信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)

「戦争の回避」を目的に、戦時資料を収集、発信する長野県の有志です。政治的思想的団体とは…

信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)

「戦争の回避」を目的に、戦時資料を収集、発信する長野県の有志です。政治的思想的団体とは無縁。戦時下の長野県を中心に庶民生活に関連する「モノ」を代表が収集し、将来を歩む為の判断材料として発信していきます。連絡はXのDMで。https://twitter.com/himakane1

マガジン

  • 信州戦争資料センター展示会集成

    信州戦争資料センターは、およそ5,000点の戦時下実物収蔵品を生かすため、毎年テーマを定めて、それに沿った資料を選りすぐって展示しています。近年は長野県内だけでなく、遠くは北海道や四国からもおいでいただけるようになりました。そんな展示会のスタートからの記録です。ぜひ、お運びください。

  • <戦時下の一品>ー逸品?珍品?皆さんでご判断を

    収蔵品の中から、特別に紹介したい収蔵品を「戦時下の一品」として紹介していきます。過去のnoteに取り上げたものでも、あらためて「一品」に絞って紹介させていただいたり、分からないことが多いけどお見せしたいーといったものも取り上げていきます。戦時の雰囲気を何か感じていただければ幸いです。

  • 長野県出身の軍人たちー歴史の一コマとともに

    長野県出身の軍人も、全国各地と同様、多くの方がおられます。その中から、歴史の一コマとつながる場面で登場した方、さまざまな記録に登場される方、いろんな角度で紹介させていただきつつ、戦争の理不尽を訴えていきます。

  • 防空演習で戦時体制強化も、空襲被害は壮絶

    1928(昭和3)年に初めての防空演習が行われて以来、人々に戦時体制をいやでも植え付ける狙いから防空演習が頻繁に行われます。が、日本の防空対策は人が待機して消化させるというのが基本。民間人に防空を背負わせた結果、大きな被害が出ますが、戦後の裁判では「享受しうる範囲の被害」とされて放置されています。戦前の、国を守るとはどういうことかが如実に現在にも受け継がれています。

  • 信州戦争資料センター 中の人の思うこと、やってきたこと

    信州戦争資料センターは戦時体制下にあった日本の姿を、所蔵資料で公開し、見ていただいた方に後はおまかせするのが基本ですが、世の中の動きに黙っていられないときもあります。そんな、通常の枠にはまらない中の人の言葉や来し方のnoteをまとめました。できるだけ柔らかく伝えたいと思っています。

最近の記事

  • 固定された記事

第8回展示会「戦争だ! 女、子供も! ついでにビールも! 展」チラシとポスター、完成しました(^^♪

 2024年も8月13日から8月18日まで6日間、JR長野駅から歩いて10分ほどの好立地、長野市のギャラリー82で展示会「戦争だ!女、子供も!ついでにビールも!展」を開きます。今回で8回目、新型コロナ下での2年のお休みを入れると、展示を始めて10年の節目です。前回と似たような雰囲気ですが、新しく収集した品を中心に、また違った側面から、戦時下の生活の断面をご覧いただきたいと準備中です。  さて、チラシとポスターが本日完成しました。チラシはこの記事中の「チラシの表」と「チラシの

    • 女子にも体力章検定導入ー検定種目に攻撃や防空に役立つものが入っているのが時局を表すが、どれだけ実施されたか

       1943(昭和18)年9月23日の信濃毎日新聞朝刊は、一面で「戦力の画期的増強へ 国内態勢を徹底強化」の政府方針を伝え、青年男子の17職種への就業禁止、女子の活用、学徒の徴収猶予撤廃などによる国民動員の強化があげられました。  そんな日の紙面に「女子体力検定 国防と体育に重点」との記事も掲載されていました。もともとは、男子青少年の基礎的体力を向上させる狙いで、厚生省が日中戦争下の1939(昭和14)年10月から始めたのが「体力章検定」です。今度も同じ厚生省が、女子を対象に

      • 展示会に向けてー子どもたちの秘密基地「かやは麻」ポスター購入

         毎回、展示会のテーマを決めると、収蔵品に加えて新たなモノを物色して入手しています。それで収蔵品の充実にもつなげているのです。そして今回、これは皆さんに見ていただきたいと、オークションで入手したポスター「かやは麻」です。  かやは「蚊帳」。近年はあまり使われないようですが、麻の蚊帳は、少々重いですが化繊の蚊帳に比べてたたみやすかったし、何より適度な重さが隙間を作らず、使い良かったなと。  そんな蚊帳は昼寝にも好都合。そうして使った蚊帳で戦争ごっこというシチュエーションですね

        • 日中戦争も泥沼の1941年6月、内務省は国民生活から迷信を排撃ーでも、最後まで神風が吹くとは言い続けたけど

           日中戦争がいよいよ解決策が見えず、北部仏印進駐とかでさらに状況も悪くなってくる中、内務省検閲課は「国民生活からの迷信排撃」に取り組んでいました。長野県の地方紙、信濃毎日新聞の1941年6月1日付夕刊(発行は5月31日)には「暦にも大手術 六曜九星五行を初めとし 相性運勢など除く」との見出しで、内務省の取締り方針を紹介しています。  著作権切れを受けて記事を転載しますと「国民生活から迷信を排撃すべく内務省検閲課では生活と密接な関係にある暦の取締り方針を研究中であったが具体案

