子は、額田王に、自らの願いを、そう、伝えたかも、しれない。

 そうして、中大兄皇子は、大海人皇子から、額田王を「貰い受け」るために、自分の娘たちを、四人も差し出したのだ。

 もしかしたら、額田王は、最初は、泣く泣くだったかもしれない。

 わたしは、額田王の出生地を「畿内」だと考えているので、彼女の気持ちを察すると、生まれ育った土地を離れて、「近江」などという、全く知らない土地に、わざわざ行きたくはなかったのではないか、と思うのだ。

 ただ、のちに「天智天皇」となる「中大兄皇子」に「召されて」しまったので、やがて、そのひとの息子である「大友皇子」の「后」となる、わが娘の「十市皇女」とともに、「遷都」の御一行に加わって、「うた」を詠みながら、額田王は、「近江」へと、旅立ったのだろう。

 「はじまり」には、ただ、「天智天皇」にお仕えし、「近江」の「大津京」を「支える」という目的だけが、あったのかもしれない。

 それでも。。

 額田王は、お仕えしているうちに、しだいに、天智天皇に対して、「恋心」を抱くようになった。。

と、わたしは、考えている。

 彼女の作った「うた」が、その「おもい」を物語っているからだ。

 天智天皇は、「大津京」の真ん中に、君臨し、さまざまな改革に邁進しつつ、日々、精力的に行動していたから、額田王の目にも、彼は、さぞかし、雄々しく、たくましく、見えたことだろう。
  
 さらには、「軍事王」でありながらも、ときおり見せる「文人」としての、「粋」で「優しげ」で「雅び」な一面は、おそらく、額田王のこころを、柔らかく、掴んだのではないだろうか。。

 夫であった、大海人皇子にはなかった「魅力」を、天智天皇は、持っていたはずなのだ。

 ただ、額田王は、抱いてしまったその「おもい」を、自分の「こころ」のなかに、静かに、しまい込んで、自分だけの「秘密」にしたのだった。

 何故なら、彼女は、もう、「天皇」と「婚姻」する年齢などではなかったからだ。

 「天皇」の「婚姻」は、「支配者」としての体裁を調え、「お世継ぎ」をもうけるためのものであって、額田王は、自身が、すでに、その範疇には属さないことを、重々、自覚していたはずなのである。

 ーーわたしは、「あのかた」をお支えするだけで、良いのだ。。

 彼女は、そう、自分に言い聞かせ、そうして、「天智天皇」のために、「大津京」を支え続けてゆく決心を、さらに、強く、持っていったのだと、わたしは、思う。

 そんな、額田王の「秘めたおもい」は、やがて、彼女の「うた」の「表現」のなかに、散りばめられ、さまざまに、「昇華」されてゆく。。

 「その在りよう」は、彼女が、「歌人」として、より高みを目指し、「成長」を遂げるための「踏み絵」として、彼女に作用して行ったのかも、しれない。

「こころに隠した叶わぬ恋」は、やがて、彼女を、「歌人」として、大きく成長させてゆくのだ。

   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「天智天皇」の「正妃」の倭姫王を、額田王と同一人物である、と比定する説も、ある。

 何故なら、倭姫王は、正式な「大后」でありながら、その生涯については、ほとんど語られていないばかりか、生年さえも、明記されたものがないため、経歴があまりにも、不自然に「隠されている」人物だからだ。

