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目をあけてごらん、離陸するから/Open Your Eyes, We're About to Take Off//大崎清夏Sayaka Osaki/2022の終わり/残酷に、そして、優しく、時間は流れる/12番目の月の光の中で書かれる風景

2022が終わろうとしている。最後の月、12番目の月が始まり、それもまた終わろうとしている。誰が何を行おうとも時間は過ぎ去って行く。誰もそれを押し止めることはできない。時は流れる。残酷に、そして、優しく。光のようなきらめく歓びの時間も背後の風景の中に溶けて行き小さな瞬きとなってしまう。肉と骨を断ち切られるかのような激しい痛みからはいまもなお血が滴り落ちている。だがそれもまた12の月の終わりには風景のひとつとして取り込まれてしまうのかもしれない。流れ出る血をそのままにして。飲み込むことがどうしてもできない悲しみでさえ風景の織り成すひとつの影として描写されてゆくだろう。飲み込むことができない吐き出されたままの姿で。

2022の風景が記録となる。記録としての風景が2022という刻印を押されて次の2023へと引き継がれる。2021の後、2023の前の風景として。1の月から始まり12の月で終わる2022の風景。一枚一枚が束ねられ積み重ねられる風景の束を仮に歴史と呼ぶのであれば、わたしたちは抗わなければならない記録としての歴史に。わたしたちのこころに存在しているものは記録ではない。記憶だ。変更することも複製することもできない人の中でしか生きることのできない記憶だ。風景の層、歴史、記憶が束ねられた風景から溢れ出る

残酷に、そして、優しく、時間が流れる、終わりの月、12の月の光の中で

No.1:「目をあけてごらん、離陸するから/Open Your Eyes, We're About to Take Off」大崎清夏Sayaka Osaki

「目をあけてごらん、離陸するから/Open Your Eyes, We're About to Take Off」(大崎清夏/Sayaka Osaki)

だけど、羽根はもちこたえる。
機体がちゃんとあなたを守る。
地球の重力にすこしだけ逆らって
あなたの身体は空中に持ちあがる。

(「目をあけてごらん、離陸するから/Open Your Eyes, We're About to Take Off」(大崎清夏)の
プロローグよ引用)

とても小さくとても美しくとても強い力が存在する本。言葉が書かれ読まれことばが何を行い何を人にもたらすのか、その問いへの応答のひとつとして

あれこれとこの本のことを語ることはやめることにした。わたしにそんなことができないことははじめからわかっている。それがわたしの愚かさをさらけ出すだけのことであればそれはそれで仕方のないことでしない。でも仮にそれが本を手にして読んでみようと思われている人をためらわせることにつながるとしたら悔やんでも悔やみきれないことになる。だからわたしは本の目次と本の帯の後ろに書かれている言葉と少しだけ本文の一部を引用するだけにしたいと思う。それだけでも十分にこの本の素敵さが伝わると思う。
 
引用とそれを巡る話はまた後で。「目をあけてごらん、離陸するから/Open Your Eyes, We're About to Take Off」(大崎清夏/Sayaka Osaki)がわたしの希望と絶望で彩色された混沌の2022の終わりについて、言葉を誘い出す。

2022の12の月、終わりの月に、わたしが言葉を書く時に携えたこの美しい本について語る前にいくつかのことがらについて語らなければならない。2022の終わりの月、12番目の月、流れる時間の中で書かれる風景の束に重ねられることになる一枚の素描について、記録と記憶について、気持ちを言葉にすることについて、歓びと痛みと悲しみと怒りについて、わたしがわたしでありあなたがあなたであることについて。 2022の終わりの月、12の月の夜、残酷に、そして、優しく、時が流れる。「目をあけてごらん、離陸するからOpen Your Eyes, We're About to Take Off /あなたの言葉よ、どうか無事で」

No.2:2022の記憶/歓び痛み悲しみ怒った2022の風景/わたしたちの中で記憶がりんりんと音を立てて現在の中で鳴り響いている。

2022の記憶。歓び痛み悲しみ怒った2022の風景。2022はわたしたちの内部でいまもなお生きている。12の月が終わり、2022の暦が2023の暦と入れ替わってもそれは終わらない。わたし/わたしたちの中で生きている。時間の激流の中で記録は残り記憶は滅びるのかもしれない。それでも、わたしがわたしでありあなたがあなたである限り、記憶は確かなものとして存在している。