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        第8回展示会「戦争だ! 女、子供も! ついでにビールも! 展」チラシとポスター、完成しました(^^♪

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        • 信州戦争資料センター展示会集成
          13本
        • <戦時下の一品>ー逸品?珍品?皆さんでご判断を
          22本
        • 長野県出身の軍人たちー歴史の一コマとともに
          10本
        • 防空演習で戦時体制強化も、空襲被害は壮絶
          25本
        • 信州戦争資料センター 中の人の思うこと、やってきたこと
          20本
        • 戦時体制下の教育
          37本

        記事

          立体で日露戦争などの戦闘場面を再現する「組上」「おもちゃ絵」は、歌舞伎部隊の再現が元祖

           上写真は、明治時代のおもちゃ絵で、パーツを切り抜いて日露戦争の一場面を立体的に表現するもの。プラモデルでつくるジオラマの元祖のようなものです。  自分も作ってみたくなったので、展示会の際に、これをスキャンして組み立てました。奥の方が上がるように勾配を付ければ、もっといい仕上がりになったかもしれませんね。  もともとは、歌舞伎の舞台を再現するように、江戸時代から流行ったということです。こちらは復刻版ですが雰囲気をどうぞ。  そして日清戦争、日露戦争の際には、いくつもの「

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          <戦時下の一品> 武運長久の祈願文

           こちら、日中戦争当時、長野県上伊那郡南向村(みなかたむら=現・中川村))にあった日曽利神社(戦後、地域が隣接する飯島町と合併。現在は上伊那郡飯島町)に納められた、出征兵士の武運長久を祈る祈願文です。今回入手したのは、1938(昭和13)年5月1日、9月1日、1939年1月1日、5月1日にそれぞれ納められた4点です。1点のみ、覆い紙が欠落していました。  日中戦争開戦翌年の1938年9月1日の祈願文を見てみます。出征兵士8人の名前を連ね、その武運長久を祈った後、盧溝橋事件以

          <戦時下の一品> 武運長久の祈願文

          長野県出身の軍人 太平洋戦争を生き残った病院船「氷川丸」初代院長の金井泉・海軍軍医少将

           病院船は、戦時下に傷病兵や民間人を安全な場所へ運んだりけが人らを治療したりする船で、どの国も攻撃してはいけない船でした。しかし、太平洋戦争では陸軍が徴用し改装した病院船が米軍機の爆撃を受けて沈没(ぶゑのすあいれす丸)したり、海軍で徴用した氷川丸も機雷で被害を受けるなどしていて、赤十字の標識を何カ所にもつけてあっても、決して安全ではなかったのです。  (また、これを逆手にとって軍需関連の品を運ぶような違法行為が行われることもありました)            ◇  その氷川丸

          長野県出身の軍人 太平洋戦争を生き残った病院船「氷川丸」初代院長の金井泉・海軍軍医少将

          国土防空、頼るは人の目と耳。重要な敵機識別のため長野では模型製作競技会も

           日本は国土の幅が狭いため、防空のためには海上も含めた各地へ監視の拠点を設けて、一刻も早く敵機の飛来を通報する体制が必要でした。大日本防空協会編纂発行、内務省推奨の「防空絵とき」(1942年11月発行)では、その監視体制をパノラマで説明しています。  上写真、防空監視哨では、小屋根の構造物は音がよく反射して聞こえる構造をしていました。昼間はもちろん、夜間はここが頼りです。詳細はまた別の機会にしますが、外に立っている人の目視による監視と合わせて効果を上げる形でした。また、監視

          国土防空、頼るは人の目と耳。重要な敵機識別のため長野では模型製作競技会も

          戦時下、工作の教材本も「少年少女国民機械工本」と仰々しく。編纂も機械国防工作研究会だ

           「少年少女国民機械工本」3・4年用は、長野県の現・白馬村に住んでいた国民学校の初等科1・2年生が持っていたものをご寄贈いただきました。1941(昭和16)年7月初版発行でこれは10月発行の再販。国民学校が同年4月に発足したのに合わせ、新たな国策に沿ったものとして研究されたのでしょう。ちなみに、4・5年用は1942(昭和17)年4月発行です。  グラビアからいきなり軍事ネタ満載です。  気球も見本は防空用の気球のようです。グライダーも、航空兵育成狙いとみれます。中身はもち

          戦時下、工作の教材本も「少年少女国民機械工本」と仰々しく。編纂も機械国防工作研究会だ

          また保存しておかねばならない新聞が増えたが、自衛隊だけの問題ではなく、この国の中枢の隠蔽体質こそ問題

           残念なことである。またとっておかねばならない新聞が増えた。2024年7月13日の信濃毎日新聞朝刊に、防衛省が特定秘密の漏洩などで「218人一斉処分」したとの記事と解説が掲載される。一番対象者が多かったのは「特定秘密の不適切運用」で115人に上る。    「特定秘密」は、もう忘れた人も多いだろうが、指定されると、何が秘密になったのか、が誰にも知らされず(何しろ秘密だから)、知ろうとすると規制され、国民に知らされないことで特定秘密の検証が難しいことが問題になっていた。自衛隊と米

