見出し画像

電話での持ち込みアポが取れないヘボい自分。

⚠️申し訳ありませんが、現在持ち込み砂漠で心のゆとりがありません。
noteを含むSNSは自慢や成功体験が多く、現在マジで人生詰みギリギリ状態の
私には毒なのです。

スキを頂いても、そちらの記事を拝読しスキのお返しができない場合があります。🙇‍♀️💦
スキ返し目的の方はご遠慮ください。


3月27日 水曜日

マイ朝ごはん。

昨夜は将来の不安でうまく眠れず、悶々と思い悩んで夜をあかした。

カプランの資料ノート一冊終わった。

娘の勉強をみて、久しぶりにはま寿司に行ったが気分は晴れない。眠い。



百均でミュージアムシリーズの新シリーズを発見‼️エゴンシーレと、ムンクが加わっているううう‼️

夜、娘と英国の霊能者ジャッキーが新撰組の土方歳三と近藤勇の残留思念を伝えるTVをみる。


なんと、土方歳三の遺髪が残っていたことにびっくり‼️ジャッキーすげえ。

今月末から来月末まで一般公開されるので、新撰組土方歳三ファンは巡礼するやろうな。。。

3月28日 木曜日


リンゲルブルムの序文からゲットー移送前の箇所をノートをとっている。ノート一冊分終わった✨✨


日本での、電話交換手と美容師の戦時中のこと。


朝、主人に懇願して、某出版社に持ち込みの連絡をしてもらう。

Web持ち込みやメールでは、作品自体が読まれていない可能性が高いということを最近肌で学んだ。
持ち込みフォーム自体に不具合があるみたいなのだ。
ネットをみても、返信がこないという意見が散見する。

なので、直に電話をして持ち込みが一番的確に繋がれると思った。

けれど、私は電話でのアポイントが大大大の苦手。
そのハードルが大きくて、Web持ち込みやらをやっていたのだけども。

初めて持ち込みをした高校生の時、アポイントを、電話連絡を動じない社交的な親友にやってもらったことがある。(Mちゃん、ありがとう。。。😭)

それを思い出し、会社で日に何十件も電話連絡するのが常の主人に代理でお願いした。
俺ってクズだな。。。という恥ずかしさを抱きつつ、
いや、もうこれは頼めるものは得意な人に頼んだほうがいいと思った。

嬉しいことといえば、神保町に行った時もそうだが、何事もなく地下鉄に乗れるようになった。
体重もなんだか3キロくらい太った。

つまり、昨年の4月頃より、随分元気になったということで、
これはかなり喜ばしいことかと思う。

元気になれたのは、一年自分が最もやりたい戦争というテーマの資料を日々読み続けてきたことのおかげである。
好きなことややりたいことを思い切りやろうとすれば、人は元気になれる。

そして、否応なく将来を定められた戦争当時と異なり、
今は「自分次第で」道は作れる時代なのだ。

資料を読み、自分の悩みや病気など、恥ずかしくなった。

同じ精神的な病気でも、彼らはシェルショックや砲弾病、殺戮のトラウマで心がやられたのだ。

一方私はといえば、家族や家庭、環境にも恵まれて、
ただ、自分の実力不足でうまくゆかなかっただけのこと。

それで心が折れるなんて。。。甘い。
仕事は失敗したら、仕事で取り返さねばならないのではないか。。。

資料を読み続けているうちに、もっと図太く生きようと思えたのだ。


主人が休みで、今日は娘の勉強もお休み日なので、喫茶店へ資料を読みに行った。

骸骨になってでも、相手を肉弾戦で斬り込んでゆく日本の玉砕への悲惨さは、涙を堪えるのに必死だった。

米軍からの圧倒的な攻撃を恐れ、国内の供給も逼迫していたため、
海軍上層部は補給をやめて、アッツで皇国のために死ね、という通牒を出す。

戦後、アッツ島には米軍には慰霊碑がたち、米国人はアッツで玉砕した日本軍将兵を丁寧に慰霊しているのに対し、日本側は戦後からずっと、戦没者を野晒しにしているとの記述を読み、やりきれない気持ちになる。
彼らはどんな思いでツンドラの氷土に眠っているのだろうか。。。。
この気持ちを忘れずに、どこかのだれかに、自分なりの作品で伝えたい。

本を読みながら、
私の祖父が自ら入隊希望に役所に行った話を思い出した。

規定の年齢に達してなかったが、地元のみんなが戦地に赴くのに、自分だけが残るのは大層心苦しい気持ちで、「わしも入ります」と、赤紙がくる前に入隊した。

役場でどこに配属か一列に並んで待っていると、自分には「海軍の○○へいってくれへんで」と内地の出動を伝えられ、「ハイ」と答えた。
立ち去った瞬間、すぐ後ろの列には、「おまはんらは沖縄に行ってくれへんで」という声が聞こえたという。

間一髪だった。
自分が恵まれていたことを知ったのはその後だった。

それからどこぞの船の(詳細は聞いていない)烹炊係となり、終戦前に九州の飛行場に主計係として移動した。

ただ、祖父としては、憧れの東京で、芝の海軍兵学校で学べたことは、戦時中1番の、そして人生上の中でも「とても嬉しかったこと」らしい。

祖父は長兄が早死し、家継ぎを託されていたので、尋常小学校で学歴は終えている。
一生農夫として過ごす道が定められており、東京や、学問にはご縁なきものと諦めていた。

ただ、うちの家族の中で、一番頭は切れており、朝日、毎日、読売、農業新聞に毎日目を通し、国会中継をいつもみていた。
小学校の通知表が全て甲だったものをみせてもらったこともあり、私と社会問題で話し合っていても論では強かったし歯は立たなかった。

「響喜ちゃんはええなあ、大学に行けてええなあ。」

と、三流大学でガックリしていた私に、いつもそういっていたのを思い出す。

当時は、「別に有名大学でもなし、行かんでもええんやけどな。。。」と思っていたが、
今なら、賢かった祖父がどれだけ外へ出てゆき、学問を学び、もっと知見を広げたかったかが痛いほどよくわかる。
来世生まれ変わった時は、是非ともグローバルに留学等出来る身分で生まれてほしいと願う。

人には世代世代で、「ハンデ」というものを必ず追わされる。

祖父母の時代は戦争で人生が大きく変わって時代だった。最も過酷だった。

父母の時代は、富めるもの、貧しきもので価値観が大きく変わる時代であっただろうし、働けば働くほど稼げた時代だった。

我々の世代は、バブルがはじけ、日本の斜陽化が始まり多様な情報とITとをいかに使いこなしてゆくか、という問題があるが、多様性が認められ、よりコンプライアンスが明確になってきた、やはり恵まれた世代だと思う。

私は昔の時代に強い興味を持つが、生きるなら今が最もいい。

恵まれた自分には、やるべきことがある。

持ち込みがうまくいかなかったぐらいで、落ち込むことなど。。。。
過酷な戦地で生きたくても生きれなかった、
そのような人の声を毎日のように聞いていれば
己の悩みなどノミ以下にすぎない。

まだまだ甘い。
やりたいことをぶつけてゆくのだ。

覚悟を持って、諦めずに進んでゆきたい。


この記事が参加している募集

読書感想文

新生活をたのしく