第3の目をもつ巨人になれ
ルドンの作品『キュクロプス』。
丸い目という意味の古代ギリシャ語「キュクロープス」は、ギリシャ神話に登場する単眼の巨人を表している。(英語だと Cyclops サイクロプス)
キュクロプスは、彼の属する種の呼び名であり。彼自身には、ポリュペモスという名前がある。古代ローマの詩や古代ギリシャの叙事詩に登場する、キャラクターなのだ。
ルドンの絵は、古代ローマの詩の方にもとづいている。
ポリュペモスは、ガラテイアという精霊に恋をしていた。片思いだった。
ある日、ガラテイアが恋人と仲睦まじくすごす様子を見たポリュペモスは、嫉妬に狂い正気を失ってしまう。そして、その男性を殺してしまった。
だが。ルドンの絵から伝わってくるのは、岩陰から好きな人をのぞき見する(狂気をはらんでいるような目つきには見えない)のが精一杯、とそんな印象のキュクロプスだ。
好きな女性が全裸で野外に寝ているのだから、見てしまうのは仕方がないかと。笑
この作品では、3つ目の巨人として描かれているが。これもポリュペモスだ。またしても、わずかな隙間からガラテイアをのぞき見している。額の目は彼女をじっと見つめている。
やはり、物語で示されているような凶暴性は感じられず。ただただ、叶わぬ恋に苦悩?する姿に見える。奥手な男性というか。
古代ギリシャ叙事詩の方では、どうなのか。
ホメロスの作品の中で語られるキュクロプスは、人喰いで粗野な田園生活をおくっている。
ヨーロッパの多くの物語で。キュクロプスは、愚かで・人喰いで・片目である。時に、心やさしい個体がいても。人々から誤解され、憎まれている。
ヘシオドスによると。巨人族(ギガンテス)は、天(ウラノス)と大地(ガイア)の子孫である。ウラノスは神々の始祖だ。
つまり、巨人はほぼ神なのだ。
なのになぜ。暗愚だとか暴力的だとか、言われているのか。
ギガントマキアは、神々と巨人族による、宇宙の支配をめぐる大戦だ。ヘラクレスが助力したのもあり、神々チームが勝利した。
巨人族は敗け、山の下に埋もれた。地震や火山噴火は、彼らがひき起こしているのだと。
なるほどね。
ヘレニズム(ギリシャ主義)が野蛮に勝利する、善が悪に勝利することの象徴なんだな。ヒーローがヒーローになるには、敵が、しかも強大な敵が必要かーー。
ひどい天災があっても「アイツらのせい」にできる。 不安や不満の矛先が、「巨人」。統治する側からしたら、こんな楽なことない。
『進撃の巨人』初代OPの歌詞は、なかなか今回の内容にあう。
架せられた不条理は進撃の嚆矢だ。イエーガー炎のように熱く。世界を望むエレン。
支配にはいろいろな形がある。なにも、わかりやすく壁の内側に閉じこめておかなくとも。利用方法はさまざまにある。
古代人がキュクロプスのような架空の生物を創造したきっかけは、何だったのか。
島嶼矮化したゾウ。
かつて、地中海の島々に生息していた。古代ギリシャ人が、その骨だけを見た(もう絶滅していたため)。
ゾウの頭蓋骨は、単眼の生物を起草するような形をしている。牙の欠損した標本ならば、なおさらだ。
これが何であるか仮説を立てた結果、額の中央に単眼をもつ巨人が「誕生」した。この可能性があると。
この画像のようなイメージ、『オデュッセイア』のイメージとは、かなり異なるが。
キュクロプスは、熟練の鍛治技術をもつともされている。
ゼウスの雷霆・ポセイドンの三叉槍・ハデスの兜は、キュクロプスからのおくりものであると。
金属工学/冶金学の関連分野:精錬、物理化学、電気化学、金属組織学、鋳造工学、溶接工学。
以下、「日本遺産ポータルサイト」より引用。
〜日本古来の鉄づくり「たたら製鉄」で繁栄した出雲の地では、今日もなお、世界で唯一たたら製鉄の炎が燃え続けている。