 「うた」は、一首だけ、残されているけれど、それも、ほんとうに、彼女のものかどうかも、定かではない。

 そして、なにより、天智天皇とのあいだに、「子どもがいない」のだ。

 でも、わたしは、たとえ、倭姫王が、額田王であったとしても、それは、何ら、彼女の境遇を、変えるものではない、と考えている。

 何故なら、額田王は、「正后」として「飾られていた」可能性も、「あり」だからだ。

 額田王は、「王」の字が、名前に付いているので、古代のルールから、その出自は「皇族」のはずである。

 さらには、三輪山の「御霊鎮め」が出来るほどの、「神格」の高い「巫女」なのだから、「正后」として、天皇に添えられていても、不思議ではない。

 ただ、もし、そうだとしたら、年齢が高いので、お世継ぎを産む役割は、彼女には無く、「別格」に扱われていた可能性が高い、と、わたしには思われるのだ。

 ここに、額田王が、天智天皇を想って詠んだとされている相聞歌がある。

 これは、「万葉集第四巻 相聞」に載せられている「うた」である。

 額田王思近江天皇作歌一首

 「額田王、近江天皇を偲(しの)ひて作る歌一首」

 (ぬかたのおほきみ、おうみてんのうを しのびてつくるうた いっしゅ)

 四八八「君待登 吾戀居者 我屋戸之 簾動之 秋風吹」

  書き下すと、

「君待つと 我が恋ひ居れば 我がやどの 簾動かし 秋の風吹く」

 (きみまつと あがこいをれば わがやどの すだれうごかし あきのかぜふく)

と、なる。

 現代語訳にすると、

 【あなたを待って、恋しく思っておりますと、簾が動きました。でも、あなたが訪ねていらしたのでは無いのですね。秋風が、簾を動かしただけ、なのです。】

といったふう、である。

 素直に解釈すれば、これは、天皇の「通い」を待ち焦がれる「后」の「恋しいこころ」を表現している「うた」だ、と読み取ることが出来るのかも、しれない。

 けれども、わたしは、この「うた」には、「ひねり」があるように思えてならないのだ。

 額田王は、ほんとうは、誰のことも、待ってなどいない、のではないか。。

 何故なら、額田王には、「待ち人」なんて、「いない」からだ。

 額田王と天智天皇のあいだには、はじめから、「男女の関わり」などは、無いのだから。。

 それでも、額田王は、天智天皇のことを、こころの奥底では、「慕っている」から、「待ち人がいる設定」を、自分のなかで「想像」し、「作り出し」て、そうして、「来るはずのない君」を想い、秋風に動く簾にさえも、「もしや」と、反応してしまうほどの「恋ごころ」を、「表現」して、「うた」そのものを、楽しんでいるように、わたしには、感じ取れる。

 そこには、「男女の関わり」などは、とっくに超えてしまった、額田王の「純愛」が、「秘密裡」に、表現されているのではないか、とさえ、わたしには、思えるのだ。

 実は、「秋風」は、額田王自身であって、自分は、もう、すでに、人生の「秋」の季節を生きているのだ、と詠っているようにも、感じられるのである。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 多くのひとが良く知っている、あの、有名な、蒲生野の狩においての、額田王と大海人皇子による「うた」の掛け合いについても、わたしは、ちょっと、変わった「とらえかた」を試みてみた。

 天皇遊獦蒲生野時額田王作歌

 「天皇 蒲生野に遊獦する時に 額田王の作る歌」

 (てんのう かまふのに みかりするときに ぬかたのおほきみの つくるうた)

ニ〇「茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流」  

 書き下すと、

「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」

 (あかねさす むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみがそでふる)

 「うた」の意味は、

【茜色の光がさしこみ、紫草が、満開の、天皇の御領地で、そんなにも、わたしに向かって袖を振るなんて、野守(番人)に見つかってしまうではありませんか。】  

 これに答える大海人皇子の「うた」は、

 皇太子答御歌 明日香宮御宇天皇諡日天武天皇

「皇太子の答ふる御歌 明日香宮にてんか治めたまふ天皇 諡を天武天皇といふ」

(ひつぎのみこの こたうるおんうた あすかのみやに てんかおさめたもう てんのう おくりなを てんむてんのうという)

ニ一「紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方」

 書き下すと、

 「紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我恋ひめやも」

(むらさきの におえるいもを にくくあらば ひとづまゆえに あれこいめやも)

