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【アニータ・ムアジャーニ】 罪悪感についてー 罪悪感を手放すにはどうすればよいか(動画・翻訳)

この記事をご覧いただき、ありがとうございます。
この動画(2019年4月)の音声を翻訳したはろ/Halo🍀です。

ステージⅣの末期がんから臨死体験を経て生還し、向こう側の世界とこちらの世界に関わらず、本当の自分で在ること=愛だと「無条件の愛」とワンネスの世界を語り続けるアニータ・ムアジャーニさん。

今回のアニータ・ムアジャーニ(Anita Moorjani)さんのYouTubeオリジナル動画(英語)は、タイトルと下記の概要は日本語に訳されて表示されていますが、エラーによって、自動音声認識が韓国語として生成されてしまうため、自動翻訳機能が使えず、こちらに、私がはろ/Haloが翻訳したものを掲載します。2019年4月1日、アニータ・ムアジャーニさんが、パンデミックが世界中に拡大するちょうど1年前に撮影・発信した動画です。

心のどこかで、常に今の自分は最高の人生を味わう価値がないのではという疑念が消えない方、頑張ってきたはずなのにどこかで無力感を感じている方、自分がここにいることに無意味さや無価値感を感じてしまう方、大切な人を病気で失って今自分が幸せに笑ったり生きていることに後ろめたさを感じてしまう方、自分のほんとうのありたい姿のために、親や家族、友人から離れて生きることに後ろめたさを感じてしまう方、嫌な出来事が起きるとまず自分を責めてしまう方、本来の自分の在りようをありのまま受け入れられていない文化・社会にいると感じて自分に対して不足感を感じてしまっている方・・・なぜかこのタイトルに導かれ、こうしてご覧くださっている方に、力強い光が灯り、ここから見える景色が少しでも明るく見えますように。

他の人の目ばかり気になってしまい、気がつくと自己犠牲を払ってしまいがちなエンパス・HSP・繊細さんが、この宇宙・世界で「与える」だけでなく「受け取る」ことのバランスの真理を知ることを通して、ご自身の人生は自分が主役や創造主であると確信し、この瞬間から、また生まれ変わったような気持ちで、新たな年を迎えられますように。


アニータ・ムアジャーニ 公式SNSリストこちら


アニータ・ムアジャーニ:
罪悪感とは何でしょうか?罪悪感が、あなたの意識に忍び込んできたときにそれを認識する方法を学び、それをゆるめて、より自分にとって心地よい理想的な感情に置き換える方法を学びましょう。

オリジナル動画 Lets talk about GUILT!!  by Anita Moojani
2019/04/05 公開(38分59秒)
Anita Moorjani Official YouTube Channel
【オリジナル動画(英語音声)で聴きたい方はこちらの「オリジナル動画」からどうぞ】

「今までに、あなたが愛する誰かが楽しく過ごしていないからと、あなた自身が罪悪感を感じてしまうことはありましたか?私はあります。このビデオは、私がなぜガンになったのか、それには「罪悪感」が大きく関係していたのだという、私自身の経験談です。罪悪感を感じるのはどんな時か、なぜ罪悪感で健康を害するのか、罪悪感を手放すにはどうすればよいかについて話します。誰かの為に罪悪感から何かをすることは、絶対に、その相手にも自分にも有益ではないし、この罪悪感というものを手放して、もっとより良いパワーと人生に変えていく、プロセスについての話です。これはよく皆さんからいただく質問とそれへの私の回答です。
誰かのために使われるだけの人生ではなく、私が本来の自分として自分のために生きようとするとき、周囲の人はなぜそれを受け入れてくれないのですか?私を虐待をする親との間に、罪悪感なしに、境界線を作るにはどうしたらいいのですか?罪悪感を別の感情で置き換えるには?
このビデオがお役に立てると思ってくださったら、私のYou Tube チャンネルを登録して下さいね。

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愛をこめてアニータ
アニータ・ムアジャーニ」
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罪悪感の正体について

こんにちは。
今日は、私のところにいただく、コメントや質問、お手紙の中で、何度となく皆さんから寄せられる「罪悪感」の正体についてお話ししたいと思います。
私はアニータ・ムアジャーニです。私のウィークリーショー(動画)をご覧いただき、ありがとうございます。

罪悪感というトピックですが、皆さんの中には、ご自分が感じているものの正体が罪悪感であると気づいていない場合も多いかと思います。皆さんからいただくコメントやお手紙に対して、私から「本当の自分を見つめ、あなたの本当の情熱に従って、本当の自分になる必要があります・・・」という内容でお返事させていただくことがよくあります。そういう時に、皆さんはよく「ただ私が自分の本当の情熱に従ったことで、他の人を傷づけたらどうしましょう」とか、「私の生活では、そばについていないといけない人がいるので、あるいは、一緒に過ごさなければいけない人がいて、私が自分の思った通りにするのに、後ろめたさを感じてしまいます」とおっしゃいます。
だから、今日は、折に触れ、皆さんの中から出てくるこの「罪悪感」というトピックについて少しお話ししたいのです。なぜかというと、もし私たち自身が、この罪悪感というものの正体を、完全によく理解し、観察し、整理して説明することをしないと、罪悪感というものが、あなたを徐々に蝕んでいき、あなたの感情や意識を侵食していき、肉体・精神の病気を引き起こす原因になるからです。
私の全身がガンという病気に蝕まれた原因も、あらゆる側面から捉え直しても、私の持っていた数々の罪悪感が、私のガンという病気を大きくしたと思います。だから、罪悪感についてお話ししたいのです。
さらに、そこまで、深刻でドラマチックでないとしても、罪悪感によって、あなたが自分自身を見失うことになります。罪の意識は、あなたが本当の自分になるのを阻みます。罪の意識にさいなまれていると、他の誰かがあなたに望んでいる姿になることを強制されていることになるからです。罪悪感を通して、あなたご自身の望みではなく、誰か他の人たち全員の要求や期待に応えようとすることを意味するからです。

だからこそ、罪悪感というものの中身を解放して、それがあなた自身が真に抱くべき感情かどうか、あるいは、ただ何らかの過去の社会的・文化的プログラムによる条件づけによる感情なのかどうかを観察することが非常に重要なのです。それが、今日、私が探求してみてお話ししたいテーマになります。
皆さんからのコメントやご質問、大歓迎です。これからもう少しこのトピックについて私の方からお話しした後、コメントやご質問のいくつかを取り上げさせていただきますね。

