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思想

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記事一覧

名無しの条件 ー 名前のない関係について

名無しの条件 ー 名前のない関係について

最近友達から親密な人との話を聞いた。僕はその人と友達の関係が「名前のない関係」という名前の関係のように思った。それは結局友達や恋人と同じで、一つの名前が付けられた関係なのではないだろうかと。

そもそも名前がないということはどういうことだろう?名前とは人間が事物に対してつけるものであり、世界には名前の付けられていない事物もある。しかしそれらの事物は名前がなくても存在している。ただ存在している。

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クナーファの夜〜生と他者へ

クナーファの夜〜生と他者へ

あなたはどう生きているだろうか。最近嬉しかったことはなんだろうか。最近悲しかったことはなんだろうか。
早起きをしてパンを焼いたり、待ち合わせの30分前に着いたり、好きな人と散歩をしたり、分厚い本に悩んだり、悪口を言い合ったり、ゆっくり珈琲を飲んで1時間過ごしたり、たまに旅をしたり、路地に座ったり、傷付いたり傷付けてしまったり、日が短くなったとため息をついたり、笑ったり、夜更かししようとして朝日の手

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夢は私に何を夢見るのか ー何かをすること、何かになること

夢は私に何を夢見るのか ー何かをすること、何かになること

夢は語る。夢が語る言説を考えてみる。
夢は「何かをしたい」「何かになりたい」と言う。

「何かをしたい」と「何かになりたい」は何が違うのだろうか。
例えば詩が好きな人にとって、詩を書きたい人にとって、詩を書くことが夢なのか?詩人になることが夢なのか?

より純粋なのは詩を書くことのように思える。
詩人になるということは、詩を書くこととは別の行為だ。詩を書くという行為に、詩人になるという行為が混じる

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微妙な動きー「知る」「愛する」は動作動詞か状態動詞か

微妙な動きー「知る」「愛する」は動作動詞か状態動詞か

はじめに愛についての問いがあった。「愛する」とはどういうことだろう。人を愛するという行為はどういうことかという問い。しかし、この問いについて考えているうちに、いつのまにか行為の世界から言葉の世界に迷い込んでいた。行為の世界に戻るために、ひとまずこのテクストを書くことにした。

迷い込んだきっかけは「I love you」という英語だ。ここでの「love」は状態動詞となる。つまり「私はあなたを愛して

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パートナーってなんだろう?ー23年冬の現状

パートナーってなんだろう?ー23年冬の現状

僕は友情と恋愛感情の区別が曖昧で、区別する必要はないと感じている(セクシュアリティでいえば、クワロマンティックが腑に落ちる)。友情でも恋愛感情でもない情もあると思っている。
僕は独占欲がない。むしろ相手に対する支配性をなるべくなくしたい。相手に自由でいて欲しい。
好意を向ける相手から唯一の特別な人と思われたいとも思わない。
僕はお互いにとっていい関係であれるのであれば、友達でも恋人でも、もしくは名

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もやもやと実験 ー 喫茶ザンゲシツを終えて

もやもやと実験 ー 喫茶ザンゲシツを終えて

喫茶ザンゲシツ前日、喫茶ザンゲシツのLINEグループに明日は風が強いらしいとメッセージが入る。お天気アプリを開いてみる。確かに一日を通して風速は高い数値で、昼過ぎ頃は10mになっていた。喫茶ザンゲシツでは焚き火とザンゲシツ(テント、場所の都合でペグが打てない)がある。全部なにもかも風で飛ばされるのでないかと心配になる。
しかし喫茶ザンゲシツは「もやもやを楽しむ」ことをテーマにしている。だからこれは

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喫茶ザンゲシツ

喫茶ザンゲシツ

音楽がいつもと違った美しさを見せるときがある。例えば寂しさを感じているとき。
寂しさを感じているとき、音楽を聴きながら夜の散歩をしてみる。すると音楽がいつもと違った美しさを見せる。散歩道も、いつもと違った美しさを見せる。まるで寂しさとダンスをしているようだ。