          また保存しておかねばならない新聞が増えたが、自衛隊だけの問題ではなく、この国の中枢の隠蔽体質こそ問題

          初めはささやかな第一歩-続けていれば何かが変わる

           信州戦争資料センターの中の人は、小学生くらいから軍事には関心があったと思います。当時は、けっこう戦争映画の大作がつくられ、おやじが家族連れて見に行っていたのが最初かな。テレビの映画番組でも、けっこう戦争映画を放送していた。映画館でバトルオブブリテンを描いた「空軍大戦略」とか、「ミッドウェー」、「八甲田山」とか。「日本の一番長い日」もテレビでみたのが最初。  その後は、タカラのGIジョーで遊んだり、プラのドイツ軍ヘルメットとか棒付き手りゅう弾レプリカを買う、田宮の模型にはまる

          初めはささやかな第一歩-続けていれば何かが変わる

          戦時下教育ってやつは半端じゃない。そして学校に慰霊の部屋がありもう50柱とか…普通にいろんな価値観を学べる幸せ

           1941(昭和16)年に滋賀県八幡町(現・近江八幡市)の国民学校初等科6年生だった女児の学校で作った作品を入手しました。もうね、洗脳だよね、一種の。独裁国家っていうのはこういう感じかって思えます。  まず習字。普通の作品ももちろん書きます。なかなか上手だと思います。  それがね、例えばこんなお手本があるわけですよ。  これに類したお手本が多数あり、そうしたもので書かされるわけですね。書いてる方は、ただきれいに書こうとしているだけかもしれませんが、教育勅語の奉読と同じで

          戦時下教育ってやつは半端じゃない。そして学校に慰霊の部屋がありもう50柱とか…普通にいろんな価値観を学べる幸せ

          <戦時下の一品> 皇軍慰問用絵はがき「銃後のスター」

           今回は「皇軍慰問用絵はがき 銃後のスター 新進映画女優A」を紹介させていただきますーといっても、実は中の人はまるでこうした方面に疎いので、どれが誰やら分かりません(´;ω;`)…。自宅を埋める山のような資料も、映画関連は戦後のキネマ旬報などが少しあるぐらいで…まことに申し訳ございません!  おまけに、絵はがきにも女優の名前が入っておらず、これはまるで人気投票にでも役立てたのかと勘繰るような感じでして。もし、分かる方がおられましたら、コメント欄やXのリプにでもぶらさげてくだ

          <戦時下の一品> 皇軍慰問用絵はがき「銃後のスター」

          長野県松本市から満州に出動した歩兵第50連隊。戦場は命がけであるという、単純だが大事な事実を肝に銘じたい。

           いつも基本的には戦時下の生活にかかわる話題を中心としていますが、ここでは満州事変当時、長野県から満州に出動した松本歩兵第50連隊の兵士のアルバムから、戦場の様子を伝える写真を選んでみました。戦争をするということは、生身の兵士がこういう現場に出向くこと、こういう目に遭うこと。そんな基本を、きちんと伝えるため、貴重な写真たちです。(複写禁止。使用の場合はコメント欄かⅩのメールで必ず連絡を)  まずは作戦行動中、疲れて眠る兵士たちです。当時、現役の精兵ばかりでしたが、戦場の緊張

          長野県松本市から満州に出動した歩兵第50連隊。戦場は命がけであるという、単純だが大事な事実を肝に銘じたい。

          戦時下、村の印刷屋の告白が一番戦況や国力を表すー1939(昭和14)年の新聞投稿

           長野県の地方紙、信濃毎日新聞には「農村雑記」「街雑記」という、比較的長文の、それぞれの生活をしっかり描いた投稿欄があり、常連投稿者も多く、実のところ、市井の人たちによる歴史の記録といった感があります。そのせいか、太平洋戦争開戦翌日にこれらを掲載していた文化面の担当者が逮捕される事件が発生するのですが、ここではそれに至る前の、1939(昭和14)年10月10日付朝刊に掲載された「街雑記 印刷店の世話」を紹介させていただきます。  「街雑記 印刷店の世話」を書いたのは、長野県

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          日露戦争後、何が起きていったかが意外と知られていないので当時の新聞から。

           日露戦争は1905(明治38)年10月14日、両国の講和条約(ポーツマス条約)批准で終わりを告げます。国内では、賠償金を取れなかったと反対運動が荒れ狂いましたが、もはや陸軍には将官の後詰がいないような状況でした。そのうえでの講話です。  ところで、講和の後はどうなったか、意外と曖昧模糊として知られていないと思います。実際、世界の動きも複雑でした。そこで手始めに日露戦争の講和条約全文を掲載した同年10月17日発行の信濃毎日新聞号外を見てみましょう。  第一条は両国の間の将

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