見出し画像

本能寺の変1582 第69話 11光秀の年齢 2柴田勝家と滝川一益 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第69話 11光秀の年齢 2柴田勝家と滝川一益 

はじめに ←目次 ←前回 第68話 

光秀は、現役の戦国武将。

 光秀は、第一線に立つ指揮官である。
 大軍勢を率いた。
 長期の遠征。
 長期の戦い。
 激戦の日々。
 包囲・攻撃・追撃・掃討、等々。
 野陣・長陣、風雨・降雪の日もあっただろう。
 食糧事情・衛生問題、等々。
 正に、体力勝負。
 戦い以外で、死亡する者たちも多くいたものと思う。
 過酷な任務だった。

 天正四年(1576)。
 石山本願寺との戦い。
 自身、陣中で大病を発症した。
 暫し、死の淵を彷徨。
 辛うじて、蘇生した。
 その様なことも、あった。

光秀の遠征戦。

 以下、主な遠征を簡略に示す。
  
  天正三年(1575)八月~九月  越前一揆殲滅戦。
  天正三年(1575)九月     丹波・丹後攻略作戦、始まる。        
  天正四年(1576)四月~五月  石山本願寺を攻める。
  天正五年(1577)二月~三月  紀伊雑賀攻め。
    〃   〃  八月     松永久秀、謀叛。   
    〃   〃  九月~十月  信貴山城を攻める。
  天正六年(1578)五月~六月  秀吉支援のため播磨へ出兵。     
    〃   〃  十月     荒木村重、謀叛。
  天正七年(1579)十月     丹波・丹後攻略、成る。
    〃   〃  十一月    有岡城、開城。

光秀の甲斐遠征。

 天正十年1582、三月~四月。

 ルートは、次の通りである。

   近江→美濃→信濃→甲斐→駿河→遠江→三河→尾張→美濃→近江

 安土を起点として、総延長は、平面で、ザックリと計算して、
 約700㎞。
 これでも、相当、長い距離である。
   
 しかし、実際は、そのほとんどが、険難な山中の道。
 山あり、谷あり、峠あり、曲がりくねった道。
 アップダウンの激しい道だったであろう。
 越すに越されぬ大河もあった。
 天候の問題等々。
 厳しい行軍だったものと思う。

 これを立体的かつ詳細に計算すれば、1000㎞近くになる
 のではなかろうか。

 昔の人は、健脚だった。
 しかし、若者ならばいざ知らず。
 果たして、老人に、この様なことが可能なのだろうか。
 難しいと思う。
 如何、だろうか。

光秀は、老人ではない。

 遠征は、過酷な軍旅。
 肉体的負担が大きい。
 光秀にとっても、それは同じ。
 甲斐遠征のように、長期間となれば、なおさらである。

 光秀には、それが出来た。
 ということは、まだ老人ではない。

しかし、着実に、それに近づいていた。

 おそらく、これまでにない、疲労を感じていたのではないか。

中国攻めは、既定の作戦だった。

 信長は、毛利の出方を待っていた。
 信長は、来秋を予定していた。
 光秀は、そのつもりでいた。

 これらについては、後述する。

光秀には、気力・体力・行動力があった。

 中国攻めは、光秀が、これまでに経験したことのない、
 大規模な長期大遠征となる。
 「天下布武」の総仕上げ。
 織田家の総力を結集した戦いであった。

 老人には、相応しからぬ役目。
 出来ぬことである。

 光秀には、それを遂行し得る、気力・体力・行動力があった。
 その様な年頃だった。
 
 ならば、「老人」とは、・・・・・。 


 ⇒ 次へつづく 第70話 11光秀の年齢 2柴田勝家と滝川一益 


この記事が参加している募集

テレビドラマ感想文

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?