話は変わる。以前とある悩み相談の対話スペースに参加した。そこで僕はこう感じた。ここでは、悩みが楽しさに変わっていると。悩みは解決しない。例

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路上着座論 ーあのベンチの前に座ろう

路上着座論 ーあのベンチの前に座ろう

ベンチがたくさんあることはいいことだ。しかし、ありすぎるとそこが、「座る場所」から「座ってもいい場所」になってしまうのではとも思う。つまり、座ってもいい場所と座ってはいけない場所ができてしまうということだ。
それは「座れる」の意味が「座ってもいい場所」ということになり、「座れる」の判断基準がルールだけになってしまうことである。そこに個人の「座れる」の判断基準が入る余地はない。
もちろんなんでもかん

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恋愛や性愛という症状

恋愛や性愛という症状

例えばペドフィリアは病だという。
しかし、そもそも病ではない恋愛や性愛なんてあるのだろうか。
人は病んでいるからこそ恋愛や性愛を求めるのではないだろうか。
ヘテロ、ホモ、バイなどの恋愛指向や性的指向。接尾辞としてのフィリアやフェチなどの性的嗜好(便宜上この言葉を使いますが、僕は性的指向と性的嗜好の区別には懐疑的です。政治的理由などからの区別だと思っています)。また、関係性の指向として、モノガミーや

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親密は愛に先立つ

親密は愛に先立つ

僕は以前、人の関係や情(好意)が、友達/恋人、友情/恋愛感情の二元論で語られることへの問題提起をした。*1

最近では、映画『CLOSE』を観て、監督のルーカス・ドンのインタビューを読み、僕が考えていることと重なるところがあると思い、そのことについて『CLOSE』の感想記事に書いた。*2

この記事では、友達/恋人、友情/恋愛感情の二元論について、最近考えていることを、「親密」という言葉も加えて書

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限りなく窓に近いスクリーン ー 映画『アダマン号に乗って』について

窓の外をぼんやりと眺める。そこには意図のない、「あるがまま」の風景がある。
スクリーンに映る映像、即ち映画はどうだろう?人がカメラで撮影し、編集する以上、何かしらの意図があるだろう。恐らく意図から逃れることはできない。それは『アダマン号に乗って』も同じだ。
しかしこの映画は、まるで窓の外を眺めているように感じた。意図がほとんど感じられず、そのスクリーンは、限りなく窓に近かったように思える。
映画は

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目にうつる全ての現象は詩

『やさしさに包まれたなら』の歌詞の有名な一節「目にうつる全ての"こと"は メッセージ」を、僕はなぜか「目にうつる全ての"もの"はメッセージ」だと思い込んでいた。

勝手に読者に甘えて、言い訳をさせてもらう。考えてみれば「目にうつる全ての”こと”」とよりも、「目にうつる全ての"もの"」の方が自然に感じられないだろうか。
「目にうつる全ての”こと”」というのは、ちょっと不思議な感じがする。「目にうつる

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「愛されるとは何か?」についての思弁

友人と恋愛や性愛の話をしていたとき、その友人は、「今の望みとしては、とにかく愛されたい」と言っていた。しかし、「愛される」とはどういうことだろうか?

「愛するとは何か?」や「愛し合うとは何か?」ということは話し合われたり、考えを聞くことは多いと思うが、「愛されるとは何か?」ということは、話し合われることも、考えを聞くこともあまりないように思う。

その友人と話しているときには、深く考えることがで

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「異なるもの」と「他なるもの」 ー『食客論』から観る、他者と出会うことの葛藤としての『戦場のメリークリスマス』

映画『戦場のメリークリスマス』を、私は「他者と出会うことの葛藤」というパースペクティブで観ている。
そして、星野太さんの『食客論』(講談社)を読み、このパースペグティブでの『戦場のメリークリスマス』と非常にリンクすると思った。

『食客論』で論じられているのは、「友でも敵でもない、あるいはいずれでもありうるような曖昧な他者」、「傍にいるもの」、「中間的な他者」、「不審者」という存在だ。

例えば、

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