輝く湖水〜廻る景色と螺旋の地図
ーーえ。なぜ、「あなた」が、ここにいるの?
ーーこんなところに、隠れていて、そうして、急に出て来て、わたしをびっくりさせるなんて、「あなた」は、ほんとうに、ずるいよ。。
長年の憧れの「天智天皇」が鎮座ましている近江神宮の「時計館」で、何のこころの準備も無いまま、突然に、桃山時代の絵師「海北友松」が描いた「仙人の画」を、見せつけられたわたしは、眼の前の、「画」に向かって、思わず、そう、呟いた。
こころのなかの「古代の庭」を、のんびりと散策していた、それまでの「安穏とした平和な時間」が、たった「一枚の水墨画」の出現によって、一瞬のうちに、「すっかり台無し」になってしまったからである。
「武士」で在りたかった「海北友松」は、「時計館」で、密かにわたしを待ち受けていて、そうして、出会い頭に、その「筆力」で、弛緩しきっていたわたしのこころを、一刀両断に、ばっさりと、切り捨てにかかって来たのだ。
ーーやっと、来たね。
ーー「あなた」は、「わたし」に「逢うため」に、ここに、来たんでしょう?
そんな「言葉かけ」までもが、「その画」から、聞こえて来たような気が、したのだった。
「海北友松」から放たれた、「会心の一撃」で、「古代一色」だったはずのわたしのこころには、もう、すでに、修復が不可能なほどの、大きな「風穴」が、空いてしまっていた。
ーー殺られた。
ーーまさかの隙を、狙われてしまったよ。。
「殺されかけたわたし」は、だから、まるで、逃げるかのように、「時計館」を飛び出し、命からがら、「近江神宮」を、後にした。
「行き」に、間違って、「正規の参道」を通らずに「お宮」に入ってしまったことを反省して、「帰り」くらいは、ちゃんと、「大きな木の鳥居」をくぐって、「正規の参道」から出ようと計画していたはずだったのに、「命からがら」なわたしは、そんなことも、すっかり忘れてしまい、「近江神宮」の「長い階段」や「だらだらと続く坂道」を、転がるように下って、気がついたら、もう、もと来た「近江神宮入口」の車道に、立ってしまっていたのだった。
そのうえ、行きには、「写メ」などしながら、一時間以上もかけて、浮き浮きと散策した「大津京跡地」を、帰りは、「海北友松の残像」を、必死に、追い払うかのように、大慌てで、振り切るようにして歩き、あっという間に、わたしは、旅行カバンを預かって貰っている「おじさんの電気屋さん」にまで、舞い戻って、しまっていた。
ーーわたしは、「大津京跡地」を見に来たんだ。「天智天皇の近江神宮」にお参りに来たんだ。
ーー「海北友松」を見に来たんじゃないもの。。
ひとつのこころは、そう、叫んでいたけれど、もうひとつのこころの真んなかには、「海北友松の画」がどっかりと居座っているのを、どんなに早足で歩いても、わたしは、振り払うことが、出来ずにいて、そのことが、なんだか、とてもとても、悔しかったのだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「どうでしたか? 近江神宮は楽しめましたか? お天気になって、暑くなって来ましたね。」
お店に入っていったわたしに向かって、普通に、話しかけて来てくれた、電気屋さんのおじさんの声で、わたしは、我に返った。
「海北友松」が、「わたしを追いかけて来る」なんてことは、あるはずもないのに、わたしは、いったい、なぜ、あんなにも、動揺してしまっていたんだろう。。
自分の発想のおかしさに、ようやく、気がついたわたしは、にこやかなおじさんの前で、少し、恥ずかしくなった。
ーーおじさんに、お礼を言わなきゃ。
気持ちを、無理やりに、切り換えようとしたわたしは、おじさんの問いかけに対して、必要以上にニコニコして、すこぶる熱心に、答えてしまっている自分に気づいて、ますます恥ずかしくなっていた。
「近江神宮は、拝殿まで、坂道と階段が、ずいぶんと、多いんですね。荷物を預かって戴かなかったら、とてもとても、辿り着けませんでした。ほんとうに、助かりました。ありがとうございました。」
途中には、お店ひとつ無かったので、おじさんには、申し訳なかったけれども、自販機で買って来た、気持ちばかりの「お茶とコーヒー」を差し上げ、よくよくお礼を申し上げて、旅行カバンを受け取ると、わたしは、そそくさと、電気屋さんを、あとにして、すぐ前にある、京阪電車の「近江神宮前」駅のホームに向かったのだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
京阪電車の「石山阪本線」は、湖西から湖南の、「坂本比叡山口」と「石山寺」とのあいだを結ぶ、二両編成で、緑色の、可愛らしい電車である。
日常の暮らしに溶け込んだ、「街の足」といった感じで、老若男女、さまざまなひとたちが、それぞれの用事を足すために、さりげなく、利用している有り様が、わたしには、なんだか、とても、懐かしく感じられた。
もしかしたら、「市電が走る街」で育ったから、そんなふうに、感じたのかもしれない。
「近江神宮前」から乘車したわたしは、「京阪大津京」と「大津市役所前」、そして「三井寺」を通り過ぎ、その夜宿泊する予定のホテルが在る「びわ湖浜大津」まで行って、その可愛らしい電車を、降りた。
「びわ湖浜大津」は、昨年の十二月に、
「琵琶湖(うみ)を見なくちゃ。」
と、思い立ったときに、はじめて訪ねた「滋賀県の街」だった。
二十年以上前に、「下北沢」で出会って、好きになった「滋賀県」出身のバンドが、たまたま、そのころに、「びわ湖はま大津」のライブハウスで、ライブをすることを知り、
ーー「琵琶湖」と「好きなバンドのライブ」の両方が観れたら、楽しいかもしれない。
などと、かなり、呑気に考えて、決めた日程だったのだ。
「駅舎」から出たわたしは、昨年、はじめて「この街」に降り立ったときの、どちら側に「琵琶湖」が在るのかも知らない、まだ、「琵琶湖」について、「何も、考えていなかったころの自分」のことを、妙に、思い出してしまって、なんだか、気恥ずかしいような、照れくさいような感覚にとらわれた。
たった半年ほど前のことなのに、ずいぶんと、「以前のこと」のように思われたのだ。
昨年と同じホテルに、宿を取っていたわたしは、迷うはずもなく、十分後には、もう、フロントに、立っていた。
そうして、知った顔のホテルマンにチェック・インの手続きをしてもらい、朝食の説明を受け、カードキーをもらって、勝手知ったる風な顔つきをして、エレベーターに乗り込んだのだった。
ーー日本的な旅館も、情緒豊かで素敵だけれど、やっぱり、わたしは、完全個室で、密室的な雰囲気の、ビジネスホテルのほうが、性に合ってるな。。
そんなことを、ぼんやりと、考えているうちに、エレベーターは、十階に着いた。
昨年宿泊したときには、窓の外に、ビルしか見えない低い階の部屋に案内されて、少しがっかりしたのだけれど、今回の部屋は、階が高いから、眺望に、期待が出来そうだ、などと考えながら、部屋のドアに、カードキーを当てた。
そうして、部屋に入り、電気を点け、まだまだ明るい外を眺めようと、窓枠に掛かるカーテンを、開けたのだった。
ーーまぁ。すごい。。
「眺め」が目に入って来た、その瞬間に、わたしは、小さな声で、ひとり、叫んでいた。
窓いっぱいに、「パノラマ」のような「琵琶湖」の「景色」が、縦に長く、ずうっと遠くまで、拡がっていたからである。
すっかり晴れて、高くなった空は、どこまでも真っ青で、少し先には、「琵琶湖大橋」さえも、はっきりと、光って、見えていたのだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
晴れ上がった明るい「夕方のヒカリ」を受けて「さまざまな色に輝きながら、光り続ける湖水」を目のあたりにして、わたしは、またまたその「色の変化」に、こころを奪われてしまい、少しも、荷物の整理が、進まなくなっていた。
ーーもう。。 いったい、わたしは、どれだけ、「あなた」のことが、好きなの?
