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『初恋に死す』



『初恋に死す』



中学一年の秋口のある夜、私が杏さんに告白することが決定した。杏さんは私が所属している美術部のひとつ上の先輩であり、私の片想いの相手だった。


夜八時四十分頃、クラスメイトのひかりちゃんから電話がかかってきた。ひかりちゃんは美術部でもなければ杏さんと会ったこともなく、何の接点もないはずなのに、杏さんの自宅に電話をかけて、私が杏さんに告白するという段取りを勝手に取り決めてしまったのである。無論、そんなことは私にとって寝耳に水であり、甚だ迷惑な話だった。私はひかりちゃんの老婆心にむかっ腹が立った。とんだおせっかいだ。ひかりちゃんに変なあだ名をつけてやろう。


杏さんは丸顔の童顔であり、色白の女子である。
そこまで美人なわけではないが、いつも長い黒髪を頭の後ろで一本にまとめていて実直な感じなのだ。
とにかく、私が人を好きになるのは理屈ではない。感覚的なものだけだ。会った瞬間、あるいは、何回か会っているうちにこの人いいかも、と思うのだ。


部活中、私は杏さんに近づいてこられるだけで緊張する。烈しい動悸がして、胸がしめつけられるように苦しくなった。そして、杏さんからふいに話しかけられたときなどは緊張と嬉しさが同時に極点に達し、ひとりでヘッドバンギングをしながら絶叫しそうになるほど心が掻き乱された。そんな体たらくの私が杏さんに告白することなどできるわけがない。


告白当日の朝は涼しくて、空気が妙に澄んでいた。
私が通う中学校は自宅から五キロあまり離れた低い山の上にある。自転車通学の私は、朝六時五十分に学校の駐輪場に着いた。がらんとした駐輪場には誰もおらず、数台の自転車と犬の糞しかなかった。


教室へ行くと、仲良しの女子三人組がお互いの机をくっつけてトランプで大富豪をやっていた。
最近、私はこの女子三人組から無視されている。
なぜなら、私の新品の消しゴムに女子の名前が書いてあるのを彼女たちに見られたからである。
それは友達から教えられた、片想いが両想いになるおまじないなのだが、マジックペンで「あん」と書かれた私の消しゴムが気持ち悪かったらしい。


私の中学校は一年生が三階、二年生が二階、三年生が一階である。ひかりちゃんが指定した待ち合わせ場所は校舎の北側にある外の水飲み場だった。
私の教室からだと五分はかかる。私は心が落ち着かず、廊下を意味もなくうろうろしていると、七時二十分になっていた。しかし、小心者の私は土壇場で尻込みした。やはり勇気が出なかったのだ。

そのとき、スクールバッグに赤べこのキーホルダーをつけたひかりちゃんが息せき切って走ってきて、

「凌くん!ここで何やってんの?先輩、例の場所にいて、ひとりで待ってるよ。早くいきなよ!」

と怒気を含んだ声で言うので、私は狼狽した。
胸が烈しく動悸を打ち、眩暈に見舞われて、目の前のひかりちゃんの顔がぐにゃぐにゃとゆがんだ。
ひかりちゃんは私の制服の袖を引っ張った。しかし、私は駄々をこねる子どものように抵抗した。
トランプをしている女子三人組が廊下に出てきて、私とひかりちゃんが痴話喧嘩でもしていると勘違いし、にやにやしながら興味津々で観察していた。

「やっぱり、おれには無理だぁぁぁー」

と情けない声でひかりちゃんに訴えたが、

「いいから早く行って!凌くんに行ってもらわないと、わたしの立場がないってばぁ!」

と声を荒げながら私の背中を平手で叩くので、そんなことを言われてもこっちは知らないと思ったが、それを口に出すと、もめそうな感じだったので、

「いや、待って。ひかりちゃん。今からおれが杏さんに告白したとして、もし、断られたらどうするつもり?気まずくて、おれはもう部活に行けないよ。杏さんと顔を合わせられないよ。それは杏さんも同じなんだよ。お互いに同じ空間に居づらくなることは避けたいんだよ。杏さんに迷惑をかけたくない」

