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小説

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短編/中編小説をまとめました。。長くないのでサッと読めます。
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#秋

プール・サイド・ストーリー 3

プール・サイド・ストーリー 3

 起きがけの明瞭としない意識。乾燥した空気で喉が痛むために、少し小窓を開けようかとも思った。しかし、とある匂いがふと鼻をついたものだから、僕はそれをやめて、ふたたび布団のなかへと迷い込むことを決めたのだった。
 ──この部屋いっぱいに金木犀が薫る初秋、深々とした山系の落葉樹は、紅葉に至るまでの準備を終わらせてしまったに違いない。昔からこの空気感が嫌いであった僕は、さらに部屋中を侵すであろう秋の気配

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隣人は、なお愛しく

 ベランダで一人、夜風に当たっていると、隣の部屋より聴こえるは若き男女の言い争いだ。ああでもない。こうでもない。折り合う地点も分からない。その若さ故に、妥協は出来ない。ともすれば......。ほら、勢いよく開いたドアの音の後ろで、か弱い足音がぱたぱたと。赤の他人の痴話喧嘩、秋の風にはよくよく溶け込む。

 
 ベランダで洗濯物を干していると、隣の部屋より聴こえるは、若き男女のしおらしい声だ。俺が悪

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螺旋階段の夜

螺旋階段の夜

 このような真夜中に考えつく文章は、如何に浅はかで展開を広げる余地もなく、ただ外の夜に浮かぶ月だか街灯だかに吸い込まれて行く運命にある。散り散りとなった思考を纏めたいのであれば、今にも閉じそうな瞼に力を入れる必要など無いものを、私はまた意固地になって何を表現しようと言うのだ。
──あの螺旋階段は、今もなお建っているか。貧弱な睡眠欲を奪い去ったのは、こんな考えから来る好奇心だった。あの螺旋階段、等と

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収穫祭は遠くとも

収穫祭は遠くとも

 例えば、この秋の冷気が身体に触れたとき、ふいに自らの郷を想ってしまう我が心を、一体だれが責めるというのだろう。窓越しに見えるのはいつしかの紅葉でも、隣に住む幼馴染みの姿でも、畑を耕す叔父の背中でもない。ただ、無機質な建屋が息をせず群れる都市にあって、人混みの中で無数に吐かれた溜息が象徴する、深淵の街「東京」。天候が安定しないのは、皆がやるせない呼吸をするからだ、という叔母のよく分からない冗談を以

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そして、風となる

 八月を過ぎた頃からどうも彼女の歩みは回復傾向にあるように思えた。普段であれば校門を抜けたあたり、スロープの手摺りにまるで齧りつくような執念を以て一歩一歩着実に足を踏み出す彼女だったが、この秋の肌寒い空気においては、その頼りない右脚も引き締まるらしい。歪なリズムを生みながら真っ直ぐ校舎へ進んでいく姿を見て、どこか残念に感じてしまう自らの心は、不謹慎と言われても仕方がなかった。「僕の肩なしでも、教室

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大背徳時代

大背徳時代

 兄の義之とは、長らく疎遠であった。彼が兼ねてより心の拠り所としていた相馬先生の娘、雪子との交際を終えた後、私がその可憐な少女をもてあそぶが如くの扱いをしたことも、原因の一つだと思う。
 決して名前負けをしていないあの色白の肌、声を噛み殺していながら、時折耳に触れる生暖かい吐息、振動に合わせて感じる背中に立てられた爪の痛み......男の独占欲とはいつの世も争いの源となり得るが、それを以てでしか彼

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ベースボール

ベースボール

 生まれつき右手の指を、上手く開けない男。僕の兄は、自らの特徴を説明する際、必ずこの言葉を用いた。誰かを妬む訳もない、また自嘲する訳でもなく語る彼の表情は、ユニフォームのストライプと同様、白い柔らかさと闇の顔が同居しているような、なんとも歪な印象を人に与えたものだった。

 僕がまだ小学生の頃だろうか。嬉しそうにグラブを選ぶ兄と母の姿、そんな光景をつまらなく感じた記憶がある。兄は余程のことがない限

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秋風大学生日記

秋風大学生日記

 誰が言ったか、冷めの秋風。付き合う男女の仲は秋雨。九月に至ってもこの身を冷やさぬ周囲の風は、だだっ広いキャンパスの熱風をかき混ぜた後、私の心の隙間を苦もなく通過、散々弄んだ挙句、暖められているのは身体のみ──先輩と私の関係性を、物語っている様に思う。

 先輩から、秋風についての小話を教わった。秋の字を『飽き』と掛け『飽き風』、つまり、男女の仲が離れやすいのが、この季節なのだ。それには三つの解釈

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さらば、名も無き群青たち(3)

さらば、名も無き群青たち(3)

 まばらな人混みを縫う様にして歩けば、自分は良くも悪くも、世の流れに上手く乗っているのだという風に思う。或いは、ただ目に見える何かしらに乗せられているだけなのだろうか。
 近鉄奈良から商店街を抜け、三条通りを西に行けば、週に一度通っていた蕎麦屋がある。
駅の周辺は、奈良公園の秋めく草木や東大寺、興福寺、国立博物館への観光客がいる他、キャリーバッグを引く欧米人の団体が三条通りを更に南下すれば、荒池の

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さらば、名も無き群青たち(2)

さらば、名も無き群青たち(2)

 周囲が急に慌ただしくなり、下宿先の窓から迷い込んで来た蚊でさえも、自らの先々に待ち受ける事柄についてを悩んでいる様に見えた。
行く先も、帰る先も分からぬままに止まっては首を傾げ、飛んでは首を傾げ。それは世間が秋を迎える準備が整った事を、見て見ぬ振りした軟弱な精神に由来する行動だった。
つまり、我々は同類である。

 八月のカレンダーを捲る僕の寂しい背中を余所に、珍しく地に足を付け、夏を謳歌してい

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オールドタイマー(後編)

オールドタイマー(後編)

 私が思考を止める間、彼が口を噤む間も、時計は刻々とその針を進めていた。あの叔父の姿からは、想像も出来ぬ乱暴な文章。その余所者が奮った暴力の先は、この辺鄙な片田舎だったと言う訳だ。
恐る恐る背後を振り返れば、河原に立つ者の姿は消えていた。何処かへ行ってしまったらしい。恐怖の対象が視界からなくなると同時に、強い憤りを感じた。
「余所者に対してあんな態度だ。叔父の気持ちも分かる」
私は強張った顔で、ア

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散りゆく光の雨

散りゆく光の雨

 十月になっても頭上には、相変わらずの月が浮かんでいた。背後の手水舎と鳥居に続く石段を黄金色に染めて。それでも私が身を疎ませるのは、拝殿の影に潜む鈴虫かコオロギが、そんな情景に感嘆の声を上げたからである。耳障りであるから、足元にあった石の欠片を参道に這うようにして放れば、ひとたび響いた乾いた音で、その感傷的な輩は口を閉ざした。
神無月とはいうが、自らの寝床から見えるその光景をふいにしたとしても、こ

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