たたら製鉄は、優れた鉄の生産だけでなく、原料砂鉄の採取跡地を広大な稲田に再生し、燃料の木炭山林を永続的に循環利用している。人と自然とが共生する持続可能な産業として、日本社会を支えてきた。
この地では今も、神代の時代から先人たちが刻んできた鉄づくり千年の物語が、終わることなく紡がれている。〜
鉄ひとつ得るために山ひとつつぶさないで、できているんだね。sustainable だね。
自然界で言うところの「弱肉強食」の「弱」を、劣った属性ととらえてしまうことは、先入観でしかない。
競争は協力でもあるからだ。いただいた命を無駄にしないことはできるからだ。
樹木のような角が生えた動物。サルのような赤い顔には、青いフェイス・ペインティングのようなもの(ヒトの参加)が。ネコのような目・ヤギのような耳・カモシカのような体毛・イヌのような尾。トリのような脚の先には、3つの蹄が。
無数の生命のバリエーションをもつシシガミは、夜更けには、デイダラボッチに変身する。
天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)。日本神話に登場する、製鉄と鍛冶の神である。
アマノメと読むかと思った。違った。目一箇(マヒトツ)が神名だそう。単眼ではなく片目の意味。
鍛冶が鉄の色でその温度をみる時、片目をつぶっていたことから。また、鍛冶の職業病に失明というのがあったことから。
ギリシャ神話の専門家は、キュクロプスと冶金(やきん)の間に、次のような関連性を指摘している。
「キュクロプス」とは、初期の青銅(ブロンズ)細工師のギルドだったのではないか。
彼らは、火の源であるとして太陽に敬意を表し、額に円状の入れ墨を入れていた。また、火花が飛び散る中、片目を眼帯でおおっていた。
古い時代のギリシャ人は、ミケーネやティリンスやアルゴスの巨大な壁は、原始のキュクロプスが建設したと信じていた。
こんな石壁が人間によってつくられたとは、とうてい思えないなど。理解しがたいことを説明する時も、巨人族はひきあいに出されていたようだ。
ヘシオドスは、サイクロプスは「非常に激しい心」をもっていると描写した。
理性が欠如しているため、混沌とした力に左右されてしまうというのは、ギリシャ神話の空想上の生物の典型だ。例)ケンタウロスなど
無法者の象徴なのだ。
『オデュッセイア』でも、キュクロプスの文明の欠如が強調されている。彼らには、法律もなければ会議もないと。
社会をもたず孤立して暮らすキュクロプスには、共同体意識がないーー。古代ギリシャ人は、文明化している自分たちと比べ、彼らを忌まわしい存在だとした。
プラトンの『法律』(たぶん2巻か3巻)でも。キュクロプスが、共同体内の最も劣った例として、とりあげられているくらいだ。
このネタひっぱるね〜。
今まで、単眼単眼と書いてきたが。
3つの目をもっているという考え方もあるのだ。2つの目は、閉じているか、何らかの理由で失われているのだと。
高次元的存在としての、キュクロプス。
これから書くキュクロプスの象徴の1つを理解するカギは、この第3の目という考え方にある。
愚か者や田舎者とされるキュクロプスだが。
彼らの愚かさとは、「平均的な愚か者」がもつ愚かさとはかけ離れた、愚かさなのではないか。
私今、愚かって5回書いたけど笑。
キュクロプスの注意が一次元的で深みを欠いているということは、罪ではないかもしれないという話がしたい。狭い視野だからこそ関われる、特定の次元の話がしたい。
キュクロプスは、俗世の生活の事実や価値観から切り離されている。彼らはパターン的な思考を超越している、と言いかえることもできるのではないだろうか。
ヘカトンケイルは、キュクロプスの対極として機能する。
ギリシャ神話に登場する、別の巨人だ。名前の意味は百の手。
キュクロプス:1つの精神的な目。ヘカトンケイル:100個の肉体的な目。
