「夢みごこち」村上春樹さんと安西水丸さんとフジモトマサルさんのこと:騙し合う本の内部と外部の夢の中で漂流する/村上春樹さんのあとがき「フジモトマサルさんのこと」
あとがき:その1:偶然と必然の流れの中の村上春樹さんのあとがき:フジモトマサルさんのこと/村上春樹さんとイラストレーション/安西水丸さんのこと
この話はあとがきから始まることになる。村上春樹さんと安西水丸さんとフジモトマサルさんのこと、そして、フジモトマサルさんの「夢みごこち」とそこに書き添えられている村上春樹さんのあとがき「フジモトマサルさんのこと」について語るためには、この回り道が必要なんだ。どうしても。
話は前後し入り組み脇道へと踏み外したものになる。でもそうするしか方法はないんだ。村上春樹さんと安西水丸さんとフジモトマサルさんの物語を語るためには、そのジグザグした回り道と上下する階段と何度も潜るトンネルと風に揺れ動く頼りない吊り橋を渡り、無数の路地の角を曲がらなければならないのだ。最後の最後にようやくフジモトマサルさんの「夢みごこち」に辿り着くことになる。安西水丸さんとフジモトマサルさんへの祈りのために
あとがきのその1は、村上春樹さんと安西水丸さんと二人のイラストレーターのことについての話から始まる。フジモトマサルさんの「夢みごこち」へと辿り着くための、少しだけ、ほんの少しだけの入り組んだ前置きとして。
あとがきのその1は、「夢みごこち」ともフジモトマサルさんとも直接的には関係ないことだ。しかし、この話をするのとしないのとでは、村上春樹さんのあとがき「フジモトマサルさんのこと」の意味が全く異なったものとなってしまう。あとがきのその1は必要な前置きなんだ。曲がり角を曲がり階段を上り下りしジグザグするその通路の果てのその場所に辿り着くために。
安西水丸さんのことがあり、村上春樹さんとフジモトマサルさんの出会いが生まれる。そして、フジモトマサルさんのことがあり、フジモトマサルさんの「夢みごこち」のあとがきが村上春樹さんによって書かれることになる。
世界が変転し、偶然と必然が絡まるように生起する。誰かがドアを開け部屋から出て行き、誰かが部屋に入りドアを閉める。立ち去る者と入り込む者。
偶然と必然が、わたしたちの知らない場所で生まれ、それが何者かによってわたしたちに届けられる。わたしたちの手のひらの中で偶然と必然が踊る。
もたらされた偶然と必然が、わたしたちの生の時間をかたち作ることになる
フジモトマサルさんの「夢みごこち」のあとがきが村上春樹さんによって書かれることになるのは、その無限に続く偶然と必然の連鎖のひとつの結果とも言える。抗うことができなかった必然と出会ってしまった偶然が結びつく
村上春樹さんは長い間、安西水丸さんと組んで多くの作品を作ってきた。それは私にとって当たり前のことであり普通のことだった。村上春樹さんのエッセイに安西水丸さんのイラストレーション。当たり前のこと。普通のこと太陽が東の空から昇り西の空に沈んで行くくらい。雨が青空から降ってくることはなく、雨は灰色の雨雲から降ってくるということくらい。村上春樹さんの文章の隣に安西水丸さんのイラストレーション。それ以外にありえない
でも、それが当然のことでも普通のことでもないことは普通に考えれば誰にだって分かることだった。それは普通でもなければ当然のことでもない。それでもその時にそのことを知ることができなかった。村上春樹さんの言葉と安西水丸さんのイラストレーションが奏でる音楽の至福の時間の中に溺れていた。当たり前として普通として、それを平然と受け入れ無造作に平らげていた。そのことの意味も分からず、与えられたものと与えられた時間として
でも、そうじゃなかった。それは当たり前でも普通なことでもなかった。
それはとてもとてもとても特別なことであり奇跡的なことだったんだ。
そんなこともわからなかったなんて、その時間は、本当に、それは、それは
村上春樹さんと安西水丸さんのことについて、今の私にはここまでしか書くことができない。これ以上は書くことができない。これ以上の言葉は私から出ることを激しく拒んでいる。そこには人間が幸福/不幸であることの意味とその時間の重さとその時間の確かさと脆さが存在している。あの時のあの思いは現実の中で手触りのあるものとして存在していた。幻影ではなく。その意味とその時間について語る言葉を得るためには、その言葉を私の外へ解き放つためには、もう少しの時間ともう少しの呼吸が必要なのだ。私には。