 「うた」の意味は、

【紫草のように美しいきみ。そんなきみを憎いと思うなら、人妻なのに、どうして、こんなにも恋しいと思うでしょうか。】

と、いったところだろうか。
 
 天智天皇に召され、自分のもとを去ってしまった額田王のことを、大海人皇子は、実は、いまだ、慕っている。

 それでも、兄である天智天皇には、逆らえない。

 さらに言えば、召されてしまった元妻の額田王が、ほんとうは、天智天皇のことを、こころの奥底では、慕っていることを、大海人皇子は、察しているのだ。

 だから、大海人皇子は、そんな額田王を、からかってしまいたくなって、この「うた」を、詠んだのではないか、と、わたしは、思うのである。
 
 年わかい妃たちに囲まれて暮らしている天智天皇が、額田王と、「男女の関わり」など、持つはずもないことを、重々承知した上で、大海人皇子は、額田王のことを、わざと、「人妻」と「表現」して、彼女を、からかっているように、わたしには、思える。

 実は、大海人皇子の、ちょっぴり、「愛憎」半々な「感情」が、「粋」に表現されている「うた」なのではないか、と感じるのだ。

 ーーもし、これが、かの有名な、「蒲生野のうた」に答えた、大海人皇子の「うた」の「真実」だったら、面白いかな。

なんて、思ったりする。

 ちょっといたずらな、「深読み」では、あるけれども。。
 
    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 中大兄皇子が、「新しい京(みやこ)」を創るために選んだ「近江」は、そこからさまざまな場所に行くことが可能な、「交通の要所」であったために、そもそもが、「大津京」は、「国際都市」になりうる性格を、有していた。 

 そのうえ、「百済」が滅亡したあとに、大陸から逃れて来た教養高い文化人たちが、数多く住まわされていたこともあって、「大津京」に移った人びとには、中国や朝鮮の文化に触れる機会も、開かれていた。

 そのように、「条件」が揃っていたために、「大津京」の人びとは、自然に、その当時の、「国際人的な感覚」を、身に付けていったもの、と想像される。

 だからこそ、「大津京」では、のちの平安文化の礎となるような「宮廷文化」が、すでに、「花開いて」いたのだ。

 「大津京」で開かれた、ある「宴」のときに、天智天皇が、「春」と「秋」とでは、どちらが、優れているか、というお題で、集った人びとに「うた」を競わせたことがあった。

 万葉集に、額田王が、その最終的な「判定」を、任されて、詠んだ「うた」が載せられているので、ここに、あげてみる。

 一六「冬木成 春去來者 不喧有之 鳥毛来鳴奴 不開有之 花毛佐家礼抒 山乎茂 入而毛不取 草深 執手母不見 秋山乃 木葉乎見而者 黄葉乎婆 取而曾思努布 青乎者 置而曾歎久 曾許之恨之 秋山吾者」

 書き下すと、

「冬ごもり 春さり來れば 鳴かざりし 鳥も來(き)鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取り手も見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉(もみち)をば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ歎く そこし恨めし 秋山われは」 

(ふゆごもり はるさりくれば なかざりし とりもきなきぬ さかざりし はなもさけれど やまをしげみ いりてもとらず くさふかみ とりてもみず あきやまの このはをみては もみじをば とりてぞしのぶ あおきをば おきてぞなげく そこしうらめし あきやまわれは) 

 その意味は、

【冬が過ぎて春が来れば、鳴かなかった鳥も来て鳴き、咲いていなかった花も咲きますが、山は繁っていて、中に入ることも出来ません。秋の山は、中に入れますから、紅葉を、手に取って鑑賞したり、まだ青い葉は、下に置いて嘆いたりすることも出来ます。春と秋と、どちらが良いかと言われたら、わたしは、秋ですね。】