親友の病気と私の罪悪感

それでは、私自身の話をシェアするところからスタートしますね。
あ、早速、たくさんのコメントを寄せてくださりありがとうございます!
皆さんからのコメントを読むのが本当に楽しみなんです。あ、フロリダから観てくださっているボニー、こんにちは。
それでは、私自身の話をシェアをして、なぜ、私がガンという病気を抱える上で、罪悪感がそんなにも影響の大きな要素であったかを説明するところからスタートしますね。
私が、まだ病気にかかる前、まだ元気に暮らしていた頃、私のとてもとても親しい友人(女性)がガンだと診断されました。それは私にとって衝撃的な出来事でした。私たちは同い年で、まだ30代後半で、まだ若いですし、その親友が全く同い年でそんなガンになるということは、私もガンにかかる可能性があると思いました。そして、彼女と私では、私の方が健康に過ごしている一方で、彼女はガンにかかってしまった。その親友は、ガンだと診断されるその日まで、何の病気の前触れもなく、風邪ひとつひかないような健康な身体で過ごしていました。そして、その親友がガンだと診断されるその日まで、私も親友も、共に、それぞれ一見すると、幸せで健康な良い人生を送ってきていました。その女性というのは、生まれてからずっと30年以上親しく付き合ってきた、私の人生の一番の親友というべき存在でした。

そこから何が起きたかというと、その親友がガンだと診断された時から、なぜだか理由はわからないのですが、とてつもない罪の意識にさいなまれるようになったんです。その親友がそこから経験することを目にし、ガンの治療のために親友が受けなければならない療法の数々を目にし、その親友は特に、当時かなり進んだ、積極的化学療法、放射線治療を受けることになり、その親友の身体・見た目にもかなりの犠牲を強いることになったのです。そういう彼女を目にすることは、私にとって胸が痛い、本当に本当に辛い経験であり、だから、私にとって、彼女がそういう経験をしなければいけない一部始終を見ていることは、とても辛く大変なことでしたが、一方で、もしそこで彼女と距離を少しでも置いてその事態から離れることは、私にとって罪の意識を感じることだったと思います。その親友に寄り添わなければならないと思っていたし、少しでもその親友の気持ちを和らげてあげたいし、その親友の闘病中、当時、私がその親友に付き添ってあげることを心から望んでいることを知っていました。

だからこそ、私は、その親友のそばにいられること、全てからそれを優先させ、何でもしなくてはという気持ちで行動していました。
私は、たとえ、自分がどんなに疲れ切っていても、その親友のそばにできるだけ一緒にいてあげて、その親友の癒しのプロセスの一部になれたらと望んでいました。
ですが、つまり、その当時、私は、自分が健康であることに対しては、かなりの罪悪感を持っていたのです。自分の健康を気遣うことは一切せず、その親友が少しでも快方に向かうように助けになるのであれば、自分ができること何でも最大限やるという気持ちでいました。そして、その親友が闘病している期間は、自分の他の友達と外出するときにすら、罪悪感を感じていました。だって、その親友はついてこれないけれど、その外出する友達は、その親友と共通の友達だったからです。私は自分が楽しい時間を過ごすだけで、そのことに、罪悪感を覚えていました。(親友がガンだと診断されたその日から)もしもショッピングに出かけて、私が気に入った素敵な服の買い物をするだけで、私は、こんな素敵な洋服が買い物できる、こんな素敵な服を着れる、素敵なものを買ったり、楽しい時間が持てる、それらが罪悪感になりました。だって、その親友は、もう大変な病気にかかっていて具合が悪くて、そうした経験をすることはできないんだと思ったからです。だから、もちろん、そうした買い物に自分が出かけた時は、その親友にも何かを必ず買っていきました。
そうやって、私は、基本的に、罪悪感を感じることなく、楽しい時間を過ごすことができなくなっていきました。罪悪感を感じることなく、セルフケアしたり、自分を大切にすることができなくなっていきました。「自分という電池をチャージする」のにも罪悪感を感じなければならなくなりました。
今では、これまでも、私はよく皆さんに、いかに「自分という電池をチャージする」ことが大切か、自分という電池をチャージするためには何でもしなくてはいけないとお話しし続けていますが、その当時は、自分という電池をチャージするのにも罪悪感を感じるようになっていました。

皆さん、どなたでも、皆さんの人生のある時期、ご自身の近しい方が、重篤な病気になったことで、あるいは、あなたの助けを非常に必要としている状況になり、私がガンにかかった親友への反応として当時経験したようなこと、今お話ししたような罪悪感にまつわる反応、行動をした方がいたら、コメントに、ぜひ書いてください。私もぜひ読ませていただきたいです。

セルフケアを優先させるのにも自身の癌/病気という理由が必要だった、罪悪感に満ちた当時の自分

とにかく、そうこうしているうちに、今度は、私は、私自身、自分の健康状態が悪化していく状況になっていきました。繰り返しになりますが、自分のを優先させ、自分をセルフケアすることに、当時の私は罪悪感を感じていたんです。心のどこかで、私は他の友達とも外出しなければいけないし、楽しい時間を過ごしたり、自分のための時間を取らなければならないと気づいてはいたのですが、できませんでした。それをするには、罪悪感を感じなくてはならず、それを感じないで、そうした自分のための時間を取ることができなくなっていました。

そして、そんなある日、私は、首の脇にしこりを見つけたんです。
私は、ガンという病気を、心からものすごく恐れていたし、親友が受けている治療や、親友がガンと診断されてから体験しているすべてを目にして、ものすごい恐怖心を持っていたのに。私が、首の脇のしこりを生体検査するために病院を受診した時、そして、その結果、医師から小さなリンパ腫(little Phoma)だと告げられた時、私はとてつもない恐怖心と絶望感に襲われてしましたが、その一方で、私の内側でこんな小さな声が聞こえたんです。
「あー、ようやく、これで自分自身をケアする必要がありますね」その声は、ため息というか、安堵感に満ちたため息、そんな小さな声でした。そうなんです。そこで、私はようやく、自分が自分自身の健康を気遣う「訳」ができたことになったのです。
その首のしこりの診断結果を受けた時から、ようやく私は「"私も"ガンにかかっているんです」と言うことができるようになったことは、その時の自分にとって、自分自身の健康を最優先にする許可を与えてくれることになりました。

