信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)

「戦争の回避」を目的に、戦時資料を収集、発信する長野県の有志です。政治的思想的団体とは…

信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)

「戦争の回避」を目的に、戦時資料を収集、発信する長野県の有志です。政治的思想的団体とは無縁。戦時下の長野県を中心に庶民生活に関連する「モノ」を代表が収集し、将来を歩む為の判断材料として発信していきます。連絡はXのDMで。https://twitter.com/himakane1

マガジン

  • <戦時下の一品>ー逸品?珍品?皆さんでご判断を

    収蔵品の中から、特別に紹介したい収蔵品を「戦時下の一品」として紹介していきます。過去のnoteに取り上げたものでも、あらためて「一品」に絞って紹介させていただいたり、分からないことが多いけどお見せしたいーといったものも取り上げていきます。戦時の雰囲気を何か感じていただければ幸いです。

  • 長野県の戦争の跡を行く

    長野県内のあちこちに、既に80年を過ぎようとしている大日本帝国の戦争の時代の痕跡が残っています。そんな歴史を伝える場所やモノを訪ねて紹介していきます。

  • 信州戦争資料センター展示会集成

    信州戦争資料センターは、およそ5,000点の戦時下実物収蔵品を生かすため、毎年テーマを定めて、それに沿った資料を選りすぐって展示しています。近年は長野県内だけでなく、遠くは北海道や四国からもおいでいただけるようになりました。そんな展示会のスタートからの記録です。ぜひ、お運びください。

  • 信州戦争資料センター 中の人の思うこと、やってきたこと

    信州戦争資料センターは戦時体制下にあった日本の姿を、所蔵資料で公開し、見ていただいた方に後はおまかせするのが基本ですが、世の中の動きに黙っていられないときもあります。そんな、通常の枠にはまらない中の人の言葉や来し方のnoteをまとめました。できるだけ柔らかく伝えたいと思っています。

  • 戦時体制下の教育

    徴兵制を敷き、帝国主義陣営として外征の連続となる明治からの日本では、教育も天皇を軸とした「神の国」と教えられ、わけのわからない「教育勅語」を覚えさせられ、有無を言わさず軍事教練と、精神面から肉体面から「戦争」前提だった、それが戦時体制下の「教育の柱」でした。

最近の記事

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信州戦争資料センターの生い立ち

 「信州戦争資料センター」と名乗ってはいますが、残念ながら展示施設はありませんし、事務所があるわけでもなく、ただ「戦争を回避し続ける」という一点で集まった長野県の有志数人がいるだけです。ただ、名称だけは分かりやすく、将来、何かの奇跡で「施設」「団体」ができる時に使えたらいいなと、2015年の初めての展示会に合わせて付けました。気の合った有志で「今年は何をしようか」と相談しながら手弁当の活動を続けています。  あれは、代表がたまたま戦時下を知る方と雑談しつつ、戦争体験を聞ける

    • 戦時の怖さは前線で行われることだけでなく、後押しする感覚の麻痺こそ真の怖さではないでしょうか。

       1937(昭和12)年7月の日中戦争開戦間もない同年11月13日の信濃毎日新聞は、戦地から家族に届いた手紙の内容を紹介する記事に「首斬り免許皆伝 流石名刀も鋸の歯」「敵七名の首をチョン切る 椎名曹長の武勇伝」との見出しをつけます。  記事を読むと、下伊那郡から出征中の松本歩兵第50連隊の曹長が、妻の実家に手紙が届いて、それを記者が「明朗豪快な戦地通信」と紹介。以下は手紙の内容で、10月30日に書いたものだが、戦友の死はあったものの、自分はかすり傷一つないと。そして「敵兵及

      • <戦時下の一品> チョキンアソビ

         こちら、おそらく日中戦争当時に作られたとみられる玩具「チョキンアソビ」です。これでそろっているかどうかは不明ですが、ふつうならこうしたおもちゃのお金を使ってやるのは「買い物ごっこ」とかだと思うのですが、誰が何と言おうと、これは「チョキンアソビ」なのです!  まず、このおもちゃの表題、郵便局の絵があり、少女はパンパンの「貯金袋」を持っています。もしかすると、郵便局が販促、というか貯金促進のためにつくったノベルティーグッズかもしれません。  お金はすべてお札で「少国民銀行」

        • 戦時遺物の由来求めてー長野県主催歩兵第五十連隊歓迎会の杯から分かったこと

           1905(明治38)年3月に仙台で編成された歩兵第50連隊は日露戦争に投入され、樺太の占領をしたのが初陣となっています。しかし、このころはまだ、正式な駐屯地が決まっていませんでした。そこで当時の長野県松本市の小里市長が広大な土地の提供と建設費寄付などを申し出て誘致に成功、兵舎も完成し移駐したのは1908(明治41)年11月のこと、というのは別記事でも紹介させていただきました。長野県の部隊ですので、関連品をあさっていたところ、こんなきれいな杯が出てきました。  杯には「長野