〈BRUTUS〉(2021年 10月15日号 No.948)の村上春樹さん特集に「村上春樹の私的読書案内:51 BOOK GUIDE」と村上春樹さんが大切に思っている51冊の本について書いているセクションがある。その中に村上春樹さんの言葉で安西水丸さんのことが書かれている箇所がある。とても短い淡々とした簡潔な言葉で。それを読み、不意打ちを受けたように息が止まってしまった。
それから、涙が瞳から溢れ出て零れ落ちた。何度ぬぐってもぬぐっても、わけもなく涙が溢れ出て来て、それを止めることはできなかった。その訃報を聞いたその瞬間に、泣くまいと決めて、顔を洗って唇をかみしめて鏡を睨み付け唸って、泣くことはなかったのに、村上さんの短い言葉にこころの深い奥を衝かれて、瞳から涙が溢れ出て止まらなくなった。声を上げて泣いた。ありったけの声で。誰も何も気にすることなく、泣き続けた。いつまでも。
ひどいよ、水丸さん、こんなお別れのしかたなんて、ひどいよ、あんまりだ
あとがき:その2:高妍さんと豊田徹也さん/二人のイラストレーターと村上春樹さんについて
「猫を棄てる 父親について語るとき」と「一人称単数」のことと、そのイラストレーションについて話をしたいと思う。二冊ともそのイラストレーションが重要な役割を果たしている。と私は思う。フジモトマサルさんの「夢みごこち」へと辿り着くために必要な、踏み外し的回り道的前置きとして。
フジモトマサルさんとの「村上さんのところ」の後の、「フジモトマサルさんのこと」の後の、村上春樹さんと二人のイラストレーションについて。
村上春樹さんはフジモトマサルさんと初めてコンビを組んで「村上さんのところ」を2015年の7月に出版される。同じ年にエッセイ「職業としての小説家」を9月に刊行。村上さんはその後、長編小説「騎士団長殺し」が2017年の2月に発表され、エッセイ「猫を棄てる 父親について語るとき」を2020年の4月に、短編小説集「一人称単数」を同年、7月に刊行される。その後、2020年の6月にエッセイ「村上T 僕の愛したTシャツたち」、2021年の6月に「古くて素敵なクラシック・レコードたち」。2022年の4/7に、スコット・フィッツジェラルドの最後の長編小説「最後の大君」の翻訳が刊行される。
「猫を棄てる 父親について語るとき」について
「猫を棄てる 父親について語るとき」では、イラストレーションが大きな意味を持って村上春樹さんの言葉と伴に読み手にその物語を伝えることになる。この本が仮に他のイラストレーターによる他のイラストレーションであったとしたら、全くその物語のトーンは別のものなっていただろう。これまでの村上さんとは異質な「少し湿り気のある」その絵画が父親について語る村上さんの言葉を優しく支えている。「どこかしら不思議な懐かしさのようなものが感じられる」その絵画が「小さな歴史のかけらである/膨大な数の雨粒の、名もなき一滴の思い」を掬い取る。小さな、でもとても大切な一冊。
イラストレーターは台湾出身の高妍(Gao Yan)さん。装丁大久保明子さん
「歴史は過去のものではない。それは意識の内側で、あるいはまた無意識の内側で、温もりを持つ生きた血となって流れ、次の世代へと否応なく持ち運ばれてゆくものなのだ。そういう意味合いにおいて、ここに書かれているのは個人的な物語であると同時に、僕らの暮らす世界全体を作り上げている大きな物語の一部でもある。ごく微小な一部だが、それでもひとつのかけらであるという事実に間違いない。」 (「猫を棄てる 父親について語るとき」あとがき「小さな歴史のかけら」P99〜P100より引用)
短編小説集「一人称単数」について
「一人称単数」のカバーと巻頭を飾る一枚のイラストレーション。(この短編小説集には私は複雑な思いがあるのだが、その思いについてはここでは書かないことにする。)なぜ、今までこんな挿画の小説が村上さんには無かったんだろうと思わせるような意表を突くイラストレーション。予想外でもあるのだが、その一方で、元々そうだったんだ、と気付かせてくれる新しくもあり懐かしくもあるイラストレーション。村上春樹の小説世界の始まりを告げる「世界の終わり」と対となる、ハードボイルド・ワンダーランド的風景