「それはわかるよ。わかるけど、それはそうなったときに考えればいいことでしょう。とにかく、今は告白を受けてくれる先輩に対して、凌くんの素直な気持ちを伝えることが大事だと思う。だって、先輩のことが好きなんでしょ?わたしにさんざん相談してたよね?あれは冗談だったの?ねえ、なんで行かないの?凌くんはいくじなしなんだね。ふられることを恐れてたら何も始まらないよ。ねえ、もう約束の時間を過ぎちゃってるよ。行かないなら、これ以上、あそこで先輩を待たせるわけにはいかないから、わたし、断ってくる!風邪ひいて具合が悪くなったとか言ってくる。もう知らない。行くね!」


と言って、私の顔をにらみつけると、前のめりで廊下を走っていった。ひかりちゃんがいなくなると、眩暈がひどくなった。教室の床が船上のように揺れているように感じ、周りのクラスメイトの声が段々と遠のいていった。水中に沈んでいく感じだった。

今からこんな調子では、この先の自分の人生は、女性とまともに恋愛などできないのではないだろうかと思った。私はずっとひとりでいるのだろうか。


十五分後くらいにひかりちゃんが教室に戻ってきた。怒っているのではないかと思っていたひかりちゃんは思いのほかやわらかな顔をしていて、

「わたし、なんだか勝手なことをして、凌くんに悪いことをしたかもしれない。ごめんなさい…」

と低い声で言って、妙にしおらしい態度で謝るので、私は拍子抜けした。私が押し黙っていると、ひかりちゃんは急に弾けるような笑顔になり、

「杏さんはホントに素敵なひとだよ!凌くんの女性を選ぶセンスは間違ってないと思う。がんばって」

と言った。私は自分が好きになった人が褒められると、こんなにも嬉しくて、幸せな気持ちになるものだということをそのとき生まれてはじめて知った。

結局、ひかりちゃんは誰が杏さんに告白をするのかは本人に教えなかったそうだ。私はほっとした。
これでまた普段通りに部活に行けると思った。


三週間後のある日の放課後、私は美術室へ行くと、部屋の電気が点いていなかった。のみならず、普段は常に開けっぱなしになっているドアが閉まっていて、鍵もかけてあった。しかし、その日の部活が休みだということを私は事前に聞いていなかった。
少し不安になりながら、美術室の廊下の消火栓の前にしゃがみ込んで、誰かが来るのを待っていた。
十分くらい経つと、パタパタパタパタという足音が階下から聞こえてきた。聞き慣れた足音だった。

杏さんは上履きの踵をつぶして履く癖があった。
スリッパのようにして履くだらしない履き方をしている女子にはなぜだかヤンキーが多いのだが、杏さんはヤンキーではない。ただし、杏さんのひとつ上のお姉さんはヤンキーなので、そのお姉さんの影響が少なからずあるのだろう。お姉さんは校内で目立つような美人な女子だった。顔が小さくて茶髪のショートボブが似合っていた。背はそれほど高くない。そのお姉さんも美術部員だが、部活にほとんど来なかった。気まぐれのようにたまに顔を出すが、絵など描かずに誰かにちょっかいを出して、いつの間にかいなくなっているというのが常だった。

杏さんの足音は私の耳に嫌というほどこびりついていた。その足音が私の前で止まったときは鳥肌が立ち、ゆっくりと顔を上げると、目の前には杏さんが立っていた。頭の後ろで一本にまとめた長い黒髪が微かに揺れている。下から見上げているせいか、杏さんはお姉さんと違って、それなりに背が高いということを今さらながら思った。私はこうして杏さんと二人きりになれる機会を一日千秋の思いで待っていた。それが突然やってきた。しかし、突然やってくると、泣きたくなるほど何もできなかった。肝心なときに心が震えてしまう自分を呪いたかった。

「あれ?今日は部活、休みだっけかぁ?」

と言った杏さんは小粒の白い歯を見せて微笑んだ。
杏さんは仔犬のように目が澄んでいて、その目で見られると、私が汚いもののように感じてしまう。
また、杏さんの顔を近くで見ると、顔のあちこちに小さなニキビができていて、色白の肌を点々と赤く染めていたが、そのニキビですら杏さんの顔の魅力を引き立たせる端役になっているような気がした。

