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防空演習で戦時体制強化も、空襲被害は壮絶

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1928(昭和3)年に初めての防空演習が行われて以来、人々に戦時体制をいやでも植え付ける狙いから防空演習が頻繁に行われます。が、日本の防空対策は人が待機して消化させるというのが基…
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太平洋戦争末期、特に1945年4月以降、米軍は「紙の爆弾」を大量にまきましたー政府が…

 太平洋戦争も1945年、沖縄戦の先行きが見えてきたころから、長野県はもちろん、全国各地に米…

国土防空、頼るは人の目と耳。重要な敵機識別のため長野では模型製作競技会も

 日本は国土の幅が狭いため、防空のためには海上も含めた各地へ監視の拠点を設けて、一刻も早…

さんざん防空演習やっても、田の草取りは偽装が必要になって「航空陣鉄壁なり」と言わ…

 まずこちら、1933(昭和8)年8月23日発行のアサヒグラフ。表紙を含め、第一の特集は関東防…

木曽町に残る赤黒迷彩の土蔵ーなぜ赤と黒か

 表題写真と下写真は以前、長野県木曽町に行って撮影してきた、戦時中に迷彩をほどこしたとい…

収蔵品の手探りの保全作業

 表題写真は、長野市内で使われた「空襲警報発令中」「警戒警報発令中」の立派な看板です。地…

国民学校の子どもたちも、防空体制に組み込まれーでも最初に守るのは御真影

 今の小学校に当たる国民学校も、軍事の波はかぶさっていました。修身などの精神面に加え、大…

太平洋戦争下の秋、松本市で警防団が空襲に備えて注意して回ったのは「防火用の桶で漬物を作るな」?

 日本では日中戦争当時から防空訓練が繰り返され、各家庭では焼夷弾に対応するため、消火資材をそろえておくよう指示されていました。信州戦争資料センターが所蔵する大人向けの国策紙芝居「我等の防空 第1部」=1942(昭和17)年11月5日発行=では、こんな感じで説明しています。  普通の家で「5斗5升(約100リットル)以上、二階屋や大きな家ではもっとたくさん」ということです。けっこうな量で、一つにためておける容器もそうはないので、工夫して、あらゆるもので確保して備えるようにとし

核兵器の怖さを知らない国が核兵器を持つ恐ろしさー恐怖の均衡はたくさんだ

 広島と長崎に投下された原子爆弾の威力は、なかなか想像できないものです。ただ、投下直後の…

昭和15年12月、全国の役場に届いたDMの中身はー確かに戦時下のものでした

 1940(昭和15)年12月、1937(昭和12)年から始まった日中戦争は終わりが見えず、前の年には…

空襲からの学校防護はまず「御真影」

 表題写真は、木曽中学校(現・木曽青峰高校)にあった奉安殿です。この中には国から下賜され…

貴重な1942年の防空演習記録ーニューラルネットワークの色付け写真でどうぞ

 長野県上田市の小県蚕業学校(現・上田東高校)の1942(昭和17)年度卒業アルバムを入手しま…

1931(昭和6)年に長野県内各地を巡回した戦争映画「大空軍」は航空予算獲得の世論作…

 1931(昭和6)年2月11日の紀元節に合わせて、松竹系の劇場で映画「大空軍」が封切られま…

長野市初の防空演習は1932(昭和7)年。本番はその11年後に。

 日本で防空演習が最初に行われたのは1928(昭和3)年、大阪においてでありました。長野県で…

「逃げるな、火を消せ」と、盧溝橋事件から間もない1937年8月、長野県全域の初の防空演習が行われていました。

 北京郊外の盧溝橋での日中両軍の衝突から交渉がこじれて日中戦争がはじまった1937(昭和12)年7月に先立つ4月5日、「防空法」と呼ばれる法律が公布され、10月1日から施行されます。まるで準備万端、日中戦争に備えていたような絶妙のタイミングです。  防空法は、空襲があったときに民間人もこれに対応するため、組織や装備、備え、行動などを決めたものです。防空壕は敵が通り過ぎるのを待つまでの避難所ではなく、敵の爆弾が落ちたら飛び出して消火に当たれという一時的な待避所といった位置づけで