ブルーとグリーンとイラストレーションのブラックと文字のゴールドのコントラストが素晴らしい。そこには何かしらの呪縛から解き放たれたような眩しい解放感に満ちている。そして、この小説集の終わりに置かれた「一人称単数」のラスト・シーンが冥界への入口を示すことになる。村上春樹の新しい長編小説の始まりを予感させる硫黄と灰と蛇の蠢く世界。ブルーとグリーンの光から再び闇の中へ。村上春樹の地獄巡りは、まだ終わってはいない。
イラストレーターは漫画家、豊田徹也さん、装丁は大久保明子さん。
あとがき:その3:「フジモトマサルさんのこと」村上春樹さんのあとがきについて/フジモトマサルさんへの祈りとして
回り道をしてしまった。ずいぶん。迂回と踏み外しと潜り抜け。話は前後し入り組んだものとなってしまったけれど、それらを通過することなしに、フジモトマサルさんの「夢みごこち」の村上春樹さんのあとがき「フジモトマサルさんのこと」に辿り着くことは出来なかった。何度も曲がり角を曲がらなければ、ここに到着することが出来なかった。曲がり方を誤ってしまうと辿り着けない場所がある。この場所もまたそうした場所のひとつなのだ。
「夢みごこち」の本体について語る前に、偶然と必然の渦の中から生まれることになった、村上春樹さんのあとがきについて話すことにする。フジモトマサルさんへの祈りとして。話は最後の最後まで前後が転倒することになる「夢みごこち」の持つ優しさと孤独のないまぜが、それを誘い可能とする。
2015年46歳で亡くなられたフジモトマサルさんの「夢みごこち」の復刊。2011年、平凡社から刊行された「夢みごこち」を新版として復刊したもの。復刊にあたって巻末に村上春樹さんのあとがき「フジモトマサルさんのこと」が加えられている。発行(2022/3/24)平凡社、装丁は名久井直子さん
フジモトマサルさんは村上春樹さんとの「村上さんのところ」が刊行されたその数か月後、亡くなられた。
本にはあとがきではなく「解説」と紹介されているのだが、その内容は必ずしも「夢みごこち」の村上春樹さんによる直接的な解説というわけではない作者のフジモトさんのあとがきではないそこには、そのタイトルのままの村上さんによる「フジモトマサルさんのこと」が書かれている。そして、それがフジモトマサル的世界の結晶のひとつである「夢みごこち」の目印を示している。また、本の帯に「フジモトマサルが描く傑作ディストピア・コミック」とあるのだが、そこにあるのは悪夢でもなければディストピアでもないそこあるのは普遍的で人間的な日常と非日常が錯綜し氾濫するわたしたちの世界そのものだ。それを悪夢/ディストピアと呼ぶかどうかは別のこととして
村上春樹さんのあとがき「フジモトマサルさんのこと」は5ページと少し。約3500文字。四百字詰め原稿用紙にすると8枚と半分。安西水丸さんとのことからはじまり、フジモトマサルさんとの出会い、フジモトさんの作品の内的な文体、「村上さんのところ」、フジモトさんの印象、そして、別れについて村上春樹さんらしい端正で率直な美しい文章で綴られている。素敵なあとがきなのだが、村上春樹さんとフジモトマサルさんのコンビネーションがこうした形でしか実現しないことが残念でならない。「惜しい」どころではなく、とても。「村上RADIO」がフジモトさんの絵画で彩られている。「素晴らしい絵をありがとう、フジモトさん。」(あとがきより引用)
曲がり角を回り時が戻る:「村上さんのところ」村上春樹×フジモトマサル
「村上さんのところ」(コンプリート版と単行本版)の表紙には「人間の姿をした村上春樹さん」が描かれ、隣にはドーナツを齧る猫の姿をした誰かとレコードを持つ羊(男)が並んでいる。文庫版では、エドゥアール・マネの「草上の昼食」のような構図の中で「人間の姿をした村上春樹さん」が優雅にくつろいでいる。村上さんは人間なんだから「人間の姿をした」という表現は奇妙な言い方なのだが、動物化された人間/人間化された動物が織り成す現実から「一歩遊離」した世界であるフジモトマサル的世界の中では、村上さんが「村上春樹さんの縫いぐるみを着た何か」のように見えてしまうのだ
フジモトマサル的世界の中に村上春樹さんがその姿のまま入り込むことによって、その世界は「三歩遊離」することになる。その浮遊感が現実の書き手である村上春樹さんと現実の読み手である読者を電子メールでつなぐこの本を、現実的でありながら非現実的な〈村上春樹×フジモトマサル的アンダーグラウンド〉手引書としている。「村上さんのところ 2」が存在しないこと。その痛ましさと残酷さ。その偶然と必然を受け入れなければならない。