さて、ここで、私がお伝えしたいポイントというか、なぜ、この私のお話をお伝えしたかというポイントは、皆さんのどなたも、自分をセルフケアするのに、自分が病気にかかる必要があるのだと思って欲しくないということです。それこそが、私が伝えたいとても重要なメッセージであるからこそ、この罪悪感というのは、非常に重要なトピックであり、みなさんが心から受け取ってほしいところです。
本当に絶対に病気にかかる必要性なんてないんです。自分をセルフケアするために、病気にかかるなんて理由は絶対必要ありません。それは、私自身が病気にかかったのは、一つは自分の罪悪感を軽減するためだったと知っているからです。考えてみてください!それって、なんて不健康な思考回路でしょう。
自分をケアするのに、自分を大切にするのに、病気にならなければそれができないなんて、不健康極まりない思考だということ、皆さんに本当に気づいてほしいんです。でも、当時の私は、本当にそうでした。

もう少し詳しくお話しすると、私は、ガンの症状を自覚する以前、その当時は、まだまあまあ健康状態が良いと感じていた頃ですら、ガンという病気についてあらゆることを調べ、自分の肉体の中から癌細胞を取り除く方法をもはや強迫的に調べまくっていました。でも、私の中で何が起こっていたかというと、それでも、当時の私は自分ではなく、自分の周囲の人々のことを常に自分よりも心配していました。
他の言葉で言い換えると、私がこの肉体における旅で、だんだんと体調を崩していく中で、他の人が私をお見舞いしてくれたり、私を助けてくれる時に、私はやっぱりその人たちをケアできているか心配したり、自分がエネルギーがなくなっていても、その人たちをケアできないことの方を心配したり、私がポジティブな自分自身をその人たちに伝えられているかを気にしたりしていました。自分や自分の健康をケアして心配するよりも、そうやって他の人のことを先に気にかけていました。
さらに別の言い方をすると、私は自分の体調が最悪の状況の時には、他の人々にお見舞いに来てもらったり、助けてもらったりすることが絶対嫌でした。私が最悪の状況の時に、他の人々に見られることも嫌でした。

人からの助けやサポートをどう受け取ってよいかわからず疲れ切っていた当時の自分

つまり、ここで、お伝えしたいのは、当時の私が、ガンという重篤という病気にかかってまでも、私が、他の人々の助けになりたい、他の人々を喜ばせる存在でいたい、他の人が自分を助けてくれる時には罪悪感を感じなければならないというニーズから抜け出すことができなかったということです。
その時点でも、他の人がさらに一歩踏み込んで、私をサポートしてくれようとしても、私は、罪悪感を感じないでいられなかっただろうということです。当時、私はそのくらい罪悪感を感じていたんです。

だから、人々がお見舞いに来てくれると、それだけで私はクタクタになっていました。当時の私は、どう人々のサポートを受け取るかわかりませんでした。私のところに来てくれる人々は、私を助けるためにそこにいてくれるということがわかりませんでした。
当時の私は、ああ、また(その人たちのために)演技しなくてはいけないわ、すごく疲れる、もう誰にも会いたくないわ、そんな風に思っていました。人からの助けやサポートを受け取る方法が本当にわからなかったんです。もし、仮に人からの助けやサポートを受け取ったとしても、私はそのことでさらに燃え尽きてしまう、もっと罪悪感を感じなければならなくなっていました。また、そうやって人から助けやサポートを受ければ受けるほど、もっと多くお返ししなければという気持ちになっていました。

だから、当時の私にとっては、誰もお見舞い客や訪問客がない方が楽だと思っていました。そのくらい、私の思考は、当時、不健康極まりない考えに囚われていたんです。そのくらい、私は、死にそうになるほど体調が悪くなっていたのに、当時の私は、八方美人で他人の目ばかり気にしてしまう人間(people pleaser)で、”ドアマット”(いわゆるエンパスの人の、周りに気を遣いすぎて自己犠牲を払う傾向)だったんです。

だから、ガンという病気が、私を、自分以外の人を優先させる八方美人であることや"ドアマット"であることから救い出したわけではなかったのです。
実際には、死という経験、臨死体験を経て、ようやく私がそこから抜け出すことができたのです。死という経験をして、それでようやく、いかに罪悪感という感情が、私を徐々に蝕み、いかに私が他の人を喜ばせようとして自己犠牲をする人間(people pleaser)"ドアマット"であるのか気づいたのです。

罪悪感が私たちに及ぼす影響 ー 罪悪感がそこにあることに気づく

では、ここで、罪悪感、罪の意識によって、どうなるかを説明したいと思います。
罪悪感によって、実際、皆さんが、それぞれ、ほんとうの自分自身であろうとすることができなくなります。

私は、私のこの臨死体験を経験したにも関わらず、その臨死体験から生還した後ですら、生還し末期癌の癌細胞が消えて回復した後ですら、人々が私に言っている内容によって、私の頭には、いまだに、時々「罪」という言葉がよぎるのを感じます。

ですが、今日は、これまでの学びを活かして、その罪悪感というものの正体を解き明かし、それが何であるかを理解し、こうして皆さんにお話しできるようになっていることは、私にとって本当に本当に重要なことなんです。

なぜかというと、もしも、誰か何か人が言ったことや行動したことが、私の中のトリガー(引き金となるものの)になって、私の中にこの罪悪感という感情があることを認識し、その正体を知ることをしなければ、これは、他の人が言ったことや行動したことがどうこうではないんです。私の中にあるこの罪悪感の正体を解き明かして認識しなければならないんです。私が、罪悪感を感じるというのは、臨死体験前、さらに子供時代から生存(サバイバル)のためか、他の何らかの目的のために、プログラムされて身につけたものとして認識しなければならないんです。例えば、他の人が私の助けやサポートを必要とした時に、私がそこにいられない場合に罪悪感を感じるというのは、私が臨死体験よりも前に、子供としてプログラミングされた感情なのです。
だから、今も、私の頭の中に、「罪悪感」が浮かんだ時はいつでも、私は、今、罪悪感を感じていると認識することがとても大切なんです。もしも私が自分の中の罪悪感の正体を解き明かし認識しなかったとしたら、また、臨死体験をする前の当時の自分、他のみんなが期待するであろう自分になろうと自分自身を失い、ガンにかかった当時に自分に戻ってしまうことになるでしょう。
かつての私は、ほんとうの自分自身を失い、他の人みんなのニーズに応えていないという罪悪感が自分を蝕んでいくのをそのまま受け入れていたんですから。

