国土防空、頼るは人の目と耳。重要な敵機識別のため長野では模型製作競技会も
日本は国土の幅が狭いため、防空のためには海上も含めた各地へ監視の拠点を設けて、一刻も早く敵機の飛来を通報する体制が必要でした。大日本防空協会編纂発行、内務省推奨の「防空絵とき」(1942年11月発行)では、その監視体制をパノラマで説明しています。
上写真、防空監視哨では、小屋根の構造物は音がよく反射して聞こえる構造をしていました。昼間はもちろん、夜間はここが頼りです。詳細はまた別の機会にしますが、外に立っている人の目視による監視と合わせて効果を上げる形でした。また、監視哨の費用は各町村が負担していたようで、下写真は長野県佐久地方の各町村が戸数割と平均割の合計で、それぞれ負担していたことが分かります。
これら防空監視哨の情報を束ねるのが監視隊本部で、長野県松本市、長野市などの拠点に設けられていました。下写真は、松本防空監視隊本部屋上での記念撮影で、第1班とあるのは、24時間勤務のため、複数の班を編成していたとみられます。こうした任務には女性が活躍していました。
さて、そんな敵機監視のために、民間人向けにも敵機識別の絵や写真入りの本が発売されていました。こちら、読売新聞社発行の1944(昭和19)年版で、当然、監視哨の隊員もさまざまな手で記憶していたとみられます。
一方、長野県ではこうした監視哨で活動する「監視哨員」の「敵機標識眼昂揚に資する『哨員自作模型飛行機製作競技会』を1943(昭和18)年に企画します。確かに、平面よりも立体で把握したほうが、識別には役立つのが道理です。
同年8月28日付信濃毎日新聞夕刊の記事では、木曽の福島町における審査会の様子を紹介。「協議会出品のため〇〇哨員作品の下審査を26日、福島警察署で行ったが、流石は木工の地として知られている地方の哨員だけあって、いづれも見事な出来で甲乙ないという優秀品ばかりなのに審査員等を驚かし、全作品を出品と決定した。主なる作品は次の通りである」として、ボーイングB17、グラマンF4Fなどを並べている中、製作者の1人、村地忠太郎さんは、戦後もずっと木地師としてその道一筋を近年まで貫いていった方です。
そして翌日の29日付朝刊では、松代警察署で出品のために作った模型の展示会が開かれているという記事が掲載されています。松代署では、ほかに防空関連のポスターや防毒面などを置き、参観を希望しているとあります。
結果がどうなったかはちょっと分かりませんでした。が、こうした模型や音響の研究をするまでもなく、連日の空襲で学習を重ねることになるのは、もう少し先のことです。