どうしても「湖水」から目を離すことが出来ない自分に、すっかり呆れ果てて、わたしは、小さく、ため息をついた。
ほんとうは、わたしは、「水が怖いひと」のはずなのだ。
「海」は、実は、苦手だったりする。
泳げるから、若いころも、子育て中も、「プール」では、よく泳いだけれども、自然のなかで、眼の前に、「大きな水」が、「一面に拡がって」しまうと、途端に、怖くなる。。
「大きな波」が、「寄せ返し」を、くり返して来たりしたら、なおさらに、怖い。
それなのに、「大きな水」が「一面に拡がっている」はずの「琵琶湖」は、「ちっとも怖くない」のだった。
ーーもしかしたら、わたしが、本能的に、「怖い」と感じているのは、「大きな水」ではなくて、「潮の香り」や「寄せてはかえす大きな波」のほうなのかもしれない。。
なんとなく、そんな気がして来た。
「潮の香り」や「寄せてはかえす大きな波」は、その「生臭い空気感」のなかに、「存在の不確かさ」を孕んでいるように、感じられる。
そうして、それはわたしに、「流転の不安」を、想起させるのだ。
想起された「流転の不安」は、
ーー「全ての存在」は、やがて、必ず、どこか遠くに、連れ去られて行ってしまう。
という「無常の掟」を、「摂理」として、わたしに、突き付けて来る。
その「想像」が、「大きな水の在り様」と共に、迫って来るとき、おそらく、結果として、わたしのなかに、「恐怖」が、生み出されてしまうように、思われるのだ。
けれども、「琵琶湖」には、「大きな水」が、たっぷりと、「一面に在る」だけで、「海」のような「潮の香り」も、「寄せてはかえす大きな波」も、日常的には、存在していない。
「海」とは異なって、「琵琶湖」の「主役」は、あくまでも、「湖水そのもの」なのだ。
その「主役」は、刹那ゝの「ヒカリ」を受けて、多彩な「色合い」を見せつつ、変化をくり返しながらも、変わらずに、輝き続けている。。
今回の旅で、わたしが、「湖水」の「輝き」と「色合い」だけを気にして、ずうっと、そればかりを、飽かずに眺め続けて来たのは、本能的に感じた「琵琶湖の本質」を、ただただ、理解しようとしていたから、なのかもしれなかった。
ーーどんよりと、分厚く曇った空の下で、まるで「水墨画」に描かれたように、「墨の濃淡色」だった湖水。
ーー白っぽくて淡いお日さまの「ヒカリ」を受けて「真珠色」に輝いていた湖水。
ーーしだいに晴れて来て、明るくなったお日さまの「ヒカリ」を受けて「きれいな水色」に輝いていた湖水。
そうして、今、
ーーまだ明るい、傾きかけたお日さまの「ヒカリ」を受けて、「オパール色」に、さまざまな「色合い」に光りながら「パノラマ」のように、縦長に拡がっている「湖水」。。
「琵琶湖」の「湖水」は、「無尽蔵な色合い」を、隠し持っていて、そのときどきに、受ける「ヒカリ」に合わせて、似合った「色合い」を、自ら選んで、「表現」して来ているようにも、見える。
いつまで観ていても、飽きないのは、微妙に移り変わる空の「ヒカリ」を受けて、「輝く湖水」が「表現」して来る「色合い」には、同じものが、ひとつとして無いから、なのだった。
ーーそうか。「琵琶湖」は「天然の万華鏡」なんだ。。
一気に「謎」が解けたようなおもいがして、わたしは、なんだか、安心してしまった。
そこからは、
「もう、湖水に夢中なわたし、でいいや。」
と、観念した。
抗うことは、やめにして、おもいのままに、過ごすことにしたのだ。
早めにお風呂に入ることなどは、きっぱりと諦めて、わたしは、ずうっと「輝く湖水」に「魅了」され続け、「格別に贅沢な時間」を、過ごしたのだった。
ーー「絵」が描けたなら、きっと、もっと、良かったのにな。。
そう思った瞬間、昼に観た「海北友松の画」のことが、すーっと、頭を、かすめた。
ーー長浜で生まれた「彼」は、「琵琶湖を描いたこと」が、あったのだろうか。
「雲龍」や「竹林七賢」や「仙人の画」は知っていても、「彼」が描いた「琵琶湖の画」なんて、わたしは、知らない。
ーー「京都」に出されてからの長い人生のなかで、「彼」は、一度でも、「帰郷すること」が、出来たのだろうか。
「謎の絵師 海北友松」の日々の足取りは、残念ながら、新たな資料が発見されない限り、全くわからないのだった。
ーーもしも、「彼」が「琵琶湖」を描いたなら、どんなふうに「表現」しただろう。。
旅の初日に観た、「水墨画」のようだった「湖水」の色を、わたしは、思い出していた。
「近江神宮」の「時計館」で、いきなり、「仙人の画」を見せられたときは、あんまり、思いがけなかったから、すっかり、驚いてしまったけれど、「海北友松」は、わたしの人生に、ひとつの「視点」をくれたひとだ。
この旅の途中で「再会」してしまったことには、きっと、なにかしらの「意味」があるのだろう。。
なんとなく、そんなことを、思った。
やがて、「琵琶湖」が、すっかり日暮れて、「湖水」が、真っ暗になったタイミングで、わたしは、大急ぎでシャワーを浴びた。
濡れた髪にタオルを巻いて、慌てて浴室から出て来たわたしの眼の前に、今度は、「湖水」から、色の付いた「ヒカリの噴水」が、幾筋にも吹き上がっているのが見えた。
「びわ湖花噴水」だった。
ーーこれは、もう、「長編映画」だね。。
すでに、観念しているわたしは、駅前のコンビニで購入しておいた缶ビールで、ひとり、乾杯をして、すっかり冷えたお弁当を食べながら、「移り変わる色の花噴水」に照らされて、キラキラ光る「湖水」や、色変わりするように見える「琵琶湖汽船」を、相変わらずに、飽きることもなく、眺め続けたのだった。
そのうちに、早朝から、さんざん歩き廻った疲れが出て来たのか、さすがに眠くなって来たので、わたしは、ようやく諦めがついて、カーテンを閉めた。
午後四時ころにチェック・インしてから、もう、すでに、五時間以上も経っていた。
ーー明日は、「三井寺への再訪」だ。
昨年、三井寺の一番高い「展望台」から臨んだ「琵琶湖」は、空が快晴だったにも拘らず、「湖水」の上にだけ、雲がかかって、巧妙に「隠されて」しまっていた。
そうして、「大きな哀しみ」だけが、信号のように、わたしに向かって、送られて来たのだった。
ーーなにが、そんなに、哀しいの?
「隠れている湖水」に向かって、わたしは、そう、話しかけることしか、出来なかったのだ。
ーー今回は、どうだろうか。。
そんなことを、考えているうちに、わたしは、いつの間にか、眠りについた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
翌朝は、「快晴」だった。
今日は、もう、帰宅の途に着かなければいけないのだけれど、それでも、雲ひとつない青空は、嬉しかった。
勢いよくカーテンを開けると、「眺めの良い窓」から、明るくなり始めた「朝の琵琶湖」が、目に飛び込んで来た。
ーー良かった。あなたは、もう、ちっとも、哀しくないんだね。
わたしは、「光る湖水」に向かって、そう、呟いて、今、まさに、眩しく昇ろうとしているお日さまに向かって、ちょっと、おどけた敬礼をして見せた。
眼の前の「湖水」と「お日さま」が、わたしに、「明るい表情」を見せてくれていることが、なにより、嬉しかったからだ。
昨年の十二月に見た、「日の出」のはずなのに、「昇る朝日」が、「沈んでゆく夕日」にしか見えなかった、「暗い表情」の「琵琶湖」を、わたしは、いまだに、忘れることが出来ずにいた。
それでも、今回の「琵琶湖」は、前回とは、全く違った「表情」を、わたしに見せてくれている。
全然「哀しくない」のだ。
今回の「琵琶湖」は、感情的ではなく、とても、穏やかなのだった。
昨年の「琵琶湖」は、いったい、なんだったのだろう。
ーー三井寺に、確かめに、行こう。
遠い山の端に昇る「日の出」を、部屋に居るままで、十二分に、堪能することが出来たわたしは、早めに朝食をとって、「眺めの良い窓」から見渡せる「輝く湖水」に、名残惜しく、別れを告げ、また、二両編成で、緑色の、可愛らしい京阪石山阪本線に乗って、三井寺へと向かった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「三井寺」は、「びわ湖はま大津」の、すぐとなりの駅である。
実は、歩いて行けるほどの距離なのだけれど、京阪石山阪本線の電車が、あんまり可愛らしいから、わたしは、また、乗ってしまったのだった。
「電車」の、「色」と「形」とその「音」に惹かれると、何故か、また、乗りたくなる。
今まで、気づいていなかっただけで、わたしは、意外と、結構な「乗り鉄」なのかもしれなかった。
たったひと駅乘っただけでも、満足して、わたしは、「三井寺」の駅で、京阪電車を降りた。
そうして、「琵琶湖疏水」を眺めながら、十分ほど歩いて、今回は迷うこともなく、三井寺入口の「仁王門」に着いたのだった。
見上げるほどに大きな「仁王門」をくぐり、受付で、年若いお坊様に、拝観料を納めて、わたしは、ようやく、「三井寺のなか」に入った。
昨年訪れたときに、初冬だった景色は、晩春へと移り変わっていた。
訪ねたのは、まだ、二回目でしかないのに、自分が、とても、しっくりと、その場所の空気に馴染めている感覚がして、
ーーなんだか、まるで、「自分の家の庭」を歩いているみたいな気楽さだな。。
などと、思いながら、わたしは、参道を、歩きはじめた。
だらだらと続く坂道を登り切り、左手にある、龍神さまの手水舎で身を清め、眼の前の急な階段を登って、伽藍の並ぶ敷地内に入ると、すぐ左側に、「御神籤のお店」が、あった。
昨年、訪ねたときも、引かせて戴いたお店だ。
「こんにちは。御神籤を、お願いします。」
「はいはい。ありがとうございます。どうぞ、そこに置いてある箱から「お好きな紙札」を選んで下さいね。」
奥に座っていたおばさんは、そう言って、数枚の紙札が入れてある、店内の四角い箱を、指し示した。
選んだ紙札を手に、一旦、お店を出て、外にある「御神籤用の置き水」に浸す。
すると、紙札に、「番号」が浮き上がって来るのだ。
また、お店に戻って、待っていてくれたおばさんに、「番号が浮き出た紙札」を手渡すと、その番号の「御神籤」が、戴ける。
それが、三井寺の御神籤の「流儀」なのだった。ひとひねりされた感じが、なんとも、風流である。
「まぁ。あなた、よい御神籤を、お引きになりましたね。」
渡された紙札の番号を見て、おばさんは、そんなことを言いながら、私を見て、微笑んだ。そうして、
「これは、あなた、なかなか出ない番号なんですよ。ほんとうに、運が、良かったですねぇ。この番号が出たことをお話ししたら、ご住職さんも、きっと、お喜びになりますよ。」
おばさんは、目を細めて、にこにこしながら、とても喜んで下さったのだった。
「まぁ。そうなんですね。ありがとうございます。」
わたしは、おばさんから、御神籤を受け取って、お店を出た。
見ると、「大吉」と書かれている。
ーー今回引いた御神籤は、全部、大吉だ。嬉しいな。
そう思いながら、内容を読んでみて、わたしは、さらに、驚いた。
こう書かれていたのだ。
ーーこのみくじにあたるひとは 立身出世あれども ものごとすべて おそくじょうじゅする
ーーまちびと おそく来る
ーーえ。また、同じなの?
