他人に悪意をぶつけられた場合。
人の善意や好意を、心の底から嬉しく思い、「涙が出る」とまではいかないにしろ、「心がとても暖かくなったわ・・・。」っていうような経験って、1年のうち、どれくらい出来るものでしょう。
「ほとんど、毎日、そういう実感を得られてます♪」っていう人は、とても幸せで素敵な人ですね。
ただ、多くの人が、たまにはあるけれど、たまにあるだけのものだし、「その喜びがずっと続く実感なんてのはほとんどない」ってのが普通だったりするのではないでしょうか。
いやね、何でそんなことを書いたかと言うと、人の悪意ってすんごいパワーを持っているじゃないですか?
20年前、30年前に、誰かに言われた「たった一言のひどい言葉」を今でも覚えている人って結構多いと思います。
そのシーン、その感覚を今でもリアルに思い出せたりする。
それってね、しょうがないことではあると思うんです。
なぜなら、人間は「自分の身を守ろう」という防衛本能を持っていて、「痛み」を簡単に忘れてしまうと、また「痛みを招きがちな行動」を取ってしまいやすく、それは生存をおびやかす結果につながりやすくなってしまうから。
「痛み」を忘れないことで、さらなる「痛み」を避けようとする。
それはそれで、必要なことではあるんですが、困るのは、20年前、30年前の「痛み」が、今でもリアルに存在し続け、リアルに自分を痛め続けてしまうこと。
「身体の痛み」は時間と共に消えていくことが多く、「タンスの角に小指をぶつける悲劇」を経験した人は、その痛みを学習能力として獲得して、避ける努力をしようとするわけですが、「タンスの角に小指をぶつけるなんて、何て俺はダメなやつなんだろう・・・。なんてバカなんだろう・・・。」なんてことを思い出して寝込んでしまうような人は少ない。というか、いないでしょう。
でもね、「おまえ、うざい。」っていう一言は、思い出すだけで今でもリアルに寝込んでしまうような痛みを持ち続ける。
それ、痛みが癒えていないから、今でもリアルに痛みを感じてしまうわけですね。
誰でもね、「転んでケガをした」っていうようなことなら、慰めてもらえます。周りの人が癒やそうとしてくれる。「だいじょうぶ?痛くない?」って言ってくれる。
でも、「心の痛み」の場合、「タンスの角に小指をぶつけた」ような、「まあ、しょうがないことだった。」ってことは中々思えず、どこかで、「自分が悪いからだ。」「自分にも悪いところがあったからだ。」「自分にも良くないところがあるからだ。」っていうような自己否定を持ちがちで、周りの人間からも、そんな感じのことを言われがちだったりします。
「努力が足りない」とか、「相手を怒らせたお前が悪い」とか、「言われるだけの理由がどっかにあったんじゃないの?」とか。
でもね、そんなことはないんですよ。
「誰かの悪意」も、出来事としては「タンスの角に小指をぶつけた」ってことと同じで、自分を苦しめる自己否定感を持ち続け、強化し続ける必要なんてない。
「どうして、俺は、もうちょい部屋の真ん中を歩かなかったんだ・・・。」なんてことに悩み続け、心を痛め続ける必要がないのと同じで。
悪意をぶつけられるのは苦しいです。
敵意を投げられるのは苦しい。
自分を否定されるのは、本当に苦しい。
でも、あなたは何も悪くはないし、そんな悪意をぶつけられる理由もないし、悪意を受け入れて自己否定を続ける理由なんてのもない。
痛みを感じてしまうのはしょうがないけれど、痛みを感じ続けなければいけない理由なんてのはない。
「タンスの角」だと思うことです。
「悪意をぶつけた人間」なんてのは、バカでアホでろくでもなくて、「でかいばかりで役に立たない能なしのセンスのないタンス」と同じようなものであると思っちゃう。
空気も読まずに無駄にでかいだけのバカなタンスなんだから、小指をぶつけてしまうのもしょうがない。
あなたは何も悪くない。
痛みが早く消えるといいですね。
#日記
#エッセイ
#コラム
#恋愛
#人生
#生き方
#ライフスタイル
#人間関係
#コミュニケーション
#悩み
#恋
#人生哲学
#友達
#人生観
#考えたこと
#死
#人生論
#別れ
#コミュニケーションスキル
#悲しみ
#闇
#思いやり
#苦しみ
#付き合い
#音楽
#詩
#ビジネス
#ブログ
#note
#恋愛
#仕事
#映画
#日常
#人生
#毎日更新
#毎日note
#アート
#読書
#動画
#旅
#つぶやき
#本
#言葉
#生き方
#ライフスタイル
#雑記
#夢
#ポエム
#ひとりごと
#教育
#毎日投稿
#自己紹介
#ライター
#推薦図書
#youtube
#家族
#人間関係
サポートありがとうございます!! 頂いた応援でエビスビールと芋焼酎とラーメンを頂いて、本を買います!