自分の中の罪悪感というかつてからのプログラミングを、今ここで認識しなければ、私は臨死体験以前から今まできた道のりを、まるっきりいとも簡単に巻き戻してしまうことになってしまうのです。

だからこそ、自分自身の中の罪悪感を引き起こすトリガーの正体をもう少し深くここで解き明かし、皆さんにお話ししていきたいと思います。

基本的には、罪の意識・罪悪感というのは、誰にとっても、あなたの存在をちっぽけなものに留めてしまいます。罪の意識・罪悪感というのは、私に、私の存在というものが常にちっぽけな存在であり続けるように感じさせます。例えば、誰かが私に何かをしてもらいたいようだと感じた瞬間、それは、本来の私がしていること、本来の私がしたいと思うこと、本来の私がする必要があることから、自分は一旦離れることになります。その時、感じるのは、罪悪感ではなく、他の人の助けになるという、いい気分ではあるのですが、それが罪悪感のもとなのです。そこで私がいい気分になるからこそ、私は他から期待される行為をとり続けることになるのですが、それをしている一方で、私という存在はおろそかになり小さなものであり続けるわけです。罪悪感というのは、本来の私という存在をちっぽけなものに留めておき、そして、この世にやってきた本来の私で在ることを妨げるものになってしまうのです。罪の意識というのは、本来のあなたではなく、あなたをちっぽけなものに留めておいてしまうのです。

他の人の期待に応えられていないような自分に罪悪感を覚える時:エクササイズ(4ステップ)

だから、みなさん、このようにしてください。
あなたの中に(自分を優先させることに)罪の意識、罪悪感が少しでも湧いたら、誰かがあなたに何かして欲しいと感じるのに、あなたは疲れていると感じていたり、私はその人から言われたことではなく違うようにしたいと感じているから、その人が言ったり期待した通りに自分が動かなくて罪悪感を覚えるような時には、まずは罪悪感を感じていることに気づいてください。
自分がやりたいことをやれなくて、他の人が期待していることをやることで、何だか気分がざわついたり、イライラしたり、気分が悪い時には、自分がまず罪悪感を持っていることに気づくのです。
まず、ステップ1は、その気分の悪さが、罪悪感、罪の意識だと気づくことです。そうやって、罪悪感が湧き上がってきたと意識したら、私がやるのは、それを大きな赤い看板、大きなSTOPのサインのように赤いサインに文字でGUILT(罪悪感)と描いてあるのを、自分でビジュアルにしてイメージするんです。私はそうやっています。そういう感情が湧き上がってきたら、その瞬間に、来たな!とすぐに、大きく「罪悪感」と描いてある赤い大きなサインを心に思い浮かべます。
そうして、私は、罪悪感を認識するきっかけにそのイメージを使っているのです。これ、この感情、私が今、対峙しているのは、この罪悪感という感情、と向き合うんです。
ここまでが、ステップ1です。

次は何をするかというと、これがステップ2です。
ここでは、自分がもしも、その罪悪感、罪の意識をベースに、誰か、何かの期待に従った行動をしたら、何であれ、それがどんなシナリオになるか、イメージするのです。

わかりやすく説明すると、先ほど、罪悪感・罪の意識は、私たち本来の在り方をちっぽけなものに留めてしまうと言いましたね。だから、もし、ここで、このまま、誰か何かの期待に応えて、そのように行為を続けたとして、それが自分という電池と使ってしまうかどうなるかをビジュアル(映像)、具体的なイメージにして想像し始めてみるのです。もし自分という電池を使ってしまうのであれば、私が本来ここに来てやりたかったことをできなくなってしまう。そして、私は自分自身がとてもちっぽけな存在と感じてしまうだろう。言ったように、罪悪感というのは、本来の自分をちっぽけな存在に押し留めてしまうから。このように、私は罪の意識をベースに行動した時の自分の行く末まで一連をビジュアル(映像)として思い浮かべるんです。また、意図的に、自分に罪悪感を感じさせている人や人々に憤りを感じてみるんです。これもこの過程でやってみてください。自分に罪悪感を感じさせていると思われる人や人々に憤りを感じてみるんです。
そうやって、一連の罪悪感に基づいた行為によって自分がどうなっていくかをビジュアルにするんです。私の場合だと、これは病気にかかってしまっている姿になっていくのですが。
そして、そこまでしたら、これは一旦、横に置きます。

さらに、ステップ3でやっていただきたいのは、もしも、誰か何かの期待に応えて行動することをせず、その代わり、自分がやりたいように行動した時の自分を想像してみるんです。
罪悪感を持っていない自分がどう行動するかを想像するのです。言い換えれば、もし罪の意識がなく、そこには誰も、あなたを罪悪感を感じる方向に連れていく人がいないとしたら、あなたはどちらの方向に進みたいのでしょうか。もし罪が存在しないとしたら、あなたはどうやって「自分という電池」をチャージしたいですか。罪の意識を持たないあなたは、自分の心に従って、本来の自分でいたら、どんな顔をしてどんな表情をしてどんな風に見えていますか。ここで大事なのは、あなたは罪の意識を感じておらず、あなたに罪悪感を感じさせるような人は誰もいないという前提です。できれば、プライベートな誰もいない空間に行き、一人、もしも罪の意識がないとしたら、どんな人生、どんな生活を送っているのか、自分でイメージしてビジュアルにして想像し映し出し、自由に書いてみるんです。そこで自分が想像することを、ありのまま、なんでも書き出すことに心からの許可を出すんです。
もし自分の存在をちっぽけなものに留めておかないとしたら、もし罪悪感を感じないとしたら、どこに向かうんだろう、何をするんだろう、どんな人生を送るんだろう。本当に心から自分に正直になって、書いてみるんです。