驚いたわたしは、思わず、そう、呟いた。
何故なら、「白髭神社」で引いた御神籤にも、「近江神宮」で引いた御神籤にも、ほぼ、同じことが、書かれていたからである。
今回の旅で、御神籤を引いた三箇所の、全てから、わたしは、同じ「ことがら」を「告げられた」ことになってしまったのだ。
『願いごとは、必ず、成就するけれども、すべては、ゆっくり来る。急いではいけない。』
ーーこんなことって、ありなの? 信じられないけれど。。
ーーでも、これは、きっと、わたしにとって、「夢夢忘れるな」くらい、「大切なお告げ」なのだろう。
ーー三井寺で、めったに出ない番号の、ご住職が喜ぶほどの「良い御神籤」にまでも、わたしは、「同じこと」を告げられたのだから、もう、「極め付き」だ。。
あらためて、自戒した。
ーーわたしは、思い立ったら、行動に移すのは素早いけれども、結果は急がない。むしろ、かなり、気は長いほうだから、きっと、大丈夫。
そう、思ったのだった。
荘厳で、大きな「金堂」に廻ると、そこでは、期間限定の「特別公開」が行われていた。
そんな期間に、遭遇出来ただけでも、「御利益」を戴けそうなほどの、有り難い「特別公開」だったけれど、時間もあまり無いことだし、当初の予定をこなした上で、時間が許してくれそうだったら、観せて戴こうと決めて、わたしは、とりあえず、「金堂」のすぐ後ろ側に鎮座ましている「三井の霊泉」に向かった。
「中大兄皇子=天智天皇」、「大海人王子=天武天皇」、そして天智天皇の娘であり、天武天皇の皇后でもあった「持統天皇」という、三代の天皇の「産湯」に使われたと謂われている「三井の霊泉」は、荒れ果てていた「園城寺」を再興した「円珍」が、「三井寺」と名付けるに至った由来となった場所、でもある。
「天智天皇」の時代に惹かれているわたしにとっては、数ある三井寺の建築物のなかでも、一番に、大切な「スポット」なので、ごく自然に、まずは、そこから、「お参りしたい」と、思ったのだ。
「霊泉」は、今は、「桃山時代」に創建された、重厚な「閼伽井屋《あかいや》」(仏様に備える霊水を用意する場所)のなかに、厳重に、護られている。
屋根正面下の、蟇股(かえるまた)と呼ばれる部分には、左甚五郎作の「龍の彫刻」も備わっていて、「水神様らしさ」が、より、増している感じがするのだった。
「ぽこっぽこっ。。」
「三井の霊泉」は、昨年、はじめて観せて戴いたときと同じように、「小気味のよい音」を鳴らしていた。
悠久のむかしから現在まで、起こった出来事の全てを、その身に感じながらも、「霊泉」は、ただ、ひたすら、無心に、湧き続けているのだった。
ーーあなたは、ほんとうは、なんでも、知っているのに、「知らんぷり」を決めこんで、居るんだよね。。
めまいを覚えるほどの「ときの流れ」に、おもいを馳せつつ、「霊泉」が「さし出す音」に、敬意を込め、わたしは、手のひらを、合わせて、こころからの「お参り」をした。
ーーこれで、「霊泉」への「お参り」は、「二度め」になったな。
わたしは、小さな声で、なんとなく、そう、呟いた。
すると、
ーー違うでしょ?。。
即座に、わたしのこころの奥底から、「不可思議な感情」が、湧き出して来たのだ。
立っていた「空間」が、急激に、歪んで、一瞬のうちに、「知らないとき」のなかに、閉じこめられたような、「奇妙な感覚」が、した。
ーーわたしは、よく、ここを、視ていたではないか。
そんな「おもい」が、こころのなかで、反響するように、響いて来たのだ。
「名のつけようの無い緊張」が、わたしの脳裏に、走った。
やがて、抗うことなど、到底出来そうにない「そのおもい」は、どんどんと、大きくなって、わたしを、包みこんで来た。
ーーわたしは、ここに、居たことがあるんだ。。
金堂から、少し坂を昇って、山側を歩いてゆくと、「その漠然としたおもい」は、しだいに、「確信的なおもい」に変わっていった。
ーー歩いていたんだ、わたしは。かつて、この辺りも、この道も。。
そこは、昨年訪れたときに、「古代」の「衣装」を纏ってしまったかのような感覚をおぼえた「紅葉の道」だった。
突然「何かの記憶」が、「甦った」のか、今、踏みしめて歩くその道は、かつて、自分が、朝に夕に、「散策」をしていたに違いない、と思わざるを得ないほど、ただ、ひたすらに、懐かしいのだった。
ーー早く、「展望台」に行ってみなくちゃ。
どんな景色を見せられるのか、わたしは、急いで、確かめなければいけないような気持ちがしていた。
昨年と、ほぼ同じ道を通って、わたしは、高台に鎮座ましている、西国三十三所霊場第十四番札所の「観音堂」までの、長い長いだらだら坂を、出来る限りの早足で、歩きはじめた。
「観音堂」は、その坂道を登り切った先にある、急な長い階段を、さらに、最後まで昇ったところに在って、その敷地内の一角に、「琵琶湖が見渡せる展望台」が、設けてあるのだった。
ーー「湖水」は、見えるだろうか。
気が急いて、どんどんと、早足になっていたわたしは、すでに切れた息を、誤魔化しながら、一歩一歩、階段を昇って、ようやく、「展望台」に、辿り着いた。
弾む息のまま、すこし、高くなっている展望台のスペースから、「湖水」の方向に目を移して、わたしは、普通に、驚いた。
ーーこんなにも、見渡せるんだ。。
昨年の「隠された湖水」とは、まるで違った「景色」が、わたしの眼の前に、大きく、拡がっていたからだ。
真っ青な空の下、昼どきのお日さまの、まばゆい「ヒカリ」に、照らされた「大きな湖水」は、「きらきらとした透明感のある水色」に、どこまでも、広く、悠然と、輝いていたのだった。
対岸の、遠くの山までもが、輝いて、見えているさまは、例えようもないほどに、壮観な景色だった。
ーーまた、あの、「高い展望台」まで、登ってみよう。
昨年訪れたとき、観音堂に向かう道すじの「茶屋」で働いていた若い女のひとに教えて貰った、少し高い、山の上の「展望台」を目指して、わたしは、奥まった側の山道に付いている階段を、さらに上のほうにまで、登って行った。
昨年は、「湖水」に向かって、
ーー何が、そんなに、哀しいの?