と、いうことで、額田王は、「秋」に、軍配をあげている。

 これは、長歌なので、長い。

 なかなか結論までゆかず、「うた」が詠まれるのを、その場で、聞いていたら、果たして判定がどちらに下るのか、さぞかし、ハラハラ、ドキドキすることだろう。

 額田王の、どちらにも取れるように進めてゆく、この「うた」の、小洒落た「采配」が、抜群に、上手くて、「秀逸」である。

  特に、

 「秋山われは」

と、最後に言い放つところなどは、豪快で、「演出」が効いていて、心憎いばかりだ。

 彼女の「采配」に、その「場」は、どんなにか、ざわめき、どんなにか、聞いていた人びとは 顔を見合わせて、笑い合ったことだろう。

 これは、額田王の、「宴」における「活躍」が、手にとるように、想像出来る「うた」なのである。

 「大津京」で、額田王は、間違いなく、その中心に在って、文化人として、存在感をもって、君臨していたことを、「うた」が、華麗に、物語っている。

 「近江に、来て欲しい。」

 中大兄皇子の「願い」を受け入れ、「近江に、行ったこと」が、彼女の人生を、前に進めたことは、確かだと思われる。

 「大津京」で、その文化の担い手となることで、彼女は、「歌人」としての成長を遂げ、「万葉集」初期の「金字塔」的存在となって行ったのだ。

 そういう意味で、「近江」は、「額田王」にとっての「約束の地」だった、かもしれない。

  「天智天皇」となった中大兄皇子は、「額田王」の「自分に対する秘めたおもい」に、うすうす気付きつつ、彼女を「重用」することで、その「おもい」に、応えて行ったように、わたしには、思える。

 「天智天皇と額田王」は、お互いに、「目には見えぬ手」を取り合って、「大津京の宮廷文化」を育み、支え、その政権の安定を、ひいては、国家の安定を、計るべく、努力していたのだ。

     ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 六七一年(天智天皇十年)の十月、「天智天皇」は、突然の「病い」に臥してしまう。

 それは、重病だった。日本書紀には、大変に痛みをともなう「病い」であったと記述されている。

 「天智天皇」は、もはや、起き上がることも出来ないまま、六七二年一月七日(天智天皇十年十二月三日)に、「崩御」されてしまうのだ。

 やがて、「中心」を失った「大津京」は、少しずつ、傾きはじめる。。 

「次期天皇」をめぐる「争い」が、起ころうとしていた。
 
 古代における最大の内乱と言われている「壬申の乱」である。

 それは、「天智天皇」の息子の「大友皇子」と、額田王の夫であった、弟の「大海人皇子」とのあいだで争われ、結果的には、「大海人皇子」の勝利に終わった「戦い」だった。

 もはやこれまでと悟った「大友皇子」は、自死を遂げ、凱旋した「大海人皇子」は、やがて、「天武天皇」として即位することになる。「内乱」を起こした側の者のほうが「勝者」となる、という、極めて特殊な「戦い」であった。

 戦後処理のあと、大海人皇子は、「みやこ」を、「大津」から、彼の本拠地である「飛鳥」に、戻したのである。 

「天智天皇」の「早すぎる死」によって、戦いの場となってしまった「大津京」は、跡形もなく焼き払われ、「廃墟」と化した。。

 花咲き始めていた「宮廷文化」も、さらなる「みやこ」の建設計画も、まだまだ建立するはずだった数々の寺院も、全ては、「こころざしなかば」で、こつ然と、消えてしまったのだ。

 「近江」に「みやこ」があったのは、たった五年半であった。

 建造物の痕跡が、どうにも見つからず、研究者たちが、必死で探しても、「大津京」は、どこに在ったのかさえ、長い長いあいだ、分らなかった。

 一九七四年(昭和四九年)に、大津市錦織二丁目の住宅地から、偶然にも、「大規模な掘立柱建物跡の一部」が発見され、ようやく、その場所は、特定されたのだけれど、まだ、全貌までは、掴めていない。

 「大津京」は、まだまだ「幻のみやこ」なのだ。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

  ーーわたし、「あなた」に会うために、頑張って、こんなところまで、来たのにな。。

 ーーなにが、そんなに、哀しいの?