それでは、ここで、ステップ4です。このステップ3で、明確になったビジュアル、イメージを、その後の人生のガイダンスとして活用するんです。それこそが、罪悪感に一切邪魔をされない、あなたの本来の自分の生きる在り方ですから。そのステップ3で得たクリアなイメージをナビゲーションとして、あなたの行動、人生を設計するんです。
ですから、もし、あなたの周辺の人々がそこに存在しているのは、真にあなたのことを愛しているからだったとしても、あなたがそこでイメージした自分の姿を、赤ちゃんの歩幅からでも少しずつでもいいから、体現し周りと共有していくのです。そのステップ3で描いた、罪悪感に一切邪魔されない、あなた本来の自分を生きる姿のイメージを、そこからの日々の生活で、あなたが何者なのか、どんな人でありたいのか、実現する目印・標識と頭に常に置いておくんです。これについては、この後、もう少し理解しやすく、例を使ってさらに説明しますね。
またステップ4では、そのあなたの本来の自分のイメージから、人にもそれについて、そのイメージにある具体的な自分のビジュアライゼーションの話をするんです。

では、私の例を使って説明します。
私の人生が、今の私のいるこの方向に進み始めた頃、つまり、ウエイン・ダイヤーが、私が最初に書いた本を見つけた頃です。ウエイン・ダイヤーが、私の経験談と物語を、世界中に共有し始め、私も彼の講演会のステージに登場することになった頃、ウエイン・ダイヤーは、私を米国に移り、暮らすように勧めてくれました。でも、その当時は、私はその選択肢に罪悪感を感じていました。夫のダニーも、私も、年老いた親がまた存命でしたし、その親を置いて、遠い国に引っ越すこと自体に罪悪感を感じざるを得なかったのです。だから、私は、自分の夢をどこかで握りつぶして、そこにそのまま住み続けて、その環境に居続けることを選択することもできたのです。ですが、私たちが二人ともその代わりに実際にとった行動というのは、双方の年老いた親にそれぞれ、自分たちの夢を話して、状況を調整して、1年に最低でも2回は会いに行けるようにすることを約束して、現実、その親たちを自分たちの夢の最大の支援者・チアリーダーにすることができたのです。
ここで私が伝えたいのは、あなたの愛する人に、あなたの夢の一部になってもらう機会を与えることの大切さなんです。あなたの夢をシェアする時に、あなたの愛する人をいつの間にかそれこそちっぽけな存在と見くびって弱体化させるのではなく、ビジュアライズした夢の実現の一部になる機会を渡すんです。実際、私たちはそうしましたし、そうしたからこそ、本当に本当に良かったと思うことがたくさんあります。
私たちの親は、もう両方とも90代の年齢となりましたが、彼らが私たち夫婦の最大の支援者であり、ファンであり、チアリーダーなんです。親たちは、私たちの幸せを幸せに感じてくれていて、常に連絡を取り合っていて、親たちとの関係も、私たちが世の中に実現していることの一部になっていて、お互いに会いたいと思う時は、いつでも会いにいくことができるようになっています。

自分のほんとうの夢に向かって羽ばたくと、結果周りの人もほんとうの夢に向かって羽ばたける人になることをサポートできる

だから、基本的に、(もし罪悪感から)自分の夢について語ることをしない、言葉にして伝えないということは、相手という存在をみくびっている、弱体化させているということです。そして、相手から自分のほんとうの夢の実現の旅の一部になってもらう機会を奪っているということになります。

これについては、必ずつきまとう話として、皆さんの中から、「あー、でも、私の家族はそこまで理解してくれるような家族ではないです」とか「あー、私の配偶者は、私の誰々は・・・」とか、皆さんと皆さんにとってのどなたかについて、そういう反応が返ってくるのも想像できます。
ここで覚えておいてほしいのは、あなたがあなたの夢や望みについて語ったとして、それを誰かが理解しようとしなくても、もはや、あなたの問題ではなく、それはその人たちの問題なのです。そこには、その人たちが向き合わなければならない何か課題があり、あなたがしなくてはいけないのは優しくそれを差し出してその人たちがそれをするのを助けることだけなのです。
なぜなら、あなたの選択肢は、他の人の便宜のために自分という存在をちっぽけなものに留めておくか、実際に、夢や望みに向かって羽ばたくか、そのどちらかしかないからです。

だからこそ、あなたが本当にする必要があるのは、できるだけ優しく、あなた自身が本来は何者であるかと伝え、できるだけ優しい語り口で、夢に向かって(これまでにやったことの無いような)新しいことや興味深いことを始めるのに、あなたがその人たちからのサポートを必要としていることを伝えることだけなのです。
もしあなたが夢に向かって新しいことや興味深いことを始めることができたら、結果的に、それが相手にとっても新しいことや興味深いことを始めることができたということにつながるんです。
だって、これまでお話ししてきた通り、あなたが真の望みや夢に向かって新しいことや興味深いことを始めることができたら、もっと他の人々のためになることができる自分になるわけですから。

誰かがあなたに批判的な物言いをしてきた時 ー 罪悪感を感じることを言われたら

もう一つ別の例を挙げさせてください。
先ほどお話ししたエクササイズを始めるようになっても、その後も、そうですね、二、三年前でも、それでも、私は折りに触れ、罪悪感、罪の意識と向き合わなければならない時があります。

ある時、ある人が私に言った言葉がとても気になりました。
私は本当にしょっちゅう出張しています。たくさんのイベントに出席し、できるだけ多くの人に会ってお話したいと思っています。私は、どうにかスケジュールを詰め込んで、できる限り、皆さんに共有したいことが山ほどあるんです。本当に自分の中に創造性、アイディアが湧いてきて湧いてきて、皆さんとできる限りそれを共有したいと願っているのです。動画もできる限りたくさん配信したいし、できるだけたくさんのリトリートのセッションも開催したいし、イベントを開催して、できるだけたくさんの皆さんにお会いしたいし、お教えしたいことがあります。だから、私が出張する時は、ビジネスクラスかファーストクラスを使うんです。そうすることで、どこへでも、朝、到着するまでに渡航中に私自身がしっかりと休息を取ることができるからという理由です。