と、話しかけることしか出来なかった「ベンチ」のところまで、行ってみたのだ。
ーーまぁ。。 湖水が、あんなに、遠くまで光っている。。
そこには、さらに遠くまで見える「輝く湖水」と、対岸の、いくつもの「青い山々」が見渡せる「国見のような景色」が、どこまでもどこまでも、拡がっていた。。
ーーありがとう。 わたし、やっと、見せてもらえた。。
晩春の爽やかな風が、新緑の繁った木々を揺らして、心地よい。
少しも寒くなんかないのに、からだのなかを、何か不思議な「悪寒」が、通り抜ける「感覚」がして、わたしは、思わず、びくっと、身震いをした。
からだの奥底から、自然に、「ひとつのおもい」が、込み上げて来たのだ。
ーーわたしは、この景色を、よく知っている。こんなふうに、山の上から、「琵琶湖」を、見降ろしていたことが、以前にも、あったのだ。。
眼の前の「景色」が、わたしに向かって、まっすぐに、「そのおもい」を訴えて来ているような気がして、わたしは、思わず、背筋を伸ばした。
ーーあなたは、わたしに、「教えてくれている」んだね。
ーーこの土地もまた、「かいなんの地」なんだよって。。
まるで、「たましい」から、直に発信されているかのように感じられる「記憶」が、しだいに、わたしのからだ全体を、包み込んで来た。
ーーこの景色の「懐かしさ」は、尋常ではない。。
初めて視たはずの景色を前にして、わたしの胸は、「郷愁のような感情」で、いっぱいになっていた。
自分が生まれ育った、ほんとうの「ふるさと」にさえ、抱いたことがないほどの、こころの奥底から湧き出てくるような、それは、「郷愁」としか名のつけようのない「おもい」だったのだ。。
思わず、泣いてしまいそうになったわたしは、突き上げてくるそのおもいに、なんだか、負けたくなく思って、抗うように、目を、見開いた。
そうして、大きく、大きく、息を吸い込んで、「深呼吸」をしてみたのだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
不可思議な「人生の謎」が、また、ひとつ、解けはじめたように感じて、こころが、少し、軽くなったわたしは、結構な、早い足取りで、「観音堂」の山を下り、入口の「金堂」付近まで、舞い戻って来た。
「早く、展望台に行かなくちゃ。」
とばかりに、気が急いて、「観音堂」まで、早足で、駆け上がって行ったために、実は、まだ、思ったほどには、時間が経っていないことに、気がついたわたしは、
ーーこの際だから、「期間限定」の「有り難い特別公開」も、観せて戴こう。
と、決心して、「金堂」の入口で、脱いだ靴を、備え付けの下駄箱に仕舞うと、歴史を感じる木の階段を、昇って、「金堂」のなかに入った。
「期間限定」の「有り難い特別公開」とは、「百体観音」というものだった。
全国に散らばっている、三つの地方の「札所」、すなわち「西国三十三所」、「坂東三十三所」、「秩父三十四所」の各札所のご本尊のお姿を模刻した、合わせて「百体の観音像」が、一堂に会し、「金堂」の一角に安置されていて、その場所に入ったひとは、有り難い「百体のご本尊さまたち」を、いちどきに拝めてしまうという、大変に「貴重な公開」なのだった。
「金堂」の内部では、普段から、さまざまな「常設展示」がされていて、いくつもの、時代の特徴を備えた「仏像たち」を拝めるのだけれども、この、「百体観音」を観せて戴くためには、特別に仕切られた、黒い幕の前で、お坊様に、「護摩」を焚いて頂き、「身を清めてから」でないと、入れてはもらえない。
ひとりひとり、お坊様に「護摩」を焚いて頂くのは、やはり、手間がかかるので、重々しい黒い幕の前には、常に、五、六人のひとたちが、列んで、順番を待っていた。
わたしも、列に加わり、順番を待って、身を清めて頂くと、幕の前に立っていたお坊様が、
「はい、どうぞ。」
と、黒い幕を少しずらして、奥まった展示の部屋へ、入れてくれた。
入ると、中は、かなり暗くて、最低限の明かりしか、灯されていない。
ずらりときれいに並んだ「百体の観音さま」たちが、暗闇のなかから、浮かび上がって見えるさまは、「厳粛」で、「大変に見事」としか、言いようが無かった。
最後に並ぶ「秩父三十四所」の観音さまたちの前で立ち止まったわたしは、ごく若いころに、「秩父」のいくつかの「札所」を、結婚する前の夫と、よく訪ねていたことを、思い出した。
まだ、現実に生きる厳しさも、あまり知らず、
ーーどうか、二人が、しあわせになれますように。
と、札所の観音さまに向かって、無邪気に、手を合わせていたことが、無性に、懐かしく、思い出されたのだった。
お坊様に「護摩」を焚いて頂き、さらに「百体もの観音さま」を、一度に拝観出来たことは、偶然に遭遇したにせよ、大変に、「有り難い」ことだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「三井寺」は、正式には、「長等山園城寺《ながらさんおんじょうじ》」という名称で知られる「天台寺門宗の総本山」である。
実際に参ってみると、よくよく分かるのだけれど、千三百年以上も前から、この地に在る「三井寺」とは、いったい、どのようなところなのかと問われても、ひと言で語ることは、意外と、難しい。
それほどに、このお寺は、さまざまな「お顔」を、持っているからだ。
「三井寺」は、一般的に、公開されている「御由緒」では、
天智天皇亡きあとに勃発した、後継争いの「壬申の乱」で、大海人王子と戦った末に、敗れて、自死することを余儀なくされた、天智天皇の息子「大友皇子《おおとものみこ》=弘文天皇」の、息子である「大友与太王《おおとものよたのおおきみ》」が、父の菩提を弔うために、自らの田園城邑(田畑屋敷)を投げ打って、創建したのが、その「はじまり」とされている。
「壬申の乱」では、「大友皇子=弘文天皇」と、敵対し合った大海人王子だったけれども、即位後に、「天武天皇」となってから、「天智天皇と大友皇子=弘文天皇」への贖罪の意味もこめて、朱鳥元年(686年)に、この寺の建立を正式に許可し、「園城寺」という寺号を与えたのだと謂う。
「園城」という寺号は、大友与多王が、文字通り、自らの田園城邑(田畑屋敷)を投げ打って創建しようとしている志に、感ずるところがあって、名付けたと伝わっている。
けれども、「天武天皇」の亡きあと、「園城寺」は、荒廃の一途を辿り、もはや、「寺」の体裁が保てないほどに、荒れ果ててしまっていたらしい。
そこに登場するのが、「園城寺」再興の名僧「智証大師円珍」である。
「円珍」は、弘仁五年(814年)、「讃岐国(香川県)」の生まれで、母親は、「空海(弘法大師)」の姪とされている。
幼いころから賢かった「彼」は、十五歳になると、「最澄(伝教大師)」が開いた「比叡山延暦寺(滋賀県)」に、入山する。
そこで、最澄の弟子であった「義真」(初代天台座主《ざす》=比叡山の頂点の僧)の弟子となるのである。
数々の修行を経たのち、山王権現(日吉大社の神)の、「夢のお告げ」を受けたため、仁寿三年(853年)には「唐」に渡って、さらに、修行を続け、天安二年(858年)に、無事に、帰国を果たす。そうして、その四年後に、滋賀郡の大領(長官)大友村主《すぐり》黒主《くろぬし》に請われて、「園城寺(三井寺)」の再興に着手するのである。
「三井寺」のなかに「唐院」を建立して、自らが「唐」から持ち帰った、数々の「聖教・典籍類」(四四一部千巻、法具類十六点)を収め、初代の「三井寺」の「長吏《ちょうり》(最高責任者)」として、「三井寺」の再興に力を注いでゆく。
やがて、寛平三年(891年)に、七十八歳で亡くなったあとに、その業績が称えられ、延長五年(927年)、醍醐天皇から、「智証大師」の諡号《しごう》が贈られて、「智証大師円珍」となったのであった。
「円珍」が「三井寺」の頂点に居た平安時代のころは、書物に、ただ「寺」と書かれていたら、それは、「三井寺」のことを指している、というほど、「三井寺」は、「唯一無二な存在」であったらしい。
そんな「三井寺」の「守護神」は、「新羅明神」なのである。
「三井寺」の一般的な「御由緒」によると、「円珍」が「唐」から帰朝するとき、その船首に、白髪の「新羅明神」が現れ、「我は、新羅国の神なり。和尚の仏法を護持《ごじ》せん。」と告げたため、「三井寺」の「守護神」は、「新羅明神」になった、と伝えられている。
そのときに、「円珍」が視た「新羅明神」のお姿を伝えて、のちに、彫らせた「新羅明神坐像」は、「国宝」の「秘仏」となっている。
この「秘仏」は、普段は、三井寺内の「新羅善神堂《しんらぜんしんどう》」に祀られており、数十年に一度しか、公開されないので、あまり、一般には、知られていない。
ニ〇〇八年に開催された、ー智証大師帰朝1150年特別展ー「国宝三井寺展」の図録で、そのお姿を観ることが出来るけれども、かなり異国風な、「異形なお姿」なので、公開時には、多くのひとを、驚かせたようである。