 あの日、「三井寺」の、一番奥の、より高い展望台で、「雲に隠された琵琶湖」に向かって、わたしは、仕方なく、くり返し、そう、話しかけることしか、出来なかった。

「湖水」から発せられる「大きな深い哀しみ」は、めったに泣くことなどないわたしを、「泣きそうな気持ち」にさせてしまうほどに、大きなものだったのだ。

 ーー天智天皇のたましいは、今も「大津京」に居て、そうして、自身が作り上げることが出来なかった「幻のみやこ」のことを、おもって、悔やんでいるのだ。。

 ーーあの朝、「琵琶湖」の「日の出」が、沈みゆく「夕日」にしか見えなかったのも、天智天皇が、わたしに、「廃墟と化した大津京」のことを、知らせたかったから、なのかも、しれない。。

 「感じること」だけを「目的」にして出かけた「琵琶湖」で、わたしが受け取ったものは、「滅びてしまったみやこを深く哀しみ、果たせなかったさまざまなことを、悔やんでいる天智天皇のおもい」だったということは、どうも、確かなことのように、だんだんと、わたしには、思えて来た。

 今回の「旅」の前に、わたしが調べたのは、「三井寺」にある「三井の霊泉」のことだけ、だった。

「三井寺」の名前の由来にもなったという、「三井の霊泉」は、「中大兄皇子=天智天皇」と「大海人皇子=天武天皇」と「持統天皇(天智天皇の娘であり、天武天皇の后)」の三天皇が、「産湯」に使ったとされていて、古代から、今も、湧き続けているのである。

 子どもの頃から、その「名前」が大好きで、いつも、気にかけていた「中大兄皇子」が、生まれたときのことを、知っている「三井の霊泉」。。

 わたしは、どうにも、ときめいてしまったのだ。

 ーー「三井の霊泉」だけは、絶対に、御参りしよう。

 それでも、あの日、方向音痴なわたしは、たったひと駅乗れば着くはずの最寄り駅に行くのさえ大変で、しっかりと、反対行きの電車に乗ってしまい、倍の時間をかけて、ようやく「三井寺」に辿り着いたのだった。

 いざ、「三井の霊泉」を御参りしようとしたとき、ちらほらと、近辺にいた他の観光客が、まるで、舞台から、退場するように、さーっと消えて、わたしは、見える景色のなかに、「たったひとり」になってしまったことを、覚えている。

 さらには、「霊泉」に、近づいて行くと、「せつない気持ち」に襲われて来て、息苦しくてたまらなくなった。

 それでも、御参りを済ませると、その息苦しさは、嘘のように、消えて、「呼吸」は、急に、楽になった。

 ただ、「せつない気持ち」は、逆に、どんどんと、強くなって行ったのだ。

 中大兄皇子のことを、「大好き」に思うわたしに、あの場所に、今も残る「額田王のおもい」が、しだいに、重なって来てしまったのかも、しれなかった。

 あの日、どんなに高いところに昇っても、「雲が隠して」見ることが出来なかった「琵琶湖の湖水」。。

 ーー「雲が隠す」という「信号」で、額田王が、その「存在」を、わたしに、知らせていたのではないだろうか。

 わたしは、そんなふうに、思ったのだ。

 中大兄皇子のことを、子どものころから気にかけているわたしに、額田王は、

 ーーわたしは、こうして、今も、天智天皇を、お支えして、護っているのですよ。

と、「琵琶湖」を覆う「雲」を見せて、語りかけていたのではないか。。

そんなふうに、わたしには、感じられて来たのだった。

 ーー額田王は、「男女の関わり」を超えた「純愛」を、今も、天智天皇に、捧げ続けている。。

 ーー天智天皇の、果たせなかったさまざまなおもいや、滅びてしまった「大津京」への哀しみは、琵琶湖の湖水から、今も、立ち昇っているけれど、額田王は、ただ、黙って、優しく、そばに控えていて、その哀しみを、時々は、柔らかな雲で覆って、慰めている、ということだったのだ。。