そんなある時、覚えているのですが、ある人に出会って、「よくまあ、そんなことに莫大な費用をかけれますね」と言われたのです。とてもジャッジメンタル、批判的なニュアンスの反応をもらいました。「よくまあそんなに色々なところに費用をかけれるものですね、ビジネスクラスであちこちに渡航して。それだけのお金があれば、世界中で飢餓にあえぐ人たちがそのお金を使うことができたら助かるのに。」と言われたんです。
それを聞いた瞬間、私は、一気に罪悪感の塊になりました。私は自分を過剰に甘やかしすぎているんだろうかと。そうやって、私は、自分に問いかけを始めました。そして、実際に、私がそうしていくうちに、自分がとてもちっぽけな存在になっていっているのを感じ始めたんです。

そこで、私が先ほどお伝えしたエクササイズをやってみました。もし、その私にジャッジメンタルな言葉を投げかけたその人の言うとおりの道を選択して、罪悪感から私がその後の行動を選択した場合、私は自分ができるだけセルフケアすることもせず、休養をきちんと取らず、乗り継ぎも必要な最も安い運賃のフライトを探して、色々失敗が増え、常にもっと休養が必要な状態でいて、YouTubeの動画をここまでたくさん撮影することもできず、クタクタになってしまい、という状況になってしまうでしょう・・・もしフライトの中で休息が取れなければ、それは自分自身のセルフケアができていない状況になっているのですから。そして、セルフケアが行き届かなければ、免疫システムもギリギリのところでなんとか働くわけで、もっと疲れやすくなるし、もっと体調を崩してしまうこともあるでしょう。それは、ひいては自分が幸せな人生を生きていることにならなくなってしまう。
それは、私が本当に望むシナリオではないんです。それをやったら、かつての自分になってしまいます。

そこで、また気づきがあったんです。
そういうジャッジメント、批判的な意見というのは、それを言ってくる人たち自身が、自分を大切にセルフケアしなくてはいけないというその人たちの課題というのを持っているんです。なので、私は、今なら、そういう批判的なことを言われても、それはその人自身が抱えている問題か、もしくは、その人が、その可哀想な飢餓を抱えた人たちを心配しているから、そういうことを言うのだと知っているのです。それは、あなたに対する憎悪から言っているわけではないんです。それは、その人たち自身の抱えている怖れやその人たち自身の課題からそう言っているだけなのです。

そういう人たちの先手を取る最も良い見本・選択肢は、私が私自身をケアして、健康でいながら長くこの世で生きて、長期的な視点で、地球上のもっともっと多くの人をケアし、短期的な道ではなく、長期的な道を、自分の姿を通して、もっと多くの人たちにお手本として見せることだと気づいたのです。自分が積極的に自身の健康のケアのためにやっている、その私の人生のほんの一コマだけを取り上げて、その人が言った言葉に(罪悪感から)とらわれることではないと気づいたんです。

こういう領域のことが罪悪感のワナになりがちなところです。あなたの課題ではない、他の誰かが、その人の持っている課題、不安感が言葉として表出したことに、あなたが罪悪感を感じてしまい、それによってあなたは、自分という存在をちっぽけに感じてしまうというワナです。

だから、私は、罪悪感というのが、みなさんそれぞれ、自分という存在にどういう風に働いているのか、常に気をつけていてほしいと願っています。そして、罪悪感というものの正体を認識して理解して、それを解放して、もしも罪悪感が一切ないと場合の、自分自身の描きたい本当の人生・生活のシナリオというのを創造して、そのビジュアライゼーションを前に進むためのみなさんのインスピレーションとして、心に置いて進んでいってほしいと思っています。
そして、覚えておいてほしいのは、あなたに罪悪感を感じさせるようなことを言う人というのは、わざとそれを言っているのではなく、(自分自身や自分自身が向き合う潜在的な課題に気づいていないという)無知から、そう言っているんだけだということです。そういう人たちに気づきを与える一番の良い方法は、自分自身をちっぽけな存在に押し留めておくのではなく、本来の自分であり続けて、そういう人たちにとってのインスピレーションになるということです。

この罪悪感というテーマは、近日中に予定されているリトリートの1モジュールとして追加されたところです。リトリートの中で私がとても楽しみにしているのは、クルーズでの開催であり、そこでは他のテーマと合わせて、このテーマにも非常に深く入り込んでお話ししていきます。罪悪感というテーマはとても重大なテーマであり、非常に多くの人々がこのテーマになんらかの関連があると思います。リトリートでは、私達チームは、罪悪感のプロセスを一つずつ深いところまで紐解いていき、それを参加者全員でワークして、一緒に深いところでの本来の自分のビジュアライゼーションや瞑想も行い、ジャーナリング(日記)を使って、罪悪感がどれほど皆さんそれぞれに影響しているかを、それぞれ皆さん個人で気づいていただきます。そうした罪悪感についてのモジュールが含まれた今年のリトリートができるのを、私もとても楽しみにしています。できたら、私の開催するリトリート(Alaskan cruise retreat in 2019/ The Power of Transformation: INTENSIVE WORKSHOP CRUISE 2nd - 9th June 2019)にぜひご参加ください。皆さんにお会いできるのを楽しみにしています。


Q&A

それでは、ご覧になっている方の質問やコメントに答えていきましょう。

Q.🗒 Nicole Bonnett コメント
アニータ・ムアジャーニさん、こんにちは。もし次に本を書いてくださるとするなら、これについて書いていただきたいくらい、この(罪悪感という)トピックは奥深い素晴らしいトピックだと思います。「罪悪感」というのは巨大なドリームキラー、夢の殺人鬼であり、おそらく私を含め、多くの人々の人生におけるブロックとも言えると思います。