誰にも渡さない。誰にも奪えない。誰にも壊すことはできない。記憶こそがわたしがわたしであることの論理なのだから。風景の束の歴史を超えて記憶がわたし/わたしたちの中でりんりんと音を立て現在の中で鳴り響いている。

No.3:風景の記録の保管庫/何としてもそれは守らなければならない/知性を侮辱し壊そうとする悪霊的なる欲望と戦うために

記録は意味のないものでもなければ書き換えることが許されるものでもなく忘却してはいけないことがらだ。あらためて言うまでもないことだけど。
 
記録されるべき事柄を記録し忘却の波の中へと消え去ることを拒否すること、記録としての風景を保存すること、その意味を蔑ろにするつもりはない記録が無意味なものだと言うつもりもない。破壊的に記録としての風景を信じられないほどに都合よく身勝手に後から描き変えようとする邪悪な欲望の攻撃から風景を守らなければならない。情報、アーカイブ(archive)として全人類の資産(assets)として風景を正確に保存すること。知性の営為の基盤である記録としての風景、その保管場所。知性の根幹として、風景の記録が束ねれ積層する静謐なる光の中の保管庫。犠牲を厭うことなく守らなければならない。知性を侮辱し壊そうとする悪霊的なる邪悪な欲望と戦うために

No.4:しかし、記録だけでは足りないんだ、圧倒的に/主語なき記憶である記録にはわたしもわたし以外もそこには存在していない。

しかしそれだけでは足りないんだ、全く足りないんだ。圧倒的に欠けているんだ、それだけでは。記録だけでは人の生のかたちのありようを残せない。
 
記録はわたしたちのこころの中に存在している/いたものたちのひとつの断面を切り取ったものでしかない。記録とは本質的にそうしたものでしかありえないからだ。記録とは出来事からわたしとわたし以外の人々が共有可能な部分だけを抜き取った、わたし/わたし以外の人の中にだけしか存在していない出来事の意味を削ぎ落したものでしかない。記録には出来事のわたし/わたし以外の人にしか持ちえない意味は欠損している。記録は物事を誰とでも共有するために、記憶から主語のわたし/わたし以外を排除した主語なき記憶であり単一の平面の記憶でしかない。わたしもわたし以外もそこには存在しない

No.5:だから言葉が必要になるんだ。/12番目の月、終わりの月に、言葉を書く/時の流れの残酷さと優しさに慄き体を震わせて

だからこそそうだからこそ言葉が必要になるんだ。言葉を書くことが必要なんだ。言葉だけが記憶を保存することができる唯一の容器なのだから。言葉を書くことだけでしか不定形な記憶にかたちを与えることはできない。記録ではなく記憶を記述するために言葉を書く。記憶の風景を描くために言葉を書く。2022の瞬間を記憶として保存するために言葉を書く。時の流れの残酷さと優しさに慄き体を震わせる12の月、終わりの月に、記憶の言葉を書く。

No.6:言葉となる。/歓びが歓びとして痛みが痛みとして悲しみが悲しみとして怒りが怒りとして/嘘、あるいは、虚像へと避け難く変容する記憶

歓びが歓びとして痛みが痛みとして悲しみが悲しみとして怒りが怒りとして言葉となる。それらの感情/気持ちの幾つかは敢えてこれまで言葉にしてこなかったものでもある。避けていた敢えて。それを言葉にしてしまうと感情/気持ちに囚われてわれを忘れてしまうことを怖れたからだ。口にしてはいけない口にできない言葉にできない言葉にすることをためらう言葉にしてはいけない事柄。忘れてしまいたい忘れるべき事柄。暗闇の中から聴こえて来るそれらの言葉を言葉にしてはいけない、と思った。それらは封印すべき忌まわしきものであり言葉としてかたちを与えてはいけないものたちだ、と思っていた。わたし/わたし以外が書くことができる言葉と書くことができない言葉

わたし/わたし以外の記憶が巧妙に調合され求めるかたちへ変形し求める色彩を塗られ求める記憶として変容して行く。書き直され上書きされ変更されるものごとたちとことがらたち。嘘、あるいは、虚像へと避け難く変貌するわたし/わたし以外の記憶。記憶を書くことはわたし/わたし以外の自分自身の物語を物語ること。良く言えば言い訳、悪く言えば自慢話、でしかない記憶の言葉。記憶を書くことはそうしたことから逃れられないと思っていた。