 ーー額田王は、あの日、その自らの「在りよう」を、わたしに、そのままに、示してくれていたのだ。

 あの日の「謎」が、やっと、解けたような、気がした。

 額田王のおもいは、「秘めた恋ごころ」だったけれども、それは、決して「見返りを求めない」ものだったから、長い年月のうちに、もはや、「恋ごころ」などは、とっくに超えて、「アガペー」の域にまで、達してしまったのかもしれない。  

 「アガペー」は、「神の愛」もしくは「親の子に対する愛」である。

 「無償の愛」なのだ。

 額田王は、「雲に覆われた琵琶湖」を通して、

 ーー「純愛」は、尊い。それは、時として、「永遠」を得るのだ。

ということを、示して来たように、わたしには、思えて来たのだった。

「おもい」は、「時空」も「輪廻」さえも、超えてしまうのだ、ということを、わたしは、額田王に、教えられたような、気がした。

 ーー今、観ても、額田王の「うた」が美しく響くのは、彼女の「おもい」が「永遠を得ている」からなのだ。

 わたしは、そのように、「確信」したのだった。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

額田王が、「永遠」に、「天智天皇」を想い、護っていることの、根拠にしたいと、わたしが思っている「うた」が、やはり、万葉集のなかに、載せられている。

 それは、万葉集第二巻の「相聞」に載せられている、弓削皇子(ゆげのみこ)とのあいだにかわされた「うた」である。

 弓削皇子は、持統天皇の時代に、成人を迎えた若い皇子で、父親は天武天皇、母親は、天智天皇の娘であった。

 天武天皇は、その晩年に、自分が亡き後に、皇位争いが起こることを懸念して、継承権のある皇子たち六名を吉野宮に集め、ふたごごろのないことを、「吉野の盟い」として誓わせたことがあった。

 もし、その「盟い」に背いたら、命を失うであろうと申し合わせた、と日本書紀には、書かれている。

 それでも、天武天皇亡き後、やはり、不穏な動きは、いろいろに起こってしまう。

 六皇子のうち、四名は、謀反の罪を着せられたり、病死と言われる「不穏な死」を遂げた。

 持統天皇は、一説には、権力に執着する、大変に嫉妬深く、冷酷なひとであった、と言われている。

 弓削皇子は、持統天皇に仕えていたのだけれど、自分の命も、いつ狙われるか、大変に、不安に思いながら、過ごしていたらしい。

 そんな彼が、持統天皇に付き添って「吉野」に出向いたときに、かつては自分の父親の妻でもあった、額田王に向けて「うた」を贈るのである。

 弓削皇子は、まだ、二十歳か二十一歳で、そのころの額田王は、もう六十代である。

 それでも、「相聞」は、成り立っている。

幸于吉野宮時弓削皇子贈与額田王歌一首

「吉野宮に幸す時に、弓削皇子、額田王に贈り与ふる歌一首」

(よしのみやに いでますときに ゆげのみこ ぬかたのおほきみに おくりあたふるうたいっしゅ)

百一一「古尓 戀流鳥鴨 弓弦葉乃 三井能上従 鳴濟遊久」

書き下すと、

「古に 恋ふる鳥かも ゆずるはの 御井の上より 鳴き渡り行く」

(いにしへに こふるとりかも ゆづるはの みゐのうへより なきわたりゆく)

 現代語訳にすると、

【昔のことを、懐かしんでいる鳥なのでしょうか。弓弦葉の泉の上を、鳴きながら、渡ってゆきます。】

 これは、「相聞歌」なのだけれど、二十歳の男の子が、六十代の女性に、恋のうたを贈るのは、いかにも不自然なので、かつては「天武天皇」の妻であった額田王に、息子として、天武天皇に成り代わって、書いたものではないか、と言われている。