A. ニコール、ありがとう。
そうですね、次の本出しますよ。そして、「Sensitivity is the New Strong」この罪悪感というテーマについても少しだけ触れています。

あなたのコメントは本当にまさにその通りで、はい、このトピックについては、語り始めたら、一つのオンライン講座コース、全てを使っても語り尽くせないくらいのトピックになると思います。私も、そこまでおおごとであるということに、ごく最近まで気づいていませんでしたし、私自身が、しょっちゅう、気がつくと、その罪悪感のワナに陥り入り込んでしまって、自分が疲れ切ってしまうところまで自分の人生での居場所を見失ってしまうという事態になり、私は自分でなぜなんだろうと問いかけていたんです。それである時にそれは、罪悪感、罪の意識からなのだと気づいたんです。人々が私に要求していることは、必ずしも、私が、今、この瞬間、やりたいことではないということ。だから、たとえ、他の人が、私が今これをやる「べき」だと感じるように仕向けたとしても、それは、その人が、私の人生のほんの一片だけを見ているのだと気づいたのです。私が、人々をインスパイアしたり、励ましたりすることができるようにするためには、今、この瞬間、本来の自分でやりたいようにする、それだけしか方法はないと気づいたのです。
長い目で見たら、後になってみたら、その人たちも、それが最善の道だったと気づくはずです。

イーバ・リーニッシュ「ライブ配信でお聞きすることができて本当によかったです」と書いてくれてます。ありがとうございます。

Q.🗒アナポーラは、
「ほんと、罪の意識はトリッキー(要注意)ですね。」と書いていますね。

A. ほんとです。とてもトリッキーです。
時々、特別な支援を必要とする子ども、私たち大人のサポートを必要とするこどもを産んでしまうというようなことまで罪悪感を抱いてしまうことがあります。罪の意識というのは、決して向き合うのが簡単な感情ではありません。だからこそ、罪悪感だと認識した上でその正体というのを解放することが本当に重要で、自分に尋ねてみるのです。これは、ほんとうに私がどうにかする必要のある課題なんだろうか。これは、過去の自分を取り巻く社会的な条件付けからの制限ではないだろうか。そこで、そう問いかけてみることが本当に本当に重要なんです。

お友達のスニータ・テッチャン(Sunita Teckchand)から、
🗒「(リトリートに)サーシャを参加させたいと思っています」とのコメントをありがとう。わあ、サーシャに会いたいわ。サーシャは、スニータの一番下のお嬢さんなのだけれど、本当に美しい魂の持ち主でエンパスなんです。
ところで、あくまでもご参考まで、私の友人のこのスニータこそ、私が最初の本を書いた後、彼女の経営するドバイのヒーリングセンターに招いてくださって、そこで、私には人生を変えるようなことが起こったんです。これこそが私のこれからの人生を賭けてやりたいことだって。
ドバイにいらっしゃる方はスニータ・テッチャンに連絡してみてくださいね。

今、良かったら、ライブ配信をご覧になっていて、ここで質問がある皆さん、ぜひこのタイミングで質問をしてくださいね。私の動画のプロデューサーに皆さんからの質問をこの場で確認してもらいますから。コメントいただけるのも本当に嬉しくて、皆さんからのコメントを読むのは大好きなのですが、今ここからは、質問を受け付けてお答えしたいと思います。

Q. 🗒Bonnie Cordaro 質問
私が”ドアマット"(エンパスの人の、周りに気を遣いすぎて自己犠牲を払う傾向)であることを辞めた時から、私の人生を取り巻く人の一部には、そういう私を受け入れてくれない人もいて、それが私の罪悪感に繋がっています。そういう人達との関係性は、緊張関係にあるか、もはやもう連絡が途絶えてしまっています。なぜ、人というのは、ある人が変わって、自分自身のことをケアし始めると、そのことを受け入れてくれないのでしょうか。

A. Bonnie、どんなお気持ちかわかりますよ。私も、臨死体験から生還した後、全く同じような状況、心境に陥りましたから。
そうですね、こういうことが起こるんです。その相手というのは、誰かが変わって自分をケアし始めると、その人たちは置いていかれたように怖れを感じるのです。あなたに対する憎悪というよりは、その人たちの不安感から来ているのですが。それと、その人たちは自分はそのように行動できないと思い込んでいるところから来るのですが。
だから、気づいてもらうための一番良い方法は、そういう人たちのお手本になることなんです。自分自身をケアする、自分軸を大事にする姿を見せもらって、お相手も自分でそれができるんだと気づく機会を創るということなんです。

私が臨死体験(NDE)から生還した時、私は臨死体験から生還してきた時点から、それまでの人生で、私が自分で何をしてきたことが、自分を死に追いやったかに気づいたのですが、そして、その一つが今日お話ししている罪悪感というテーマです。とにかく、私が一旦死んで、こちらの世界に戻ってきて、ガンが治癒した後、私は、ここからは、本当に自分自身をケアしなければいけないとわかっていました。私には、セルフケアが本当に必要だったんだということを身をもって知りました。そこで、同様に、私も多くの友人を失ったように感じていました。

ですが、しばらく経って、私が自分でしている事のペースをつかみ、安心して自分のやりたいことに専念するようになってきたら、私は、以前よりももっと多くの人のためになることができるところまで辿り着いていたんです。
お話ししてきた通り、もしも罪悪感が、あなたという本来の存在になることを妨げて、あなたをちっぽけなものに押し留めてい続けたら、そんなに多くの人の助けにはなる行動も在り方もできないんです。だって、そうなると、あなたは、自分以外の人の要求や期待に応えるばかりで疲れ切ってしまってしまうから。

だから、今は、私は、過去からの友人を失うリスクというのも覚悟しています。確かに友人と私との距離ができてしまうように感じることもあります。そのリスクを受け入れた上で、自分の選んだ道を進むしかないんです。私は、罪悪感が臨死体験前のかつての自分に引き戻してしまうのを知っていますから。
でもね、数年すると、そういう友人との関係が戻ってくることがあったんです。今の私は、以前よりもより良い場所にいて、より強くなって、そういう友人が助けを必要とすれば、助けることもできるんです。今の自分なら、罪悪感をベースではなく、自分の強さというところから、相手を助けることもできます。罪悪感から人を助けるというのはよくないです。本当に良くないです。
そして、自分自身のことを考えた時にも、あなたが誰か友人の助けを必要とする時も、罪悪感ベースではなく、その友人に備わる強さがあり、お互いの強さを尊重した助けを受け取ることができるんです。
これまでのあなたの人生、あなたに手助けをしてくれた人々がもし仮に、その人々の強さからではなく、罪悪感から手助けしてくれていたとしたらどうでしょう。突然、それぞれが自分たちの罪悪感からあなたを助けたんだと考えたとしたら、あなたの気持ちはどうでしょう。きっと最悪な気分になるのではないでしょうか、だったら助けてもらなくて良かったくらいかしれません。そこには良いエネルギーが感じられません。
だから、同様に、あなたは自分に正直であり、自分であることについて強さを持つ必要があるのです。

Q.🗒Sasha Joy Amara
虐待する親や機能不全の親との心の境界線(バウンダリー)を引くことについてはどうでしょうか?そこでの罪悪感はどうしたらよいでしょうか?