再興された「三井寺」ではあったけれど、「円珍」の亡きあとは、数百年にわたって、さまざまな「災難」に、遭い続けることになる。。
「災難」は、まず、僧の門派の諍いに巻き込まれてしまうことから、はじまった。
「円珍」は、「三井寺」の「初代長吏」を兼ねていたけれども、本来は、「比叡山延暦寺」の「第五代座主」であったから、「延暦寺」には、数多くの弟子が、存在していた。
そのため、「円珍」亡きあとのしばらくは、自然の流れから、「円珍」の弟子たちが、「延暦寺」の「座主」を、務めることになったのだった。
けれども、やがて、開祖「最澄」の愛弟子であった「第三代座主円仁(慈覚大師)」の弟子が、「座主」を務めることになったあたりから、「円珍」派と「円仁」派とのあいだに、「主導権争い」が、生じてゆくのである。
その諍いは、どんどん激しくなり、「正暦四年(993年)」には、「円仁」派が、「円珍」派の房舎を壊し、「焼き討ち」をしたことから、「円珍」派の門徒数千人が、比叡山を降りて、「三井寺」に移ってしまうという「事件」が起きる。
そこから、天台教団は、延暦寺の「山門派」と三井寺の「寺門派」とに分裂してしまうのだ。
「延暦寺」と「三井寺」との諍いは、「門派」の争いだけに、留まらなかった。
「延暦寺」の守護神は、比叡山の麓に在る「日吉大社」の「神」である「大己貴神《おおなむちのかみ》=大物主命《おおものぬしのかみ》」なのだけれども、その神さまが、最初に出現したところは「大津」と謂われていたため、「大津」の住人の多くは、「日吉大社」に奉仕する「日吉神人《ひよしじにん》」となっていた。
それなのに、「大津」は、「三井寺」の「寺地内」に在るわけなので、「敵陣内に、自分たちの支持者が多数居る」という「事実」が、「延暦寺」の僧たちを刺激し、さまざまな諍いの「火種」を作ってしまっていたということも、あったようなのである。
結局、「延暦寺」による「三井寺」への「焼き討ち」は、平安時代から鎌倉時代の百八十年間に、大きなものだけでも九回、小さなものを含めれば五十回にも及び、その都度、伽藍は焼かれ、その都度、建て替えられて来たのだった。
そのうえ、諍いの種は、「三井寺の内部」にもあった。
「三井寺」は、広大な寺域を持つため、北院・中院・南院の「三院」に、分かれており、その運営は、それぞれ、「僧たちによる合議」に委ねられていたのだけれど、長い歴史のなかで、その「三院」相互の対立や抗争による「焼亡」も、あったのである。
また、室町時代直前の、建武三年(1336年)に起きた「延元の乱《えんげんのらん》」では、「足利尊氏」に味方をしたという理由から、後醍醐天皇の命を受けた延暦寺衆徒の大軍が押し寄せ、「三井寺」境内が、戦場と化したこともあったのだ。
「太平記」に、その凄まじい戦いのさまが、伝えられている。
そのときに、持ち出されたり、行方不明になってしまった「円珍」に関わるさまざまな「聖教」や「典籍」などは、その後、二百年もかかって、少しずつ、「三井寺」に返却され、「無傷」で、「奇跡的に全て現存している」そうである。
最後にやって来た、極めつけの「受難」は、太閤秀吉による「闕所《けっしよ》」だろう。
文禄四年(1595年)のことである。
「闕所」とは、家屋敷、家財、所有する所領を没収する「処罰」なのだけれども、「秀吉の逆鱗に触れた」とされるその「原因」については、さまざまに推察されていて、結局、今だに、特定されてはいない。
この「闕所」によって、「三井寺」の伽藍は、また、ことごとく、解体されたり、取り壊されたり、したのであった。
今在る「金堂」よりも、さらに大きくて立派なものだった、以前の「金堂」は、このときに解体され、「延暦寺」の西塔・釈迦堂の堂舎として、移築され、現在に至っている。
結局、当時の伽藍は、ほぼ、取り壊されてしまって、残ってはいないのだけれども、現在も残っている「国宝級」の「仏像」や「尊像」などは、全て、壊される前に、秀吉からの信頼が篤かった「照高院道澄《しょうこういんどうちょう》」が引き取ったため、「彼」のもとに、移されていて、難は、逃れたのであった。
さらに言えば、「三井寺」の僧たちへのお咎めも、一切、無かったらしい。
何のための「闕所」だったのか、なんとも、不可思議なやりかただったために、秀吉は、「三井寺」を、根底から破壊したいとは、思っていなかったのではないか、とも、謂われているのである。
「道澄」は、「三井寺の長吏」を務めたこともある、実力のある僧だったので、秀吉の正室「北政所」と共に、「三井寺」の処分解除のために、かなりの尽力をしたと伝えられている。
「北政所」と「道澄」の尽力の甲斐もあって、「闕所」が赦されたのは、秀吉が亡くなる前日のことであった。枕元に控えていた北政所に語った「遺言」によって、「三井寺」は、「再興」されることになるのだ。
秀吉亡きあとの「三井寺」の復興は、大変に、素早かった。
「復活」のために、「徳川家康」や「毛利輝元」も、立ち上がり、協力したこともあって、慶長四年、五年、六年で、伽藍は、ほぼ、元に戻ったのだった。
わたしがこころ惹かれる「荘厳」で大きな「金堂」と、「三井の霊泉」が護られている「閼伽井屋」は、慶長五年(1600年)の創建とされている。
長い歴史を持つ「三井寺」は、創建時からのことを語り出したら、きりがないほどに、たくさんの出来事が、連なって、「現在」に至っている。
「神仏習合」の寺であるけれども、主に「密教道場」として発展して来たために、「学問所」としての側面も持ち、さらには、西国三十三所観音霊場として、庶民信仰の「核」としての役回りも有する「いくつものお顔を持つお寺」なのだ。
したがって、保存されている「仏像」たちも、その時代ゝのさまざまな文化を、体現していて、実に、多岐にわたっている。
何度、焼かれても、何度、取り壊されても、「ご本尊」も「聖典」も「仏像」も「尊像」も、決して、「消滅せず」に、また、新しい伽藍とともに「復活する」という、凄まじいまでに、「頑固」で「強い運を持つ三井寺」は、別名「不死鳥の寺」とも、呼ばれているのである。
それでも、「三井寺を失くしたくない」という「人びとの切なる願い」が、何度でも立ち上がる「三井寺」を「不死鳥」にしたのだろうから、この世界で、一番に強いものは、やっぱり、「ひとのおもい」なのかもしれない。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「三井寺」が建てられている「土地」は、「琵琶湖」の「湖南地方《こなんちほう》」に属している。
だから、わたしにとっての「もうひとつのかいなんの地」は、ほんとうに、そのまま、「琵琶湖のすぐ南の地に在った」ということになるのだった。
東北の地方都市に生まれ、「滋賀県」には、なんの縁も、ゆかりも、無いわたしが、どうして、はじめて見たはずの、「三井寺」の、山の上から見下ろす「琵琶湖の景色」に、「郷愁」を覚えるほどの「懐かしさ」を感じてしまったのか、についての、合理的な説明など、到底、出来そうにない。
それでも、「滋賀県」と聞いて、一番に思い出すのは、わたしが十四歳のころから、「金縛り」に遭うたびに、枕元に現われ、
ーーわたしは、『滋賀県のかよこ』です。どうか、お願いです。わたしを助けに来て下さい。。
と、「懇願」して来た「あの世のひとの存在」だった。
上品そうな白い着物に、綺麗な水色の帯を締めた、細おもてで上品な、真っ白い顔の「かよこ」は、長い髪を、結ぶこともなく振り乱し、必ず、この、決まったセリフで、「懇願」しながら、寝ているわたしの顔を、その冷たい手で、撫でて来るのだった。
「滋賀県のかよこ」は、実に、五年間も、結構な確率で、夜な夜な、寝入りばなのわたしの枕元に、座り続けた。
そうして、毎回、まるっきり「同じ言葉」を、ずうっと、訴え続けていたのだけれど、わたしが、大学に入学して、上京すると、不思議に、もう、現れることは、無くなったのだった。
ーーわたしが、全然、「滋賀県に行かなかった」から、すっかり呆れて、あきらめちゃったのかな。
呑気なわたしは、そんなふうに、思っただけだった。
のちに知り合った「祈祷師のおばあさん」は、
「あなたは巫女だったから、かつてのあなたを良く知っているひとが、あなたを頼って、現れるのですよ。」
と、教えてくれたのだけれど、そのころのわたしには、「滋賀県」に対する関心など、全く無かったので、
ーーなぜ、わざわざ、「滋賀県のかよこ」だなんて、名乗ってたんだろうか。
などと、思ったばかりだった。
けれども、今から思うと、「滋賀県のかよこ」は、すでに、十代のわたしに、五年間にもわたって、
ーー「滋賀県」に来て下さい。
と、「連呼していた」のである。
ーーあなたの病気は「かいなんの地」に行けば治ります。
