見出し画像

昭和であった15 〜ご馳走様!朝食編 〜

我が家は典型的な昭和のサラリーマン家庭である。
だが、振り返ってみるとその食生活は当時としては比較的贅沢で、同じ社宅の家庭とは少し異なっていたと思う。
それは父親の生い立ちに関わっている。
父は我々と違って恐ろしく育ちが良い。
戦前の財閥、男爵家の長男だった。
それが、徴兵で南方戦線に送られ、離れ小島に取り残され、食うや食わずの餓死寸前の状況を潜り抜けてきた。
戦後復員してみると、財閥解体で資産は全て没収されてしまっていた。
そして、生きていく為、勤め人となったという経緯である。

父の父親(祖父…父が子供のうちに早逝した)は海外への留学経験もあり、母親(祖母)も陸軍中将の娘で同じく海外生活の経験もあった。
なので、父の青春時代までの食生活は日常的に西洋化が進んでいたらしい。(もちろんその時代のことは私は知らない)
一方私の母親は品川の比較的大きな商家の長女で、父親から大事に甘やかされて育った。
家事は次女や三女や祖母の仕事で、食卓に並ぶものも気に入らなければ食べず、好物を買いに行かせたというからその甘やかされようは尋常ではなかった様だ。

お陰で父と結婚した当初は米を炊くことすら出来なかったらしい。
基本的なことは父が教え、近所の奥さんから教わり、クッキングスクールに通わされ、父の好みに応えられる様に少しずつ料理を覚えていったという話。
ただし、母は商業女学校を出ているので、家計の経済的な賄いだけは比較的得意だったが、当時は普通のサラリーマンの1ヶ月分のサラリーで1家庭の支出がまだ賄いきれていない時代だった。

昭和30年当時の我々家族…
思い切りお洒落をしての記念写真。

我々家族は父がどの位のサラリーを得ていたのかを知らない。
毎月母親と話し合った金額を給料の中から手渡し、残りは自分で好きに遣うという方式だ。
家計が足りなくなると、母は父に相談して次の給料日までの間少し足して貰うが、無い袖は振れないこともあった。
そんな経済状況も我々子供にも隠すことなく屈託なく話してくれた。
そんな時には、どうも母はクヨクヨしないたちらしく(他の面では結構クヨクヨするのだが…)「まあ、なんとかなるわ…」と色々工夫していた。
まだ各家庭に米穀通帳があった時代のこと、周囲のどの家庭も窮々としていた。

どの家庭にもあった『米穀通帳』。
米の配給制度は根強く残っていた。

典型的な思い出がある。
ある日の夕方、財布の中を覗き込んでため息をついた母からお使いを頼まれた。「あんたこれでお豆腐2丁買ってきて頂戴』と言って10円玉2枚とアルミ鍋を渡される。
「帰りにどっか空き地でシソの実積んで来てくれる?」
「うん、分かった…」
で、その日のおかずは豆腐半丁の冷奴にシソの実が乗せられたもの。
あとは炊き立てのご飯にバターを乗せたバターご飯だけだった。

シソの実を乗せた木綿豆腐…
バターご飯…

普通におかずを買う現金が無かったのだ。
さて…翌日からはどうするのかと思ったら…
近所の蕎麦屋から出前のラーメンが届いた!

当時のラーメンは一杯25円〜35円。
すぐ近所の長寿庵ならツケが利いた。

ラーメンの夕食は3日間続いた…3日目は父の給料日だったのだ!
ツケのきく出前で凌いだ訳だ。
かくして母は出前の蕎麦屋や酒屋や米屋にツケのお金を払い、翌日から嬉々としていつものように買い物に出かける様になった。

こんなことは度々あった。
それでも世の中は高度成長期…
翌月は少し倹約気味の食事となる。
なんとかやり繰りしていけば、少しずつ蓄えている預金も切り崩さなくて済む…
やがてボーナス月もやってくる。
物価の高騰を追いかける様に毎年給料の額も上がってゆく…
未来は不確かだが、明るいことだけは保証されている…そんな風潮だったのだ。
話は長くなってしまったが、そんな少年時代の我が家の食卓を紹介しよう。