A. そうですね・・・私は、こういうご質問にも、本当に率直にお答えしなくてならないし、ここでのお答えはもしかしたらかなりぶっきらぼうに聞こえるかもしれません。
虐待する親や機能不全の親とは、しばらく時間をとって物理的距離を取って、そのお子さんの方が、自分自身が本来が何者であるか、本当に何を望んでいるのかをやってみなければなりません。

私は、虐待に関しては、許容範囲があまり広い方ではありません。最近でこそ、虐待的な関係というのに、あまり遭遇していないのですが、人生の若い頃には、確かに、機能不全な友人関係、人間関係、ナルシストの人々との人間関係に入り込んでいた経験があり、それが私自身のガンを引き起こす要因の一つにはなっていたと思います。
ありがたいことに、私の両親というのは(この質問者がおっしゃるような意味での)虐待的な親ではありませんでしたが、私の会社の上司たちは、非常に虐待的なナルシストだったり、虐待的でナルシストの彼とお付き合いしていたこともありますし、虐待的でナルシストの友達と付き合っていた時代もありました。
私は、その会社を離れるにしろ、そういう人達と離れるにしろ、今思えばもっと早く距離を置くべきだったのですが、それができなかったのは、私自身の自尊心が低すぎて、私自身に罪悪感があったからです。
もし、あなたの周りの誰かが虐待的だったり、ナルシストだったりする場合、それは人を巧妙に操作したいとする表現であり、そういう人との関係を続けてしまうのは、あなたが罪悪感をもっているからです。

もしそういう人達が、あなたが感じているのと同じくらいの罪悪感を感じていたとしたら、そういう人達は、とっくの昔にあなたの元を離れていることでしょう。
唯一、そういう虐待的でナルシスティックな人と、あなたの関係が続いているのは、あなたが罪悪感を感じていて、そういう人は、あなたに対してなら、自分たちがそういう行動を取れて、巧妙に操作できるからなのです。
ですから、どうかどうかどうか、そういう人との間には、強いバウンダリー(心の境界線)をもってください。そういう人たちが隙間に入り込んでこないように、自分自身をできる限り、思いきり最大限、愛してあげてください。自分自身を愛してください、人生というのは、いかに自分自身を愛せるかで決まります。本当にそうなんです。

だから、どうかどうかどうか、あなた自身が、機能不全の人間関係からは立ち去る許可を自分に出してあげてください。そして、必要であれば、他に助けを得てください。仲間を創るんです。その機能不全の人間関係の外に、仲間、助けを得るんです。あなたがやらなければならないと感じたことは、全部やってください。
虐待的で、機能不全の人間関係なんて、楽しいことは一つもありませんから。もしも、そこに、あなたがその関係にそのまま止まることを選んだら、どうなるかわかりますか。その辛さは永遠に続くのです。だって、そういう人間関係にとどまっていると、そこでなんとか生きていく方法は、機能不全のままであることですから。そうして、あなたは、その後も、唯一、機能不全の関係に惹かれるようになり、それが、愛する人や、子供にも移っていってしまうのです。
だから、今ここから、自分を最優先にする行動を取って、この虐待的で機能不全の人間関係は、ここで終わらせると決めるんです。私のところで終わらせると決めるのです。私は、この機能不全の関係を他の人、私の将来の子供、私の将来のパートナーや配偶者には移さないと。
それを移さないようにするには、まず、自分自身を癒さなくてはいけないと、そう決めてください。
ですから、機能不全の人間関係は、まず自分からそこで終わらせて、そこから立ち去り、どうかどうか自分自身を癒してください。

Q. 🗒Viorica Serban Bode 質問
私たちは、どうやって罪悪感のプログラムを解除することができるんでしょうか。罪悪感は、どういった感情と置き換えれば良いんでしょうか。

置き換える必要がある感情は、自己愛(セルフ・ラブ)です。私が自己愛(セルフ・ラブ)というときは、単に物理的・肉体的なことではなくて、
あなた自身の魂(ソウル)、スピリチュアルセルフ(ハイヤーセルフ/高次元の自分)とのつながりをもつことです。

どうしてこちらの世界に来たんだろう、もし私という光が最高に輝いたとしたら、私はどんな風に生きているんだろう。私の魂(ソウル)が私という存在にもたらした意図は何だろう。
この質問はありがたいです。もう少し深くこのテーマについて講座を作って深めていきたいという思いでおり、その折に、私は、このテーマは、まさにこの方向に、罪悪感の解放という方向に、深めていきたいからです。
講座の内容が完成するまでは、自分自身に実験してエクサイズしてみてください。
あなたの自分自身の魂に聴くんです。
「私は、何者になりたくて、この世界に来たんですか。」
それこそが、どうやって罪悪感のプログラムを解除する方法です。
他の誰にも、あなたの魂がこの世界に送り込んだあなたの姿・在り方を奪うことをさせないでください。

では、今日はこれでお別れです。本来のあなたでいてください、そして、あなたという光を最高に輝かせてくださいね。
他の私の動画もぜひご覧ください。
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そして、皆さんとリトリートでお会いできるのを楽しみにしています。
リトリートでは、まさに、今日のこの罪悪感というトピックについて深く深くお話しし、私と皆さんと一緒に、罪悪感を解放・解除しましょう。

この私の動画配信にチャンネルを合わせてくださり、ご覧くださり、本当にありがとうございます。次回は、私のアニータ・ムアジャーニ(Anita Moorjani)Facebookライブでお会いしましょう。

I'm back home for a few days!✨ You're invited to join me on Sunday, 4/28/19, around 12 noon Pacific time for a new...

Posted by Anita Moorjani on Friday, April 26, 2019
差し出したことと同じだけ受け取ることを意識するのです by アニータ・ムアジャーニ











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