という、「夢のお告げ」を受けたのは、一九八二年で、二十五歳のころだったけれど、もしかしたら、「かいなんの地」は、それよりも、ずうっと以前から、もう、すでに、「わたしを呼んでいた」のかもしれなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「期間限定」で「特別」に飾られた、有り難い「百体観音」を拝ませて戴いたわたしは、名残り惜しい「三井寺」の「金堂」と「三井の霊泉」に
ーーきっと、また、会いに来るからね。。
と、こころのなかで、声がけをして、後ろ髪を惹かれるような心持ちで、「金堂」前の階段を、下りはじめた。
何度も振り返っては、その「景色」を、忘れないように、こころに刻みながら、わたしは、「三井寺」の参道を、出口に向かって、歩き出したのだった。
次の目的地である「大津市歴史博物館」に向かうため、である。
昨年、はじめて「三井寺」を訪ねたときのわたしは、「琵琶湖」のことを、全く知らなかったうえに、
ーーまずは、今まで見たこともない「琵琶湖」を「見ること」、そして「琵琶湖」を「感じること」こそが、一番に大切なのだ。
と、考えていたので、事前に、いろいろ調べることもなく、「旅に臨んだ」ため、「三井寺」のすぐ近くに、「大津市歴史博物館」があることも、全く、知らなかった。
好きなバンドのライブを観る「びわ湖はま大津」には、「三井寺」という、かなり古いお寺が在って、そこには、「三井の霊泉」というものが、湧いているらしい。
その「三井寺」は、高台にあるため、晴れていれば、「展望台」から、「琵琶湖」がきれいに見渡せるらしい。
という、たったふたつのことしか、わたしは、調べずに、出かけて行ったのだった。
そんな、安易なわたしのことを、もしかしたら、「琵琶湖」は、「哀しみの視線」で、見つめていたのかもしれない。
「日の出」を見ているはずなのに、その「ヒカリ」が、「沈んでゆく夕日」にしか、見えなかったり、空は快晴で、まわりは全部きれいに見渡せているのに、「湖水」の上にだけ、すっぽりと、「雲」がかかって、まるで、そこには「琵琶湖」など、存在していないかのように、巧妙に「隠されてしまって」いたり。。
「あの日の琵琶湖」は、わたしに対して、少しも、こころを許してくれず、そうして、まるで、「かくれんぼ」でもしているみたいに、「いじわる」だったのだ。
ーーあんなにも「大きな哀しみ」は、いったい、どこから、発せられていたのだろうか。。
帰宅してから、わたしは、「琵琶湖の哀しみ」について、いろいろと「想像」したり、「勉強」したりして、こころを尽くして、じっくりと、「考えてみた」のだった。
かつての「大津京」は、「三井寺」からごく近い「地域」に「存在」していたこと、比定された「その跡地」を、今、訪ねることが出来ること、「天智天皇」を祀っている「近江神宮」という大きな神社も、近くに在ること、さらには、もっと「古代」には、何があったのかなど、不勉強だったために、知らなかったことが、わたしには、あり過ぎるほどにあったのである。
「土地の歴史への理解」を深めたわたしは、
「巡り廻るたましいの記憶・琵琶湖へ」
「哀しみの湖水・むべの実と紅葉の道」
「湖水を覆う雲・秘密・永遠なるもの」
という、三つのおはなしを、書いた。
このおはなしたちは、「琵琶湖(うみ)を感じたあとのわたし」が、自分のこころのなかに「疼いている何ものか」と、向き合うために書いたもの、だった。
「湖水の哀しみ」は、「旅」によって受け取れた「土地の哀しみ」であるとともに、「わたし自身のこころが感じていた哀しみ」でもあったのだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「三井寺」入口の、大きな「仁王門」を出て、左折すると、長い下り坂が続いていた。
その道を、下り切ったところで、また左折をすると、今度はだらだらとした上り坂が、山の方に向かって伸びている。
その坂道を、上って行くと、山のなかに分け入って行く道すじとは反対の側の、右手の方向に、「大津市歴史博物館」の大きな建物が、見えて来るのだった。
山に近い高台に位置している「大津市歴史博物館」の入口の前に立つと、眼の前には、またまた、壮大に、お日さまの「ヒカリ」に輝く「琵琶湖」が、「キラキラ」と、光っていた。。
ーーこの場所からも、こんなに、見渡せるんだ。。
「輝く湖水」に魅入られているわたしは、すぐには「館内」に入れず、気づけば、また、外ベンチに座って、しばらく「琵琶湖」を、眺めてしまっていた。
ーーこの「長等山」から、「琵琶湖」を見下ろすと、やっぱり、懐かしくて、どうにも、せつない気持ちにとらわれて、泣きそうになってしまう。。
泣きそうにはなるけれど、絶対に「泣けないわたし」は、「せつない感情」を振り切って、「歴史博物館」入口の自動ドアの前に立った。
見ると、とても大きな看板が、立てかけられている。
今年は、「紫式部」を中心に据えたNHKの大河ドラマ「光る君へ」が、放送されているため、「源氏物語」が執筆された「土地」でもある「大津市」は、「源氏物語と紫式部」に関する「特別展」を開催していた。
けれども、わたしの「お目当て」は、なんといっても、「大津京」の「再現模型」なのだった。
それらは、「大津市の歴史」にとって、大変に重要で、欠かせないものなので、「常設展示」されているのである。
「大津京の全貌」は、その跡地が、すでに「住宅街」になってしまっているために、なかなか調査が進められず、まだ、充分に、明らかにはされていないのだけれど、前の日に歩いた「近江神宮前」から、「近江神宮」までは、確実に、「大津京」が、かつて「存在した場所」だったことが、「再現模型」を見ることによって、より、はっきりと理解出来た。
一説には、「三井寺」が建っている場所が、「大津京の最南端」だったのではないか、とも、言われている。
もし、そうだとしたら、
ーー「天智天皇」は、あの、山の上から、「琵琶湖」を見下ろして、ほんとうに、「国見」をしたかもしれない。。
と、「想像」して、わたしは、ちょっと、わくわくした。
かつて「大津京が在った土地」で、「大津京の再現模型」を観ることが出来たことで、わたしは、大切な「ミッション」を完遂出来たような気がして、なんだか、とても、「ほっとした」のだった。
まだまだ明るくて、対岸の山々までも、青く、くっきりと見渡せる「琵琶湖」に向かって、わたしは、
ーーさよなら、また来るね。
と、言いながら、小さく、手を振って、「歴史博物館」を後にした。
京都に向かう「湖西線」のなかで、遠ざかってゆく「湖水」を想いながら、わたしは、もう、
ーー次は、また、いつ来れるだろうか。
などと、考えてしまっていた。。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
天智六年(667年)、「中大兄皇子=天智天皇」は、都を、「飛鳥」から「近江」に遷都した。
先に「大海人王子」から貰い受け、すでに共に在った「額田王」や、お仕えしている多くのひとびとを引き連れて、「飛鳥」から、大行列を成し、「近江」に、向かったのである。
そうして、「大津京」で、ようやく即位し、「天智天皇」となった。
前天皇であった、母の「斉明天皇」が崩御されてからはすでに六年、「白村江の戦い」で大敗してからも、もう、四年の歳月が経っていた。
「戦後処理」や、「国防政策」のために、多忙を極め、さらに「遷都」をも「強行した」ため、「即位」が遅れたのだ、とも言われている。
「天智天皇」は、さらに、翌天智七年(668年)には、永らく「大和政権」を加護してきた「三輪山」を御神体としている「大神神社《おおみわじんじゃ》」から、「大物主命《おおものぬしのかみ》=大己貴神《おおなむちのかみ》」を、勧進《かんじん》し、比叡山の麓に、「大比叡神」としてお祀りして、「日吉大社」を創建する。
「日吉大社」が創られた場所は、もとより、「大山咋神」《おおやまくいのかみ》という「土地神さま」が祀られていて、背後にある「牛尾山=八王子山」自体が御神体の、霊験あらたかな「土地」だった。
「天智天皇」は、そんな「土地」に、「大和」の「大神神社」の「大物主命=大国主命=大己貴神」を「召喚」し、「三輪山」自体が御神体の「大神神社」の威光を、「近江」にも、もたらそうとしたわけである。
「神仏習合」の時代のこと、この「日吉大社」の「神さま」は、やがて、「最澄」が開く「比叡山延暦寺」の「守護神」をも、兼ねてゆくことになる。
さらには、「日吉大社」の「建つ位置」が、「平安京」の「表鬼門」に当たっていたため、「日吉大社の神さま」は、「平安京」の「守護神」にも、なってゆくのである。