5ページと少し:村上春樹さんのあとがき「フジモトマサルさんのこと」
村上さんのフジモトマサルさんへのあたたかい思いが溢れている文章。だがフジモトさんのその作品の内的世界とその人物の印象が感傷的になることなく正確に描写され、小説家・村上春樹がその顔を覗かせる。そのことによって、このあとがきが村上春樹さんのフジモトマサルさんについての思い出話に留まることなく、フジモトマサルの世界への最良の案内となっている。
No.1:フジモトマサルの「夢みごこち」/漫画とか小説とか絵本とか映画とかそうした区分が無意味なもの/入れ子細工型シェヘラザード的無限変奏曲的漫画夢物語絵巻
漫画とか小説とか絵本とか映画とか、そうした区分がくだらない便宜的なものでしかないもの、そういった区別がほとんど意味をなさないものが世界には存在している。フジモトマサルの「夢みごこち」もそうしたもののひとつ
夢と現実が必ずしも切り離されたものではないということ。それは深く広く人々の意識と無意識に根ざしている。或る意味、それは普遍的な人間的な事態とも言える。「夢みごこち」にもそうした普遍的で人間的な事柄に満ち溢れていて、そのことがこの作品を時を超えて読み継がれる名作としている。
ひとつの話の終わりのシーンが次の話のファースト・シーンに引き継がれ、切れ目なく次の話は始まってしまう。切れ目のない大きな夢の中の小さな夢夢か現実なのかにわかに判別することが困難な事態と光景と風景が、その物語の入れ子細工型の形式を持つ夢の物語が、本のタイトルから目次から本文の中の会話まで、全ての言葉が手書きの文字で、流麗な文字から遠い律儀で生真面目な手書きの文字のフジモトマサル印の文字が、絵の一部として絵の中に入り込んでいる。手書きの文字込みの絵画、手書きの文字込みの漫画、手書きの文字込みの物語が奏でるシェヘラザード的無限変奏曲的漫画絵巻。
No.2:方向性を欠いた散乱する不定形な気持ち。/茫漠とした孤独と冷たく透明な希望と曖昧で灰色の乾いた絶望
それを読み終えた後、あるいは、観終わった後、わたしたちに残されるものは、心地よい気怠さ。そこには幾つかの哀しみと痛みと可笑しさと虚しさが溶け合うことなくばらばらなまま入り交じっている。ひとつになることのない混在した気持ち。何かの統一したひとつのかたちを形成することのない方向性を欠いた不定形の気持ち。複数の気持ちが戸棚から取り出され床に放り出され散乱する。余分なものを切り落とし整理したはずものたちが、整理されることなく再びその混沌の姿を顕わす。棄てたはずの余分が蘇る。そこには茫漠とした孤独と冷たく透明な希望と曖昧で灰色の絶望が散在している。
No.3:その場所から離れるのではなくその場所に留まり続けてしまうような本
パタンと勢いよく本を閉じてドアを開け、嵐の外/晴天の外へ飛び出してしまうような本ではない。座った椅子にそのまま座り続けてしまうような本。その場所から離れるのではなく、その場所に留まり続けてしまうような本。静かに本を閉じた後、グラス/カップの中に少しだけ残ったすっかり部屋の温度と等しくなってしまった珈琲を飲み干し、そのままソファに沈み込む。時計の針が最低限の義務を果たすかのように次のステップを踏み、僅かに時間が進展し流れる。部屋の中でソファに沈んだまま身を任せ、部屋の中で時間の中を漂流する。まるで海に浮かぶ小舟のような部屋の中のソファの中で。
No.4:その本を閉じたにもかかわらず、その本は閉じられてはいない
それを読み終えた後、あるいは、観終わった後、であるにもかかわらず、それは終わってはいない。その本を閉じたにもかかわらず、その本は閉じられてはいない。それを読んでいた最中、あるいは、観ていた最中、その本の中に入り込んでいた。確かに。そして、それを読み終えた後、あるいは、観終わった後、その本の中から外へ出た。つもりになる。時計の針が角度を変更し時間が進む。部屋の中のソファに私は沈み込んでいる。本を閉じたつもりになって。錯覚と非現実と現実が本の中の夢の中で騙し合う。覚醒と睡眠が入れ替わり、目覚めるとそこは夢の世界となり、眠るとそこに現実が広がる夢の中に現実が存在し、現実の中に夢が存在する。心地よい気怠さの中で。
この部屋は、この本の外、なんだろうか?
それとも、 この本の中、なんだろうか?