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          2本
        • 信州戦争資料センター展示会集成
          10本
        • 信州戦争資料センター 中の人の思うこと、やってきたこと
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        • 戦時体制下の教育
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        記事

          戦時下、金属供出させられた善光寺の六地蔵と残された濡れ仏ーその存在が戦争遺跡に

           長野駅から善光寺まで、門前の直線の通りを歩いていくと巨大な仁王門、そして賑やかな仲見世を通って山門をくぐって境内に入ると、右手奥で参拝者を出迎えるのが表題写真の六地蔵と、表題写真の一番奥、下写真の延命地蔵菩薩像座像、通称「濡れ仏」です。説明によると、1722年に完成したものということで、巡礼者の供養のため、法誉円信が広く施主を募って造立したものだそうです。  六地蔵は、もともと、1759年に江戸は浅草の信者が願主となって建立して以来、子育て地蔵と呼ばれて親しまれていました

          戦時下、金属供出させられた善光寺の六地蔵と残された濡れ仏ーその存在が戦争遺跡に

          木曽町に残る赤黒迷彩の土蔵ーなぜ赤と黒か

           表題写真と下写真は以前、長野県木曽町に行って撮影してきた、戦時中に迷彩をほどこしたという土蔵です。写真の解像度が低いのは申し訳ないですが、いずれ撮り直しに行きたいと思って居ます。  太平洋戦争も末期になり、日本への空襲の危機が叫ばれるようになると、土蔵の白壁が夜目に目立つとして、すすなどを塗って迷彩することが盛んに行なわれました。たいていは、白壁の上にすすで黒く塗ったものですが、木曽町の土蔵はなんと、黒と赤の迷彩です。まず見たことがありませんし、迷彩効果からいっても(もち

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          少女雑誌も、乙女に軍国主義を沁みとおらせる付録で迎合

           大日本雄弁会講談社が発行していた「少女倶楽部」の日中戦争当時の付録をいくつか収集しました。まずは、時期がわりあい分かる、「漢口陥落記念絵葉書」です。  漢口は、武昌、漢陽と合わせて武漢三鎮といわれ、首都南京を脱出した蒋介石が臨時政府を置いた場所です。漢口陥落が1938(昭和13)年10月27日ですので、それから間もなくのもの。宛名側に「少女倶楽部賞」とあるので、付録というより懸賞賞品だったのでしょう。  一方、蒋介石は重慶にあらためて政府を移転、徹底抗戦の姿勢を示してい

          少女雑誌も、乙女に軍国主義を沁みとおらせる付録で迎合

          <戦時下の一品> 国策栄養食製器

           こちらの品は、本体、箱、レシピ集の栞(演説付き)をまとめて入手いたしました。製造年は特に記載されていませんが「節米報国」(出ました!報国!)「新東亜建設の大理想」といった言葉がレシピ集の説明文に出てきますので、日中戦争がなかなか終わらず、新東亜建設という言葉が出てきた1939(昭和14)年から、節米が特に叫ばれた1940(昭和15)年ころのものとみられます。おそらく、1940年ごろの米不作に合わせたものでしょう。  お気づきになられたと思いますが、箱は「国策栄養食製器」、

          <戦時下の一品> 国策栄養食製器

          国家総動員法と緊急事態条項の類似性を見ておくのも良いでしょう

           1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件を端緒に始まった日中戦争(当初は北支事変、間もなく支那事変と呼ばれるが、実質的には戦争そのものであり、敗戦まで通して日中戦争と呼ぶ)は、「三カ月、長くとも1年」で終わるようなものではないことがはっきりしてくる中、近衛文麿内閣は「国家総動員法案をまとめます。これは、国家の総力を挙げて日中戦争に集中させる狙いでした。第一次世界大戦で示された国家総力戦のための法律が必要というのが発端です。  法案は53条からなり、第一条で「国家総動員」

          国家総動員法と緊急事態条項の類似性を見ておくのも良いでしょう

          <戦時下の一品> 勤労報国うちわ

           先日、さまざまな商店の軍の御威光を利用するようなうちわを紹介しましたが、これはまさに、家庭の台所で、商店で、火や熱いものを日常に使う場所で使われるタイプのうちわです。  時期的には、日中戦争の初期ごろかと思いますが、確定はできません。竹の骨、和紙、縁もきちんと処理。そして全体に渋がペラっと塗ってあります。風化したのか、これがスタンダードなのかは分かりません。なんとなく、渋を節約したような雰囲気はいたします。  無地のうちわに「勤労報国」とあるだけ。まさに、職場で使うには

