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夢は私に何を夢見るのか ー何かをすること、何かになること

夢は語る。夢が語る言説を考えてみる。
夢は「何かをしたい」「何かになりたい」と言う。

「何かをしたい」と「何かになりたい」は何が違うのだろうか。
例えば詩が好きな人にとって、詩を書きたい人にとって、詩を書くことが夢なのか?詩人になることが夢なのか?

より純粋なのは詩を書くことのように思える。
詩人になるということは、詩を書くこととは別の行為だ。詩を書くという行為に、詩人になるという行為が混じることになる。純粋ではなくなる。

また、詩人というものに基準があるとしよう。それは一つの権威とも言えるだろう。そのとき詩人になることを夢見るなら、その基準の為に詩を書くことになる。その基準からはみ出せば詩人ではいられない。詩を書くことが詩人になるための行為、あるいは詩人であるための行為となってしまう。

これは反体制的な芸術においては分かりやすい。芸術家を決定する基準があったとして、その基準を満たすために芸術をするのは、とても体制的であるだろう。

「何かをする/何かになる」は「個人/社会」、「行為/承認」、「喜び/不安」に対応する。
詩を書くということは個人的な行為であり、そこには詩を書く喜びがあるだろう。しかし、詩人に限ったことではないが、何かになるということは、他者からの承認が必要になる。故に社会的な行為である。そしてそこには承認の不安がある。私は詩人として認められるのか。もし認められたとしても、詩人として認められ続けることはできるのだろうかと。

詩人になりたいと夢見ることには、言葉に出来なくても、何が詩人かという像が心のどこかにあるのだろう。いや、ぼんやりと優れた詩を書ける人が詩人だと思っているのではないだろうか。例えばあの詩人のように目の眩むような詩を書けたらというのは、詩人としての像であるだろう。

もしも自分で優れた詩が書けたとしよう。本当に心からその詩が優れていると感じれば、自分を詩人として自己承認できるかもしれない。しかし、どんなに自信があるにしても、ほんの僅かでも不安があるなら、自分を詩人として自己承認するためには他者の承認が必要になる。
他者からの承認も結局は自己承認するための道具である。例えば100人からあなたは詩人だと言われたら詩人という基準があったとして、それを満たすことで自分を詩人と承認することができる。

しかし、何かになるということはコントロール不可能なことでもある。いつのまにか詩人と言われたり、詩人と呼ばれたりすることもある。むしろ、何かになるということは後からついてくるのではないだろうか。そこに新しい詩人の生成の可能性がある。

自己承認は詩人への自己同一化である。そこに他者からの承認があるにせよ。
しかし、自己承認とは別の形で詩人になることがある。それは他者から不意に詩人と言われることである。
ふいに詩人と呼ばれること。自分の詩人の像とは違う形で詩人と呼ばれること。これは新しい詩人の生成ではないか。概念としての詩人が変化することでもある。

本当にいいものを作ることを目指すのであれば、自分が想像可能ないいものではなく、世の中のいいものとされていることでもなく、それらを超えていかなければならない。詩人というのは、自分の詩人の像も、世間の詩人の像(あるいは基準)も超えていかなければいけない。

こう考えてみるのもいいのかもしれない。私が詩人に何を期待しているかではなく、詩人が私に何を期待しているのか。
例えば、私は詩人になることで得られる満足に期待するのではなく、詩人は何を期待しているのかを考える。詩人は変化すること、新しい詩人の生成を期待しているのではないかなど。
また、詩を書くことにおいても、私が詩に何を期待しているのかではなく、詩が私に何を期待しているのか?と考えることもできる。
そこには良いものという一つの方向ではなく、多数の方向がひらけるだろう。

ここでふと思う。夢にも何かを期待していないだろうかと。むしろ、期待とは夢の大事な要素であるように思われる。期待、あるいは希望のない夢なんてあるのか。
しかし、夢を叶えてどうなりたいのだろう。夢を叶えたとしても幸せになれるわけではない。むしろ夢を叶える以外にも幸せになる方法も人生を楽しむ方法もあるはずだ。夢とは、人に取り憑いた運命なのではないか。その運命の声に耳を塞ぐことはできない。だかこそ夢は語るのだ。夢は夢を見るのだろう。

私が夢を見るのではなく、夢が私に何を夢見るのか。
することが夢でもなることが夢でももちろんいい。しかし、夢が見る夢を叶えること、叶えようとすること、それが夢であってもいいだろう。そしてそれは、終わらない夢である。

・追補
詩について、読み手にとっても承認というのは必要になってくる。純粋に自分の感性だけどその詩をよいか判断したり、何を読むべきかを判断できるだろうか。だからこそ批評空間は大切なのではないか。また賞というものの信頼性は大切なのだろう。「詩が何を期待しているか」ということは読み手にも言えることだろう。

何かになるということに基準が必要なものもある。医者がまさしくそうだろう。医者は免許を持っていなければならない。それは医療ができることを証明する為に必要だ。病気になったとき、誰が適切な医療をしているのか、個人で判断することはほぼ不可能だろう。噂では頼りがない。例えば部族のような小集団でも部族内で医者を決めるだろう(承認)。信頼ができる制度が必要だ。私はその制度の力を借りて他者を医者と判断し、医療を受ける。
しかし、こういう問いもあるはずだ。免許さえ持っていれば医者と呼べるのか?
もしあなたが心を病んでいたとして、薬を出すだけで全然癒してくれない医者と、親身になって話を聞いてくたり、助けてくれたりして癒してくれる友達、あなたにとってどちらが医者と言えるだろうか。本当に人を助ける、救うということはどういうことかという問いもある。

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