まず最初は当時の我が家の朝食から…
我が家の月曜日から土曜日までの朝食はパン食。
朝食は必ず家族4人揃って摂っていた。
メニューはトーストにベーコンエッグかハムエッグ。

朝の定番ベーコンエッグ…

当時、卵は結構高い食品だった。
今の価格とほぼ変わらないので、物価から考えたら今の10倍〜20倍くらいの価格だと思う。
ただし、その分東京でも庭で鶏を飼っている家も多かった。
私の仲良しの家でも結構大々的な鶏小屋を構えていて、お母様が定期的に新鮮な卵を通常の半値程で届けてくれていたので、我が家は随分と助けられた。
東京・品川のど真ん中の話である。

父は朝食にはこだわった。
朝の卵は絶対で、母はなんとかいつも卵は欠かさないようにしていた。
トーストに塗るバターやジャムはお歳暮やお中元で頂いたものか、切れるとどこかから父が気に入ったものを購入してきていた。
マーガリンは絶対にご法度で、バターでなければならなかった。
これにミルクティーが付く。
紅茶はダージリン、これも父がどこかから調達してくる。

ミイルクティーはダージリン…

さらによく出たのが、これは季節にもよるがベイクドトマト。
厚く輪切りにした比較的未熟のトマトをフライパンでこんがり焼いて、塩胡椒と粉チーズをふりかけたもの。

ベイクドトマトは父にとっては日常の朝食だった。

これは父が子供の頃から朝食に食べていたものらしい。
さらに新鮮な果物が付く。
当時はまだ珍しく高価だったグレープフルーツやオレンジやバナナは父が買ってくる。

どこかから父が買って来るグレープフルーツ…
当時はかなり酸っぱく、砂糖をかけて食べていた。
父は当時はまだ高級だったバナナもよく買ってきた。
当時のバナナは殆どが台湾産、今のバナナとは品種が違う(後々の感染症で絶滅してしまった)。
現在のものよりも粘りが強く甘かったと思う。

季節によっては知り合いから送られてきたイチゴや葡萄やリンゴ、ご近所から頂いた柿やいちじく…等々…

と、こんな感じだが、時には父のオーダーでトーストがパンケーキやフレンチトーストになることもある。(フレンチトーストの時は卵は無かったような気がする)

パンケーキは大きめだった。
母はホットケーキミックスを使っていた。
フレンチトーストは時々我々のおやつにもなった。

その為にホットケーキミックスとメープルシロップはいつも常備されていた。
時間に余裕を持って4人一緒に朝食を楽しみ、ひとしきりお喋りを楽しみ、それぞれ学校と会社に出かけて行くのが日課だった。

そして日曜日…
朝、前回(昭和であった13)にも書いたように私だけ父に起こされ高輪のゴルフ練習場に散歩がてら連れて行かれる。
帰って来ると朝食の用意が出来ている。
日曜だけは炊き立てのご飯と味噌汁。
それにたっぷりの納豆が4人分の大きな器で用意される。

父はもっと大きな器に4人分たっぷりと作った。
大粒の水戸納豆だったと思う…

納豆には父の手で卵の黄身とネギと溶き辛子がたっぷりと入れられ、醤油で味付けられる。
なかなか子供には厳しい味付けだ。
父の好みに付き合わされるのだが、これがしまいにはクセになった。
ちなみに、『和がらし』や『生姜』『わさび』『唐辛子』の風味は小さな頃から父に覚えさせられた。

沢山会話を楽しんで、お腹一杯ご飯を食べて、あとはそれぞれの休日をそれぞれ機嫌良く楽しむ…それが我が家のルールであった。

まずは序盤で当時の我が家の朝食風景…
経済的には今よりもずっと貧しい時代であったにも関わらず、幸運にも父の指向のお陰で毎朝美味しい食卓が確保されていた。
そして私の子供時代の『ご馳走』はまだまだ続くのであります…

『昭和であった16 〜昼食間食編〜』へ…







いいなと思ったら応援しよう!