 つまり、弓削皇子は、父親である「天武天皇」が存命だった頃を懐かしんで、「天武天皇」を「鳥」にたとえ、「父親」は、まだ、あなたのことを恋しがって、飛んでいるのです。

と、詠っているのだ。

 弓削皇子は、「うた」を作ることが好きな「文人」だったらしく、万葉集には、彼の作った「うた」が、八首も載せられている。これは、天武天皇の皇子としては、最多なのである。

 元は父親である「天武天皇」の妻であり、「うた」の達人として名を馳せていた額田王に、おそらくは、親近感を持って、この「うた」を贈ったのではないかと言われている。

 それに対して、額田王は、「返歌」をしている。

 額田王奉和歌一首 従倭京進入

「額田王の 和へ奉る歌一首 大和の京より 進り入る」

(ぬかたのおほきみの こたへまつるうたいっしゅ やまとのみやこより たてまつりいる)

百一二「古尓 戀良武鳥者 霍公鳥 蓋哉鳴之 吾念流碁騰」

書き下すと、

「古へに 恋ふらむ鳥は ほととぎす けだしや鳴きし 我が恋ふるごと」

(いにしへに こふらむとりは ほととぎす けだしやなきし あがこふるごと)

 現代語訳では、

【昔を恋しがって鳴く鳥は、ほととぎすなのでしょう。おそらくは、わたしが、昔のことを懐かしく想っているように、鳴いたのでしょうね。】

と、いったように、なる。

 ただし、この「うた」には、実は、深い「意味」が、隠されている。。

 鳥を「ほととぎす」としたのは、中国の「故事」を匂わせているからだ。

 額田王らしい、「教養」が、感じられる「うた」に仕上がっているのである。

 その「故事」とは、

 むかし、「蜀」の王であった「望帝」が、王位を、宰相の「開明」に譲って、西山に隠れた。けれども、春二月になると、ほととぎすが鳴いた。それで、蜀のひとたちは、望帝は、もう一度王位につきたいと願って、たましいが、ほととぎすになったと噂し合った。

と、いうものである。

 つまり、「国」を失ったことを嘆く「王」のたましいが、「ほととぎす」になって鳴くという、おはなしなのだ。

 だから、弓削皇子が、「天武天皇」のことを詠っているのに対して、額田王は、「鳥」をほととぎすとしたことで、「大津京」を失って嘆く「天智天皇」のことを表現しているのだ。

 「いえいえ、わたしが恋しく想っているのは、天智天皇なのですよ。」

と、返しているのである。

 さらに、この「うた」に対しては、弓削皇子は返歌ではなく、「松の苔」である「女蘿」(サルヲガセ)がまつわりついた「松の枝」を額田王に贈って来る。

 それに対する額田王の返歌も、ある。

 従吉野折取蘿生松柯遺時額田王奉入歌一首

「吉野より 苔生せる松が枝を 折り取りて遣る時に、額田王の奉り入るる歌一首」

(よしのより こけむせるまつがえを おりとりてやるときに、ぬかたのおほきみのたてまつりいるるうたいっしゅ)

百一三「三吉野乃 玉松之枝者 波思吉香聞 君之御言乎 持而加欲波久」

 書き下すと、

「み吉野の 玉松が枝は 愛しきかも 君がみ言を 持ちて通はく」

(みよしのの たままつがえは はしきかも きみがみことを もちてかよはく)

 現代語訳にすれば、

【吉野の 松の枝は、愛らしいことです。あなたの言葉を、運んでくるなんて。あなたのお気持ちは、良くわかりましたよ。】

くらいの、意味だろうと思われる。

 額田王から、「昔を懐かしむ鳥のうた」について、「返歌」が来たことを、喜んだ弓削皇子は、もう、六十代半ばだったであろう額田王のさらなる「長寿」を願って、苔むした「松の枝」を贈ったものと思われる。

