国民学校の子どもたちも、防空体制に組み込まれーでも最初に守るのは御真影
今の小学校に当たる国民学校も、軍事の波はかぶさっていました。修身などの精神面に加え、大空への関心を高め次代の飛行士を生むとして模型飛行機作りが正課になったりしていました。そして、学校での防空対策も求められるようになり、1943(昭和18)年1月1日発行の大日本防空協会発行の月刊誌「防空事情」では、「学校と児童の防空」を特集しています。表題写真は、この「防空事情」に掲載の埼玉県所沢国民学校高等科1,2年(現在の中学1,2年に相当)の防空訓練の様子です。
記事では、国民学校の高等科や5、6年生(現在の小学校5,6年生に相当)の一部にも学校の防護や避難誘導などをさせるように指導していて「空襲警報が発令された場合は、学校防護団員たる高学年の児童は直に学校へ赴かしめ、所定の任務に就かしめ」るとしています。
そして防護実施の計画では、団員の招集、警報の受領の次に「御真影及勅語謄本の奉護」が来ます。とにかく、これが重要だったのです。
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そんな風潮の中で、工作材料として「モケイ防ドク面組合せ」なるものも登場しました。折りたためるようになっていて「相当使用に耐ゆる」とし、防空訓練での複数回の使用を見込んでいたようです。もちろん、防毒の装置はなく密閉も不十分なので、あくまで、模擬品です。
当時の防空方針は、国内に少数機しか侵入できないとし、それで効果を上げるために、第一次世界大戦で使われた毒ガスがまた使われる可能性があるとして、その対応は重視していました。日本軍が毒ガスを生産していたこともあり、その裏返しであったかもしれません。
こちらは、長野市内の学用品店が使った案内チラシで、1942(昭和17)年の年末に、1943年度用の教材として売り込んだものです。ちょうど大日本防空協会が特集を組んだ「防空事情」の発行と同じころで、1942年にあった米軍のドリトル空襲では学校も攻撃されていたことから、新学期からは一層防空意識向上の力を入れるだろうと予想しての製品でしょう。物資は不足してきてはいましたが、まだこのような教材を作る余裕はあったようです。
さて、この「モケイ防ドク面組合せ」は、和紙で本体を、ボール紙で正面や呼吸口を、セロファンで目の部分をつくり、ひもで固定するという構造だったようです。こんなの、採用したところがあるのか―と思っていたら… 新聞に載っていました!
1944(昭和19)年2月5日の信濃毎日新聞夕刊に載った記事は、長野県諏訪郡豊田国民学校4年生男子が工作の時間に作ったと紹介。「防空演習で学童の心構えを練るとともに、毒ガスに対する認識を童心に刻み込む」のが狙いだったとしています。
そして、実物そこのけの出来栄えだったということで「次の時間にこの手製防毒面をかぶって授業を受け、これさえあればいくら毒ガスをまかれても平気だと張り切っている」
子ども心をうまくとらえたようです。
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