No.7:それ以外のありようがない、という意味においてそれは厳密に正確なもの/記憶/自分自身が埋め込まれた風景画を描くこと

でもそうじゃないんだ。と今では思う。そうではない。記憶を言葉で書くことは記憶の創作でもなければ捏造なんかでもない。それが、わたしの、あるいは、わたし以外しか持ちえないものであったとしても、わたしの記憶としてわたし以外の記憶としてそれは限りなく正確なものなんだ。記憶はそれ以外のありようがないという意味において厳密に正確なものなんだ。そこに嘘の入り込む余地など存在しない。わたしがわたしでありあなたがあなたである限り、いかなる意味においても記憶は作り変えることはできない。記憶こそがわたしがわたしであり、あなたがあなたであることの根拠なのだから。
 
繰り返す。只中の人間が描写する出来事は只中の出来事の部分として自身を描写したものであり、同時に、出来事の部分として自身以外の出来事を風景として描写したものである。つまりそれは自画像にして風景画となる。記憶とは自分自身が埋め込まれた風景画のことであり、記憶を言葉にして書くとは自分自身を内包した風景を描くこと。壺中の天の光景を素描するように。
 
だから怖れずにためらうことなく書かなければならない。記憶を言葉で。歓びを歓びとして痛みを痛みとして悲しみを悲しみとして怒りを怒りとして、その記憶/風景を言葉にしなければならない。わたしがわたしでありあなたがあなたである論理として、わたしがわたしでありあなたがあなたである歌として、ためらうことなくおそれることなく、言葉の容器に記憶を保存する。

No.8:感情/気持ちが激しくわたしの体を乗っ取ろうとする/怖れてはいけない/光と闇の険しい稜線を渡るように、言葉を書く。

その時、感情/気持ちを怖れてはいけない。それはまぎれもなくわたしのものなんだ。それがどれだけおぞましく邪悪で醜悪なものであっても。それはわたしそのものなんだ。耐え難い痛みから逃れるために全てを投げ出そうとすること。悲しみを悲しんでいながら一方で悲しむ自分に陶酔すること。爆発する怒りに体が切り裂け際限のない暴力の誘惑に引き摺り込まれそうになること。全部ある。全部だ。感情/気持ちが激しくわたしの体を乗っ取ろうとする。でもだから感情/気持ちを言葉にしない、そうじゃない。誤りだ、それは誤魔化すな逃げるな目を背けるな。感情/気持ちの源流へ遡らなければならない。沸き起こる感情/気持ちの根源を目の当たりにすること。光と闇の険しい稜線を渡るようにそれが致命的にわたしを損なう危険なものであるとしても

No.9:言葉を書く時に携えるもの、アイゼンとピッケルとランタンとして/いくつかの作品/それはいつもわたしと伴にある/わたしの体の外へと言葉が零れ落ちる

いくつかの作品を携える。言葉を書くために。わたしはいくつかの作品を携える。時にそれを小脇に抱え時にそれを服のポケットに忍ばせ時にそれを鞄の中に押し込み時にそれを背中に負い時にそれを手の中に握る。それはいつもわたしと伴にある。アイゼンとピッケルとランタンとして。作品とはわたしにとって足許を照らすランタンであり滑落を防ぐアイゼンであり壁を昇るためのピッケル。わたしにもたらされる作品の中で息づいている智慧と勇気がわたしの体を芯から暖め、黒と白と灰色の光で彩られた茫漠とした道行きを導いてくれる。2022でも多くの作品からわたしは無上のかけがえのないものたちを分け与えてもらった。そして、歓びと痛みと悲しみと怒りの風景が言葉となってわたしの中で広がって行く。言葉のほんの一部が文字となってわたしの体の外へと零れ落ちる。ありがとう、作品たちよ、ありがとう。

No.10:日本語の最高の散文のひとつ/「目をあけてごらん、離陸するから/Open Your Eyes, We're About to Take Off」(大崎清夏Sayaka Osaki)に収録されている「広州の鱈」「意味の明晰な欠け方について」/散文・言葉が生命である事例。

はじめに戻って「目をあけてごらん、離陸するから/Open Your Eyes, We're About to Take Off」(大崎清夏/Sayaka Osaki)について。アイゼンとピッケルとランタンとしていつもわたしと伴にある本/ことば。12月の光の中で
 
現代の日本語が到達した最高の散文のひとつ。「目を開けてごらん、離陸するから/Open Your Eyes, We're About to Take Off」(大崎清夏Sayaka Osaki)に収録されている「広州の鱈」「意味の明晰な欠け方について」。言葉が人を何処に運び何をそこで見せるのか何を成し得るのかそれを教えてくれる。