私は床に座り込んだまま顔を引き攣らせて、
「ど、どうなんでしょうか…」
とどもりながら答えた。心臓がぐわんぐわんと烈しく脈打ち、呼吸が苦しくなった。そして、視線が乱れて、挙動不審になった。全く出ていない鼻水をすすりあげながら立ち上がると、口の中で噛んでいないガムを噛み、家の庭の物干し竿の下をくぐるみたいな変な動きをして、杏さんから少し離れた。


しかし、杏さんは私の挙動に頓着せずに、
「たぶん、今日はないんだねー。じゃあさ、早く帰ろうかぁ。凌くん、気をつけてね!」
と明るく言うと、私に小さく手を振って、階下へ降りていった。杏さんの左手の親指につけているカラフルなビーズリングが薄暗い廊下で異物のように輝いていた。私は赤面した。杏さんが私の名前を覚えていてくれたことが嬉しかった。好きな人に名前を呼ばれると、自分の名前がいい名前のように聞こえるのはなぜだろう。不思議と響きが変わるのだ。

杏さんのパタパタパタパタという足音が聞こえなくなると、私はひどく後悔し、両手で顔を覆った。
すると、階下から階段を緩慢に這い上がるように冷気が漂ってきて、それが私の足首から全身に沁みていった。さびしくなった。美術室前の長い廊下の突き当たりには多目的ホールがあり、そこで誰かがオルガンでカントリーロードを弾いていた。そのあたたかな音色を聴いているとよけいにさびしさを感じて涙が出そうになった。そのとき、私は杏さんのことをあきらめようと思った。憧れのままでいい。


私が二年生になると、三年生の杏さんが美術部の部長になった。しかし、部長になってふた月足らずで杏さんは美術部を突然辞めた。杏さんは美術部の同級生の女子三人組からいじめられていたのである。
元々、杏さんが部長になったのはヤンキーのお姉さんが推薦したからであり、そのときは反対する者が誰もいなかったが、お姉さんが卒業していなくなると、彼女たちが不平不満を言うようになったのだ。


ある日、部活中に泣きながら美術室を飛び出していった杏さんを見たとき、私は心が引き裂かれそうになった。そして、烈しい怒りが沸々とこみ上げた。
赤い絵の具のチューブを握りつぶすように、杏さんをいじめた女子三人組を殺してやりたいと思った。
好きな人が傷ついている姿を目の当たりにしたときほど自分の感情がぐちゃぐちゃになることはない。


その後、校内で一度だけ杏さんを見かけた。
三年生の教室は一階である。体育館へ行くときは一階に降りる。ある日、私はわざと三年生の教室が並ぶ廊下を通った。その日は書きぞめ展が開催されていて、三年生の各教室の前には、「青雲」「自然」「健康」などといった文字が飾ってあった。
杏さんは女友達と二人で書きぞめを見ていた。
黒髪だった杏さんは金髪のツインテールになっており、濃いメイクをしていて、まるで別人のようになっていたが、以前と変わらない仔犬のように澄んだ目をしていた。顔のニキビがなくなっていた。


以前、ひかりちゃんからもらった杏さんの一枚の写真を私は美術の教科書に栞のようにはさんでいる。
ひかりちゃんはそれをいつどこで誰から入手したのかはわからない。追求しようとも思わなかった。
それは学校の自主研修で、一年生の杏さんが岩手県平泉に行ったときの写真である。鮮やかな朱色の鳥居の奥にある厳かな杉林に取り囲まれたそれほど大きくない拝殿の前で、杏さんがひとりで映っているものだった。しかも、その写真の杏さんは、いつも頭の後ろで一本にまとめている長い黒髪をほどき、髪を前におろしており、初々しく微笑んでいた。
ピースなどしていない。左右の手をおろして、棒立ちでそこにたたずんでいるだけという感じだった。
それがあまりに美しく、高踏的に感じられた。



          〜了〜




愚かな駄文を最後まで読んでいただき、
ありがとうございます。
大変感謝申し上げます。

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