さんざん防空演習やっても、田の草取りは偽装が必要になって「航空陣鉄壁なり」と言われてもなあ( 一一)
まずこちら、1933(昭和8)年8月23日発行のアサヒグラフ。表紙を含め、第一の特集は関東防空演習です。そう、信濃毎日新聞の社説で桐生悠々がこき下ろした演習です。煙幕に包まれる東京から。
1933(昭和8)年当時、まだまだ航空機は発展途上でした。複葉機が飛び回るようなころであれば、当時の高射砲も灯火管制も有効だったでしょう。
4年後の1937(昭和12)年3月に防空法が成立、空襲下での民間人による消火活動が義務付けられました。施行は日中戦争開戦後の10月となります。当時の想定は空襲があってもゲリラ的な数機程度によるもので、爆撃されてもその密度は隣組に1-2発という程度。まあ、これなら協力しあえばどうにかなったかもしれません。
しかし桐生悠々が予言した通り、飛行機の発展のスピードは加速度的に跳ね上がっていった時代です。太平洋戦争が始まって、米軍が東京を空襲目標に研究していること、B29が製造されていることは、当時の新聞でも確認できます。しかし、防空法の規定は変えられることも、空襲の想定を変更して臣民に伝えることもありませんでした。
その結果、旧来の兵器と態勢で迎え撃った東京大空襲は、あまりにも多い犠牲を生みました。自分たちが中国の重慶で無差別爆撃をしていたことを思えば、自国の航空機の性能が向上していくことを考えれば、昭和8年ごろの素朴な想定では通用しないことが明らかだったのに、そのままにしていたのです。少々の対策向上では追い付かない状態になっているにもかかわらず、九州への最初の空襲で敵をあなどり、サイパンが陥落しても掛け声を上げるしかなくなっていました。
以下、写真は1945(昭和20)年7月25日発行のアサヒグラフです。紙質の低下、モノクロのみのグラフ紙が、それでもかろうじて発行されていました。表紙は「敵の空襲何ものぞと麦秋の野に微笑む乙女」とあります。
空襲があるのは前提で、それでもあおかつ、畑に出ているのを「空襲何ものぞ」とあおるマスコミの言葉は、政府の指示そのままであり、そのまま流さねばならない時代でした。そんな中で新潟県の農村に取材した写真が「偽装して田の草取り」でした。(作業は麦の取り入れも含む)
「上空の敵機も偽装して麦刈るお百姓さんの姿には眼が届くまい」「雑草を頭に載せて、何の敵機恐れぬぞと収穫に意気貢献のお百姓さん」「偽装して田の草取り」「刈り取った藁で偽装する娘さん」ー。こんな写真説明が並んでいます。最後の娘さんは、表紙の女性でしょう。
戦争にここまで追い込まれている、それでも頑張らねばならないお百姓さんの、せめてもの自衛の姿に、本当に責任を感じなければならない人は誰だったか。そも責任を感じていたのか。そして次のページ。
こうきては、編集者が笑わせようとしたのかと勘繰りたくなります。「鉄壁」なら、あの偽装しての農作業は何なのか。もちろん、飛行兵らが必死に任務を果たそうとしていたのはいうまでもありません。それが、こうして並べられると、その言葉を真に受けるとすれば、冗談か、ごまかしか、と想像してしまいます。しかし、当時は疑いを持ってはいけない時代。農民も頑張る、飛行兵も頑張る、というように受け取ってほしかったのでしょう。
既に米軍の戦艦が艦砲射撃をできるほど、日本本土に悠々と近づいて行動できているのです。アサヒグラフの「偽装して田の草取り」の記事の中に「敵の空襲、これに対する防空も、そもそも本土決戦の一部であり、一段階であるというべく、艦砲射撃もなほ本土決戦の一部分でまたその一段階であるのであり、そしてこの両者は同時に並行しうる」「敵の上陸作戦が敵にとりできるだけ悪条件に陥るほかないように、今日からしておかなければならないのだ」と、既に本土決戦への心がまえを説いています。そのように書かざるを得ないのか、そうであると自分を信じさせて書いたのか。そんな状況の中で、さらに犠牲が拡大していくばかりなのに。
2024年6月23日・記
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