「あなたの言葉よ、どうか無事で」「その濃い色の、つよいお酒は、言葉の葉っぱをたくさん集めて、煮詰めて蒸留したような、ふしぎな植物の味がした。」(「目をあけてごらん、離陸するから/Open Your Eyes, We're About to Take Off」(大崎清夏Sayaka Osaki)の中の「あなたの言葉よ」より引用

「広州の鱈」は象形文字の故郷を見たくて訪れた広州の出来事の話、「意味の明晰な欠け方について」はサイ・トゥオンブリーについての話。その凄さを誰かと共有したいと思い一部を引用しようと試みてみたけれどそれはできなかった。できるはずもない。それでも一瞬でもそれを体感して欲しいので無理を承知でほんの一部分だけを引用することにする。執拗に言い訳するけれど最高の散文の部分を引用することなんて誰もできないんだ。それはもう生きている生命から鼓動する心臓だけを取り出すことと同じように不可能なことなんだ。だから必ず全文を読んで生命の全貌を確認して欲しい。散文/言葉が生命であるという事例。記録であり記憶でありそれらを超えたもの。

それからその街にいる間じゅう、どこへ行くにも鱈が後をついてきた。どの円卓を囲んでも私にはとうてい食べきれない量の料理が並び、鱈は私の食べきれない分を食べて日に日に太っていった。そのしっとりとした雪のような白身が、いまにも柔らかな皮から溢れてきそうだった。タチアイ、チンシャア! と呼ばれると鱈は私より先に嬉々としてそちらを振り返り、うたりうたりと身を翻した。

(「目をあけてごらん、離陸するから」/「広州の鱈」/(大崎清夏)P120より引用)

こうしゅう、と私は呟いた。窓の外を通り過ぎてゆく街の名前を。グヮンジョウではなく、こうしゅう。細く開いた車窓の向こうから、蒸した鱈の匂いが漂ってきた。懐かしい匂いだった。ずっと以前、まだ私が子供だった頃、大人の手が鍋から取ってほぐしてくれて、春菊と豆腐と一緒にぽん酢で食べた、ひらがなのたらちりの匂いだった。

(「目をあけてごらん、離陸するから」/「広州の鱈」/(大崎清夏)P122より引用)

巨大なカンヴァス。一面の灰白色。その白を優しく裂くように見え隠れする、淡い閃光のような水色、乳色・・・赤。うわごとのように時折りはしる鉛筆の線。辛うじて読める文字と、文字になる前の線。頭痛のような黒の塊。白の平然、白の不安、白の沈黙・・・。

(「目をあけてごらん、離陸するから」/「意味の明晰な欠け方について」/(大崎清夏)
P136より引用)

詩を読む人、詩を聴く人は、その見えない運動に巻き込まれ、取り込まれる。いつか誰かが書いたもののはずなのに、まるで山の苔むした倒木のように、あるいは海の波音のように、それは時間を忘れてそこにあり、私たちを、待たないままで待っている。

(「目をあけてごらん、離陸するから」/「意味の明晰な欠け方について」/(大崎清夏)
P138より引用)

No.11:プレゼントとして、大切な誰かにこの本を贈ることがあれば、こんな素敵な夜はない。///、「ほんとうはすべての作品を(「詩人です」と名乗るように)「詩です」と言ってしまいたいと、どこかでずっと思っていた」

ひとりでも多くの人にこのとても小さな本を手にして読んで欲しいと思う。プレゼントとして大切な誰かに贈ることがあれば、こんな素敵な夜はない。本の中に収録されている幾つかの散文はきっと読む人の深い場所に降り立ちその人の魂をやさしくあたためることになるだろう。2022の終わりの月に。
 
最後に「少し長いあとがき かっこいい女に呪われて」の中から大崎清夏さん自身がこの本のことを書き表している言葉を引用したいと思う。全部これは、詩なんだ!うん、わたしもそう思うよ、大崎清夏/Sayaka Osakiさん!