極端に過剰な手・頭・目。ヘカトンケイルは、考えようによっては、キュクロプス以上に「標準」から逸脱しているし。知的な不安をかき立てるキュクロプスよりも、全体的に怪物的であるかもしれない。
以下、誰かを不快にさせる言葉づかいになるかも。あえて、書きたいのだ。ごめん。
数が多すぎると、個別に対応していられない。議論なんて以ての外。
理性的に説得するのではなく、飼いならす必要がある。ていねいに教育して行動させるのではなく、コマンドを出して列や群をなさせる必要がある。
たとえミカタであろうとも、コントロールするのが難しい。一度に百発の攻撃を繰り出すことができるが、百通りの方向に飛び火してしまうため、激しい混乱を引き起こす。
キュクロプスは、ガイアと深いつながりがある。
キュクロプスは、素晴らしい職人である。無形から有形を生み出すことができる。
キュクロプスは、地上に天国を築こうとする。現代まで建築物の名残がある。
キュクロプスは、傲慢な青写真を描くひたむきで妥協のない活動家だ。
キュクロプスは、ユートピア主義の大義たゆまぬ夢追人だ。
ちなみに、ラストのはキリストね。定義によっては、空想的社会主義者に加えることができる。私もこれなんだよ。リベラル・アーツを経た左寄中道だと言っておけば、無難だけれど。実はこうだからね。つまり、私は、これを我々の超越や最上位形態だと考えているわけ。
彼らの願いは、我々の夢は、叶うだろうか。
キュクロプスには2つの側面がある。
独特の方法で、繁栄するか/罪を犯すか。
私が思うに。キュクロプスが成功するポイントはパターンだ。矛盾する事実が無数におし寄せてきても維持され続ける、コアである。
失敗するキュクロプスは、特定の事実または価値がパターンにうまく適合しない場合、不可侵のパターンに何らかの形で適合するようにと、再解釈してしまうだろう。焦って。
何か他のことが起こっていると気づいても、ほうっておくこと。他の説明があるに違いないと、探しはじめてしまわないこと。科学や哲学に無知であっても、かまわない。その物語(神話)が、たとえいかに不完全であったとしても、静かに維持すること。
意図的に、「盲目的」にもなるのだ。それは、言いかえれば、信念にもとづく自己の創造なのだから。自分の天地なら自分で創造でき得る。
私たちの2つの肉体的な目は、知識と価値を渇望する。永遠に落ち着きがないとも言える。
あらゆる信じる心は、科学の荒海をも自由に泳ぎ、哲学の嵐の中でも安眠する。
第3の目は、急ごしらえで開くべきものではないし、誰かに無理やり開かされるべきものでもない。
そんなことをすれば、2つの目の視力さえ衰えてしまう。そんな状態は本当に怪物的だろう。
右目であるアダムは、左目であるイヴを見つめる。左目であるイヴは、右目であるアダムを見つめ返す。
神との三位一体から切り離され、彼と彼女は、多様な二元性に堕ちた。
右目(左目)が左目(右目)をえぐり出し、さまよう片目の怪物になった。
悲しいね。
何をもってきて〆ることもできるが……。ルドンではじめたので、ルドンで終わらせてみる。
ルドンは、モネと同じ年に生まれたが。印象派やその他の流派とも、一線を画した画家だった。
ある植物学者との出会いは、彼に、顕微鏡下の微小な命への興味をもたらした。ある放浪画家との出会いは、彼に、独自の幻想世界をつくり出す姿勢をもたらした。
ルドンの、目のモチーフは、不可視なる世界を模索する自身のまなざしを象徴しているのだ。同時に、別の世界から我々の世界へ向けられる視線でもあるという。
この人は花に囲まれている?花はこの人から生えている?これは現実?それとも幻想?
彼女が2つの目を閉じていることを考えると、代わりに第3の目が開いているのかもしれない。これは、彼女の精神世界かもしれないね。