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昭和であった17 〜ご馳走様!夕食編 1 〜
さて、いよいよ昭和の時代の我が家のメインディッシュの話…
夕食のシェフはもちろん母である。
母のことをもう少し詳しく説明しておこう。
商家の長女として蝶よ花よと家事一切を手伝うこともなく甘やかされて我儘放題に育ち、母親(私の祖母)は店を守るに忙しく、父親は放蕩の挙句母が子供の内に早逝。
その為父と結婚した時には米を炊く方法も知らなかった…
戦災で実家の店は消失し、肝心の後ろ盾も失ってしまう。
ま
アナログ派の愉しみ/映画◎ウィリアム・ワイラー監督『ベン・ハー』
分断と復讐の
果てにあるものは
アメリカの建国以来の歴史において南北戦争(1861~65年)が特別重大なできごとだったのは、約62万人という戦死者数がのちの第一次・第二次世界大戦での合計を上まわっていることだけからも明らかだろう。この未曾有の内戦はまた、ハリウッド映画史に屹立するふたつのスペクタクル大作を生みだした。ひとつは『風と共に去りぬ』で、マーガレット・ミッチェルが1936年に発表した小説を
昭和であった15 〜ご馳走様!朝食編 〜
我が家は典型的な昭和のサラリーマン家庭である。
だが、振り返ってみるとその食生活は当時としては比較的贅沢で、同じ社宅の家庭とは少し異なっていたと思う。
それは父親の生い立ちに関わっている。
父は我々と違って恐ろしく育ちが良い。
戦前の財閥、男爵家の長男だった。
それが、徴兵で南方戦線に送られ、離れ小島に取り残され、食うや食わずの餓死寸前の状況を潜り抜けてきた。
戦後復員してみると、財閥解体で資産は
祖母の話⑤祖母と戦争
今日は避けては通れない運命が変わってしまった戦争の話をしたいと思います。
戦火が酷くなって、祖父を残し、祖母は子供三人を連れて日本に帰ってきます。
東京にも戻れず、大分の祖母の実家に戻ったようですが、実家には入れてもらえず、
それで、駆け落ちだったな!と思ったのですが、同じ町の海のすぐ側の家を借りて住んだそうです。
凄くボロい家だったとかで、台風が来た時、海側のベランダが全部流されて無くなった事
祖母の話④家族で中国へ
昭和15年、父が小学3年生頃、祖父は起業し、一家で中国に行きました。
『天津』と『北京』だそうです。
『天津』での事はあまり聞いていませんでしたが、『北京』での生活は祖母にとって、かなり衝撃的だったようです。
まだその頃は「てん足」の女性がいて、服装も上級、中級、下流と区別しており、お手伝いさんと出掛けなくては怖くて出られなかったそうです。
また、衛生管理が行き届いて無いところも多く、街角に壺が
1941(昭和16)年発行の講談社の絵本「ヒットラー」を読むーなるほど、プロパガンダとはこういうものかと学ぶ
日本の実質的な植民地、傀儡国家の満州国建国を巡って世界の孤児となり、独自の帝国主義路線を走る日本にとって、同じように英、仏への復讐心をたぎらせ、国際連盟も脱退したヒットラー率いるドイツとの連携は、間に挟むソ連を東西から牽制するのにはちょうど都合がよく、1936(昭和11)年11月には日独防共協定を結びます。天皇制のピラミッド型支配を維持したい日本にとって、臣民が共産主義に触れて体制の変革を望むの
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