これは、794年に「平安京」が造られてから、1869年(明治2年)に、「明治政府」が、「江戸城を皇居とすること」を、正式に発表するまでの、長い長いあいだ、「日吉大社の神さま」が、「首都」の「守護神」だったことを、意味している。代々の天皇が住まわれていた「京都御所」は、「平安京」の敷地内に在ったからだ。
現在「三井寺」が建てられているところは、「天智天皇」が、「崇福寺」を建立していた「土地」であると、「三井寺社伝」や「扶桑略記」《ふそうりゃくき》、それに「今昔物語」などでは、伝えられている。
真偽のほどを、確かめることは、もはや出来ないのだけれど、「三井寺」の「金堂」の下には、「前身の寺院」が埋もれていて、そこには、「天智天皇」が、「念を込める」ために、自ら切り落とした「右手の薬指」が、埋められている、という「伝説」も、あったりするのだ。
歴史は、常に、「流転」し、「錯綜」している。
長い歴史を持つ「土地」であればあるほど、「無常なときの流れ」と「綿綿と続くひとびとの営み」とによって、「その場所の持つ意味」は、次から次へと、「上書き保存」されて行ってしまう。。
起きたことのすべてを、見て来ているはずの「土地」は、いつだって、何ひとつ語らないまま、ただ、静かに、「今を生きているだけ」なのである。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
秀吉の闕所が赦され、「三井寺」の「金堂」と「三井の霊泉」が鎮座されている「閼伽井屋」が再建されたのは、慶長五年(一六〇〇年)である、と知ったとき、わたしは、思わず、
ーーあ。。
と、叫んだ。
なぜなら、京都の「建仁寺」では、一五九九年から、「安国寺恵瓊《あんこくじえけい》」の主導によって、その「再興」がなされていて、「安国寺恵瓊」からの要請を受けた「海北友松」が、そのころ、まさに、「建仁寺」に居て、五十枚を超す襖絵に、その「筆力」を奮っていただろうから、である。
「襖絵」の製作がはじまったころ、「海北友松」は、すでに「六十六歳」になっていたけれども、「彼の活躍」は、実は、このあたりからはじまるのだ。
その一年前の一五九八年三月、「彼」は、秀吉の命を受けた「石田三成」のお供をして、「筑紫(九州)」を旅している。それは、おそらくは、「秀吉」に仕えていた旧友の「安国寺恵瓊」からの要請で、写真が無かったころの、「絵師」としての「同伴」だったのではないかと思われる。
その年の八月(旧暦)に、病いに伏していた「秀吉」は、亡くなるのだ。
事態は、水面下で、急激に、変化し続け、一六〇〇年九月(旧暦)の「関ヶ原の戦い」に向かって、「歴史」は、動いてゆく。。
だから、その「歴史の狭間」に、「三井寺の再興」も、「建仁寺の再興」も、在ったのである。
「安国寺恵瓊」の要請ではじまった「襖絵の製作」だったけれども、「安国寺恵瓊」は、「石田三成」とともに、ほどなく、「関ヶ原の戦い」の「敗者」となってしまう。
逃亡の身となってしまった「安国寺恵瓊」は、「彦根」、「坂本」と「琵琶湖」のまわりを転々としたあと、「建仁寺」へと辿り着き、少しの間、「建仁寺」に、隠れていたらしい。
そのとき、「海北友松」が、まだ、「建仁寺」のなかで、「筆」を奮っていたかどうかは、分からない。
けれども、絵師の「海北友松」が、歴史が動く、その渦中に、どうしてか、「立会人のように居たこと」は、確かなのである。
「建仁寺」に長居することが、叶わなかった「安国寺恵瓊」は、京都界隈を逃亡しまくるが、最後には、捕まって、「家康」に引き渡され、「石田三成」と共に、六条河原で「斬首」されてしまう。。
「安国寺恵瓊」は、「建仁寺」の「海北友松の襖絵」が完成に至るまで、見届けることは、叶わなかったのではないだろうか。。
「三井寺の金堂や閼伽井屋」、それに、「建仁寺」も、大変に微妙な、「歴史の転換期」に、「再興」が、なされていたのだ。
そんなことを考えながら、改めて、「三井寺」や「建仁寺」や「海北友松」におもいを馳せると、また、少し、違った「感慨」が、押し寄せて来る。
「海北友松」は、「明智光秀」の「重臣」であった、友達の「斎藤利三」も、「斬首」で失っているし、二ヶ月半も、道中を共にした「石田三成」や、若いころから預けられていた「東福寺」で、一緒に成長したはずの「安国寺恵瓊」をも、「斬首」によって、失っているのだ。
「彼」は、まるで、「土地」ででもあるかのように、全てを見ているのに、なにも語らずに呑み込んで、ただ、ひたすら、自身の「画」のなかに、なにもかもを、落とし込みながら、生き続けて行ったように、わたしには、感じられる。
あんな「画」を描くひとだから、「感受性」は、人一倍鋭かったに違いない。
身近に起こる、さまざまな出来事の「理不尽さ」に「慟哭」しながらも、ただ、ひたすら、自分の「画」のなかに、「おもい」を「昇華」させていったからこそ、あそこまで「稀有」な、「彼だけの表現」が、完成したのかもしれない。
「近江神宮」の「時計館」で、まるで、わたしを、「待ち伏せ」していたかのような印象を受けてしまった「海北友松」だったけれども、わたしには、ようやく、「彼」が、あの場所に「居てくれた意味」が、わかったような、気がした。
ーーそうだった。
「彼」は、若かったころのわたしに、「思いがけないひとつの視点」を与えてくれたひとであった。
「琵琶湖=古代」になってしまっているわたしのこころに、「時計館の海北友松」は、
「琵琶湖には、わたしも居るよ。」
と、その「存在」を主張して、
「ひとつの視点からだけ、ものごとを見つめていても、きっと、ほんとうのことは、見えては来ないよ。」
と、わたしに、告げようとして、「居た」のかもしれない。。
なんだか、そんなふうにも、思えたのである。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ひとのおもい」とは、いったい、どこから生まれて来るものなのだろうか。
「この世界で、一番に強いものは、ひとのおもいである。」
とするならば、「歴史」を形づくって来たものも、煎じ詰めれば、結局は、
「ひとのおもいであった。」
ということになるのかもしれない。
「ひとのおもい」は、すべての「事象」に、それぞれに、「影響」をもたらし、すべての「事態」に、それぞれに、「作用」して来たはず、だからだ。
ひとりのひとの「人生」においても、何を「おもい」、どのように「行動したか」によって、そのひとの「人生の方向」も、また、変わってゆく。
「おもい」は、叶ったほうが、それは良いのだろうけれど、叶わなくても、ほんとうは、構わないのだ、とも、思う。
なぜなら、「叶うこと」よりも「おもうこと」のほうが、ほんとうは、百倍も大切で、「おもいそのもの」が、きっと、そのひとにとっての「生きる原動力」に、なってくれるだろうから、である。
だから、「人生」にとっては、「叶うこと」よりも、「なにかをおもい続けること」のほうが、「重要なことがら」のはずだと、わたしは、思っている。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「三井寺」や「大津京」の在る「長等山」から眺める「琵琶湖」の「景色」に、
ーーはじめて視るはずなのに、圧倒的に、懐かしい。。
という、「こころが震えるほどの郷愁」を、覚えてしまったわたしは、「その土地」が、ふたつめの「かいなんの地」なのだろう、と、素直に、解釈した。
自分が、かつて何者だったのか、などということは、分かるはずもないし、そんなことは、分からなくても、良いのだ、と思うけれど、自分が、「かいなんの地」と思われる「土地」で、おそらくは、何度も、「生まれ」、「何ごとか」を「経験」し、そうして、何度も「死んだ」のだろうということを、わたしは、あの日、「三井寺の山の上の展望台」で、「体感した」のだった。
やがて、帰宅して、しばらく経ったころ、
ーーあの日、体感した「おもい」は、いったい、わたしのどこから、出て来ていたのだろうか。。
という「素朴な疑問」が、しだいに、わたしのなかに、もたげて来たのだった。
考え続けているうちに、ある日、ふと、ひとつの「考えかた」が、脳裏に、浮かんだ。
ーーもしかしたら、わたしのこころのなかには、「複数のわたし」が、「混在」しているのではないだろうか。
「複数のわたし」が、わたしのなかで「混在」しているから、「今のわたし」には無い、不思議な「おもい」が、突然に、もたげて来てしまうのかもしれない。。
そんなことを、思ったのだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
呼ばれたようにして、二度も、訪ねた「三井寺」は、長い歴史のなかで、「翻弄」され、複雑な「歴史」を持つ「寺院」であった。
さまざまな時代の、さまざまな「お顔」を、合わせ持つ「三井寺」は、何ごとも無かったかのような体で、たくさんの「観光客」を受け入れながら、「不死鳥」のように、「今」を「生きて」いる。