「この本には、私が詩人の肩書きで書いてきた、詩集には収めてこなかった作品群と、いくつかの書き下ろし作品を収めた。これらの作品を私は時と場合に応じて「小説」と呼んだり「エッセイ」と呼んだり「日記」と呼んだり「散文詩」と呼んだりしてきたけれど、ほんとうはすべての作品を(「詩人です」と名乗るように)「詩です」と言ってしまいたいと、どこかでずっと思っていたのだと思う。」

(「目をあけてごらん、離陸するから」/「少し長いあとがき かっこいい女に呪われて」/
(大崎清夏)P213より引用)

No.12:伝えるために、素晴らしさを/「目をあけてごらん、離陸するから/Open Your Eyes, We're About to Take Off」(大崎清夏Sayaka Osaki)からの引用/本の帯のことばと目次より

本屋さんの棚の片隅でかがやく透明なひかりをみつけそれを手に取る。ひかりが小さな本から湧き出ていることにとまどいながら目次と帯のことばとプロローグを読む。気が付いたらわたしはいつもの喫茶店の珈琲の湯気の中で本を開いていた。ばらつきがあるのかもしれない。でもことばのいくつかは時間の流れの残酷さと優しさに体を震わせる12月の光の中で、わたしの遠い深い場所でひかりわたしをあたためてくれている。ひかりのことばたちが。

あなたの言葉よ、どうか無事で──。
 
一日の終わり、テラス席で深呼吸をして書き始める。/元
同僚の本棚に『フラニーとズーイ』を見つけたら。/友人
のダンサーに「一緒にメコン川を眺めよう」と囁かれ、ラ
オスのフェスティバルへ。/象形文字の故郷を見てみたく
て広州へ。/ベルリンで恋した古書店で詩の朗読会をした
いと申し出る。/初対面の七人とウルフを音読する。/旅
先ですっかり山の虜になる……。あちこちで人や言葉にき
ゅーっととらわれた記憶を書く。書くことであたりまえの
自分でありつづける。詩的な小説と散文、旅のエッセイを
編みこんだ、心に光を灯す言葉の詰め合わせギフト

(「目をあけてごらん、離陸するから」(大崎清夏)本の帯より引用)

[目次]

目をあけてごらん、離陸するから
 ヘミングウェイたち 8
 シューレースのぐるぐる巻き 16
 フラニー、準備を整えて 26
 雷鳥と六月 46
 呼ばれた名前 68
 
歌う星にて、フィールドワーク
 アメリカ大陸を乗り継ぐ 88
 あなたの言葉よ 96
 航海する古書店 102
 音読の魔法にかかる(ウルフのやり方で) 110
 広州の鱈 118
 はじめてのフェスティバル 124
 神様の庭は円い 132
 意味の明晰な欠け方について 136
 おうちへ帰る人 142
 うれしい山 150
 プラネタリウムが星を巡らせるとき 154
 
ハバナ日記 161
 
少し長いあとがき かっこいい女に呪われて 208

(「目をあけてごらん、離陸するから」(大崎清夏)目次より引用)

あとがき1:Courtney Knightのイラストレーション/深入りすることをためらう何かがあるんだけれどそれが何かは分からない/かわいいダークの世界

本の装画はCourtney Knightの“Traveling for pleasure”。Courtney Knight(コートニー・ナイト)はオレゴン州ポートランドのイラストレーター。わたしは全く彼女のことを知らなかったんだけど、今回出会ってあっという間に彼女のイラストレーションの虜になってしまった。でもその世界を簡単に言葉にすることはできない。弾けるような鮮烈な色彩と獰猛な動きを見せるドローイングが作り出す少しダークでグロテスクで、そして、キュートな世界。物語の破片が紛れ込んでいる絵画。線と色がことばを叫び物語を組み立てる作品集が欲しくなって探したけれど見つからない。courtneyknight.comで作品を見るだけしかできない。深入りすることをためらう何かがあるんだけど正体不明、それでも踏み込んでしまうことになる。かなり危険かもしれない

あとがき2:サイ・トゥオンブリー/Cy Twomblyについて/「私はエトナのサーシス。/歌うような声のハミング。」

Cy Twombly
Cy Twombly
Cy Twombly

「意味の明晰な欠け方について」はサイ・トゥオンブリーについての話。
 
サイ・トゥオンブリーの作品と彼について書かれた日本語は必ずしも多くはない。クロード・モネの睡蓮やポール・セザンヌの林檎について語る言葉より少ない理由はわたしには分からないけれど、それはサイ・トゥオンブリーの作品がそれらより語る必要のないこと/ものであることを意味してはいない。それが語りえること/ものなのかは別のこととして。「目をあけてごらん、離陸するから」に収録されている「意味の明晰な欠け方について」はサイ・トゥオンブリーについて書かれた重要な日本語の文章のひとつ。文字数は2000あまりの短い文章。しかし、文の題名がサイ・トゥオンブリーのありようのすべてを顕示する。詩人・大崎清夏によるサイ・トゥオンブリー論。

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