          <戦時下の一品> 勤労報国うちわ

          1945年の大日本帝国は、臣民すべて戦力化に心血を注いでいました

           表題写真「家庭軍事講座ー竹槍の訓練」は、特別な本に載った記事ではありません。情報局が国や軍の方針を分かりやすく写真中心に伝えてきた「写真週報」の1945(昭和20)年6月21日発行、第373号に掲載された記事です。  表紙は「儼たり本土要塞」とあり、次は本土での戦闘が不可避という雰囲気が浮かびます。要塞といっても、丸太の入り口が心もとないですが。この号の最後のページに「家庭軍事講座」が載っていましたが、不定期連載のこの講座、最初は小銃の扱い方、次に手榴弾について、その次が

          1945年の大日本帝国は、臣民すべて戦力化に心血を注いでいました

          <戦時下の一品> 御下賜繃帯

           「御賜のタバコ」は、戦場で功労のあった兵士らに配られて割合よく知られています。こちらは「御下賜繃帯」で、立派な木箱に包帯が油紙に包まれ収納されています。  現在でも十分に使用に堪えそうです。経緯などは不明ですが、基本的には傷痍軍人に送られたものです。「御賜のたばこ」が天皇からの賜り物とすれば、御下賜包帯は皇后にできる限られた行為の一つだったでしょう。  ネットで調べた範囲ですが、起源は1895(明治28)年、日清戦争当時、時の皇后が日本赤十字社にみづからや女官で作った包

          <戦時下の一品> 御下賜繃帯

          2024年も展示会「戦争だ! 女、子供も!ついでにビールも!展」開きます

           2024年も8月13日から8月18日まで6日間、JR長野駅から歩いて10分ほどの好立地、長野市のギャラリー82で恒例の展示会を開きます。今回で8回目、新型コロナ下での2年のお休みを入れると、今年は展示を始めて10年の節目となります。お盆の時期に重なっていいやら悪いやら分かりませんが、都合の付かれる方はぜひお越し下さい。  今回は「戦争だ! 女、子供も! ついでにビールも! 展」と題して行います。戦争となると、使われるのは大人の男だけではありません。女性も、学生も、子どもも

          2024年も展示会「戦争だ! 女、子供も!ついでにビールも!展」開きます

          五・一五事件ー言論、社会のルールが暴力でつぶされたのに、庶民が喝采を送ったこと、それを利用されたことこそ重要

           2024年からみて92年前の、1932(昭和7)年5月15日に発生した「五・一五事件」。海軍将校と陸軍士官学校生、それに農民らが首相官邸などを襲撃し、犬飼毅首相を殺害します。ちょうどそのころは満州国をめぐって国際連盟のリットン調査団が日本や中国、満州で調査を進めているころで、犬飼首相もこれに会って日本の立場を説明していました。  一方、当時の社会情勢は内務省の全国調査によると、賃金や強制貯金の不払いがあった工場や鉱山が838にも上る不景気下にありました。その対策に加え、満州

          五・一五事件ー言論、社会のルールが暴力でつぶされたのに、庶民が喝采を送ったこと、それを利用されたことこそ重要

          <戦時下の一品> 黒い牛乳瓶

           本来、透明な牛乳瓶が、透明なガラスをつくる材料不足から、さまざまな色のガラスくずで作られた、黒い牛乳瓶が太平洋戦争末期には登場しています。  実際に牛乳を入れるのは気が引けたので、白い紙を入れてみました。  牛乳瓶が透明のものになったのは、腐敗事件などをきっかけに1927(昭和2)年「牛乳営業取締規則」が改正され翌年から施行されたことに始まります。殺菌の義務付け、着色瓶の禁止、無色透明の広口瓶で紙栓をすることとされました。そして牛乳を飲む習慣も、1935(昭和10)年前

          <戦時下の一品> 黒い牛乳瓶

          満州事変勃発以来、世界の批難を浴びつつこの傲慢な態度。今のどこかと似てないか

           表題写真は、発行者は不明ですが、国際連盟がリットン報告書の審議を受けて採否を決める総会直前の1933(昭和8)年2月7日、日比谷公園にて行われた「国民緊急大会」の様子です。「連盟何者ぞ」という、傲慢な雰囲気、日本の当然の権利を取り上げようとしているという思考に陥った大日本帝国の姿でした。  下写真は、不戦条約の締結、効力発生を伝える1929(昭和4)年7月25日発行の東京日日新聞夕刊で、幣原喜重郎外相の祝電も載っています。領土拡大のための戦争を否定し、戦争当事国への物資供

          満州事変勃発以来、世界の批難を浴びつつこの傲慢な態度。今のどこかと似てないか