 それに対して、額田王は、年わかい皇子に「御礼のうた」を返したのだろう。
 
 それでも、この若い皇子との「うた」のやりとりによって、額田王が、晩年になっても、「天智天皇」のことを、「慕っていたこと」が、よくわかるのである。

 額田王にとって、大海人皇子との若い時代の「恋」も、懐かしく思い出されることではあっても、自分が、最も「輝くこと」が出来た「近江での五年間」は、「人生最良のとき」であって、それを与えてくれた「天智天皇」へのおもいは、やはり、何物にも代え難い「特別なもの」だったのだ。

 額田王は、長生きを、し過ぎたのかもしれない。

 晩年の「うた」が作られたころ、すでに、ひとり娘の十市皇女は、亡くなってしまっているし、弓削皇子も、自身の不安の通りに、この数年後に、「謎の死」を遂げることになる。

 彼女は、たくさんの身近な「死」をみとどけて、七十歳前後に、亡くなったのだろうと思われる。古代の七十歳は、今なら、百歳を超えてしまうかもしれないほどの長生きである。

 それでも、彼女の人生は、記録が無く、依然として、「謎」に包まれたままだし、「お墓」さえも、発見されていない。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

  
 「琵琶湖(うみ)」を、もう一度、ちゃんと、見てみたいな、と思う。

 三井寺の奥深い「展望台」に、わたしが、また、行ったら、やっぱり「雲」が湧いて来て、「琵琶湖」を隠してしまうのだろうか。。

 「天智天皇」の「大きな深い哀しみ」も、「額田王」の「永遠の愛」も、わたしは、もう、良く、わかりました。

 だから、今度は、「琵琶湖」を「隠さないで」見せて欲しいなぁ、と思う。

 それにしても、「天智天皇」は、何の「病い」で、亡くなったのだろうか。

 千三百年以上も前のことだから、伺い知ることも出来ないけれど、きっと、現代なら、死なずに済んだことだろう。

 あんなにも、「悔やんでいる」のなら、必ずや、「転生」して、「新しい人生」を掴み取って欲しいものだ、と思ったりする。

 「強いおもい」を持って、生きたひとは、きっと、何度でも「生き直せる」はずなのだから。。

 もしかしたら、もう、何度も、「転生」しているのかも、しれない。。

 子どものころから、大好きな「中大兄皇子」が、「転生」して、わたしから、見えるところに、居たりしたら、ちょっと、嬉しい。

 「転生した中大兄皇子」に、気付けるのかな。わたし。

 〈参考文献〉

※補訂版「萬葉集 本文篇」 佐竹昭広 木下正俊 小島憲之共著 塙書房刊 
平成三十年十一月二十日 補訂版十一刷

※「萬葉集 訳文篇」佐竹昭広 木下正俊 小島憲之共著 塙書房刊 
平成十九年三月二十日 初版二十三刷

※「万葉仮名でよむ『万葉集』」石川九楊著 岩波書店 二〇一一年一月二十八日

※「幻の都 大津京を掘る」 林博道著 学生社 二〇〇五年九月十五日

※「大津京と万葉歌 天智天皇と額田王の時代」 林博道著 鈴木靖将画 
二〇一五年四月六日初版

※「万葉集 隠された歴史のメッセージ」 小川靖彦著 角川選書 
平成二十二年七月二十五日初版

※「人物叢書 額田王」直木孝次郎著 
吉川弘文館 二〇〇七年十二月十日第一版第一刷

※「中大兄皇子ー戦う王の虚像と実像」 遠山美都男 角川文庫 平成十四年十月二十五日初版

※「額田王の謎 あかねさすに秘められた衝撃のメッセージ」梅沢恵美子PHP文庫二〇〇三年八月十八日第一版第一刷

 
 
 

  























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