そんな「三井寺」の「金堂」の下に、「旧寺院が埋もれているかもしれない」という、まことしやかな「伝説」に、なんとなく、おもいを馳せていたときに、わたしは、ようやく、気がついたのだ。
わたしのこころの奥底にも、実は、「かつてのわたし」が、「埋もれているのではないか」ということに。。
「かつてのわたし」は、「ひとり」では、無いのだ。
何度も生まれ、何度も死んだ「かつてのわたし」が、こころの奥底に、きっと、何人も、「埋もれたままで、今も存在して居るのだ」ということに、わたしは、やっと、「気がついた」のである。
二十六歳のときに出会った、「祈祷師のおばあさんの言葉」を、わたしは、再び、思い出していた。
「なぜ、踊らぬ。」
ーーあなたを見ていると、そんな「言葉」が浮かびます。
ーー「あなた」は、何度か、生まれ変わりを、繰り返していて、いつかの世では、「高貴なひと」の前で、踊っていました。そうして、そのときのあなたは、「詠う巫女」でした。
ーー生き生きと踊り、詠い、かつ、人びとに向かって、指南をするあなたが、わたしには、見えます。。
わたしは、きっと、どんな時代に生まれたときも、「表現するもの」として、「生きていた」のだろう。
そんなわたしが、今世では、「表現すること」を、無理やりに「放棄」して、平凡に、「普通のおかあさんとして生きよう」としたのだから、「積年のおもい」は、「行き場」を失ない、「怨念」をさえ伴って、渦を巻いて自分自身を、攻撃し、結果として、わたしは、ほんとうに、「病んでしまった」のだ。
ーーあなたの病気は、かいなんの地に行けば治ります。
この夢のお告げを受けたのは、一九八二年で、わたしは、まだ、二十五歳だった。
その四十二年後、六十七歳にもなったわたしに対して、ようやく、その「謎」は、解けてゆくのである。。
もうひとつの「かいなんの地」は、その名の示すとおり、「琵琶湖(うみ=かい)」の「南=なん」の「地」だった。
それは、おそらくは、「長等山園城寺=三井寺」と「大津京」のことを、指していたのだろうと思われる。
この「土地」を二度、訪ねて、わたしが、ついに、得たことは、「土地のおもいを受け取る」ということだった。。
「土地」は、ほんとうは、過去からのすべてを背負っているにも拘わらず、何ひとつ語らないまま、日々「上書き保存」されて、「今」だけを、常に「更新」し続けている。
けれども、「過去のたましい」を持つ者が、その目で、その「土地」を注視したとき、実は、はじめて、「その土地の過去」が、「白日のもと」に、あぶり出され、そうして、「その土地のおもい」が、「姿」を表わすのである。
二度にわたって、「三井寺の山の上の展望台」から視た、それぞれの「景色」は、きっと、「かつてのわたし」が、「かつて視ていた景色」を、あの土地から、受け取って、「見せられていた」のだ、と、わたしには、思われたのだ。
一度めは、何ひとつ見せてもらえない「哀しみの琵琶湖」を、わたしは、「受け取った」のだった。
けれども、二度めの「琵琶湖」は、「湖水」が、どこまでも見渡せて、「こころが震えるほどに、懐かしい景色」を、わたしに、見せてくれたのである。
「その土地のかつてのおもい」は、きっと、「かつてその土地に居たわたし」にしか、「受け取れないもの」なのだと思う。
「表現すること」を「捨て」て、生きて来た「今世のわたし」が、「こころのなかに複数存在しているかつてのわたし」のなかの「ひとり」を呼び出して、「その土地のかつてのおもい」を「受け取れた」ときに、きっと、「土地のかつてのおもい」と「かつてのわたしのおもい」とが、「呼応」して、そのときだけ、「今世のわたし」が受け取れる「特別な景色」が、現われてくれたのだと、わたしは、感じたのである。
「三井寺の山の上の展望台」で、わたしが「体感したこと」には、「あの土地」から発せられた、そんな「メッセージ」が「表現されていた」ように、思うのだ。
わたしのこころの奥底には、「巧妙に隠された、ぼろぼろの、古い地図」が在って、その地図には、わたしが、まだ、気づくことが出来ずにいる、いくつかの「かいなんの地」が、「気づかれることを待ちつつ」、ひっそりと、記されているのかもしれない。
時代を超えて、何度も生きて、何度も死んでいる「かつての、何人かのわたし」が、ひとりずつ、ぽつん、ぽつんと記され、螺旋状に、巻き物のようにして、連なっている「かいなんの地の古い地図」は、「完成」されることを、ずうっと、静かに、ただ、待っているのではないだろうか。。
「地図」を「完成」させるために、行なう「今世のわたしの旅」は、「おもい」を「紡ぐこと」につながって、「失われたかつてのおもい」を、わたしが、「取り戻してゆくこと」を、意味している。
「忘れられている、かつて失なったおもい」が、ひとつひとつ、「取り戻され」て行ったときに、やっと、わたしには、「自分が、何度も生きて来た意味」が、よりはっきりと、「体感」出来るはずだと、思うのである。
ーーそうだったのか。。
ーー「かいなんの地」も「病気」も、実は、「暗喩」だったのだ。
わたしには、そう、思えて来た。
「自分らしく表現すること」を「捨て」て、「現実社会に、ちゃんと適応して生きて行こう」と、「無理」をしていた「若かったころのわたし」は、ほんとうにほんとうに、「生きている実感が掴めなくて」、苦しかった。
ーーかいなんの地に行けば病気が治る。
という「言葉」は、
ーー「かつてのあなた」が、そうで在ったように、自分らしいおもいを取り戻して、生きて行きなさい。
ということを、意味していたのだと、わたしは、この歳にして、ようやく、「咀嚼すること」が、出来たのである。
ーーなんて、簡単なことに、今まで、気づけずにいたのだろうか。
情けないけれども、まだ、遅くはない、はずだ。
だって、わたしは、結構、元気だし、「最晩年」までには、まだ、充分に、時間があるはず、だから。
今から思うと、不思議にも、思い出されるさまざまな「ことがら」のひとつひとつが、ずうっと以前から、すべて「琵琶湖の南の土地」に向かって、つながっていたようにも、思えて来る。。
大神神社を、ひとつめの「かいなんの地」だと思ったことも、それは、きっと、たいせつな、「入口」だったのだと、今なら、分かるのだった。
もしも、最初から、まっすぐに、「琵琶湖」の「南」の「土地」に来ていたら、きっと、ここまでのことには、気づけなかったろうと思われるからである。
「こころが震えるほどに、懐かしい景色」を、「体感」して、「その土地のかつてのおもい」を受け取り、こころの奥底に隠されている「かつてのわたしが居た箇所が記されている、ぼろぼろの古い地図」を、より、完成に近づけるために、これからも、まだまだ、きっと足りない「ピース」を求めて、「旅」を続け、いくつもの「かいなんの地」と、出逢い続けようと、わたしは、静かな決意とともに、「おもい」はじめて、居るのである。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「三井寺」の入口の「仁王門」の前には、「観光地」らしく、とても広くて大きな「お土産屋さん」がある。
昨年、はじめて行ったときには、時間が足りなくて、残念ながら、わたしは、なんにも買えずに、通り過ぎて来てしまった。
けれども、今回は、ちゃんと、「ホンモロコの佃煮」を、買って来たのだ。
「琵琶湖」と言えば、やっぱり、ずいぶんと古代から、「ホンモロコ」だから、である。
ーーどんな味がするのかな。。
わくわくしながら、温かいご飯と一緒に、食べてみた。
ーーわぁ。美味しい。
最初は甘くて、でも、後味に、ちょっぴり、苦味が残る。
ーーなんだか、「グレープフルーツ」みたい。。
そう、思った。
はじまりが甘くて、あとから、苦味が追いかけてくる味わいは、わたしのツボなのだ。
「ホンモロコ」と「グレープフルーツ」。。
全然ちがう食べ物だけれど、でも、少し、似ている「味」がする。
ーーどっちも、大好きだ。
ーー「ホンモロコの佃煮」を、買って来たいな。。
「温かい白いご飯」を、口にするたびに、わたしは、毎日、そう、思っている。
〈参考文献〉
※「智証大師帰朝1150年特別展 国宝三井寺展」ニ〇〇八年十月三十一日発行 NHK大阪放送局 NHKプラネット近畿 毎日新聞社
※小学館ウィークリーブック古寺行こう
通巻31号 三井寺 石山寺
2023年5月9日 小学館
※講談社カルチャーブックス
「比叡山歴史の散歩道 延暦寺から、日吉大社を歩く」
1995年十月十六日 講談社
※「新羅神と日本古代史」 出羽弘明 2014年10月20日発行(株)同成社
※「海北友松を歩く」今井ふじ子
1997年十月二十日 株式会社編集工房 ノア
※「墨龍賦」葉室麟 2019年11月22日 PHP文芸文庫
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