経済的に余裕がない人ほど 「思考」「思索」を武器とするべきだ 1円も要らず、 時も場所も選ばず、 誰にも迷惑をかけず、 自分の好きなように考えられる お金がない人が 知恵さえも持たなければ どうやって世の中を生き抜いていくというのだ 「貧すれば鈍する」にだけは陥ってはならぬ
よく「日本の全国民から1円ずつ貰うことができたら1億円貰えるじゃん」みたいな妄言があるけど、 社会を良くするためには それに似たマインドが必要なのかも ほんの少しのリソースを広く集めれば、 社会を大きく変える力は確保できる 国がそれを「税」として募ると 猛反対を喰らうのだけど
今日思ったこと。人間一人一人の記憶量には限度があり、寿命が来たら失われる。だから、体の外に知識や知恵や経験を保存する必要が出てきた。それが書物であり、図書館。つまり、図書館は体外記憶装置。人間が築き上げた、多様で全体的な叡知をいつでも取り出して活用できるように発明された。
モンテーニュは38歳の時に引退して「モンテーニュの塔」に隠棲して読書と思索に耽りながら〚エセ―』を書き続けた。現代では、誰もがそうした塔を持てるわけではない。だとしたら、市民にとっての「モンテーニュの塔」が、図書館や自然のある公園だ。そうした静寂の空間で私たちはリトリートできる。
図書館のような静寂を保証する環境を公共空間や社会環境全体に拡張してみたらどうだろう。ただそれはむしろ、子どもの声や赤ちゃんの泣き声や笑い声、人間の対話や談笑や雑談といった有機的で自然なシチュエーションを含む必ずしも無音ではない環境を促進するもので、人の尊厳や幸せを静寂で保証する。
テレビというメディアは、対話を前提としていない。音声や映像が一方的に雑然と押し寄せ、中断し、自分のペースで批判的に検討することを難しくしている。そうした性質は書物と正反対である。テレビはゆっくりとしたメディアではない。それは同調的な空気を醸し出し、視聴者に無意識に強要している。
静かな環境というのは、自分の思考や思索が強い力によって中断されないという特徴がある。自然音は思考や静慮を中断しないが、テレビなどの電子的な人工音は無理やりそれらを中断する。思考や静慮は人間の尊厳や真実の追求を表しているので、そうした中断が混じる環境は不自然なのかもしれない。
「乾いた光が最上である」とは、ヘラクレイトスの至言。友人がくれる忠告や助言や警告は、自分の感情や習慣による吐息がかかっておらず、濡れていない。だからこそ、利害関係などが絡まない友人の誠意のこもった言葉は、自分ではわからない自分がおかれた状況や自分の姿を高解像度でみせてくれる。