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親密は愛に先立つ

僕は以前、人の関係や情(好意)が、友達/恋人、友情/恋愛感情の二元論で語られることへの問題提起をした。*1

最近では、映画『CLOSE』を観て、監督のルーカス・ドンのインタビューを読み、僕が考えていることと重なるところがあると思い、そのことについて『CLOSE』の感想記事に書いた。*2

この記事では、友達/恋人、友情/恋愛感情の二元論について、最近考えていることを、「親密」という言葉も加えて書いてみる。

親密は愛に先立つ

「ヘテロノーマティヴで家父長的なシステムは、親密な者同士を必ず性的に見るよう植えつけるものです。だから、そのまなざしを解体したかった。自分にとって大事なのは、名前のない愛を見せることでした」

Esquire 映画『CLOSE/クロース』カンヌ映画祭グランプリ受賞監督

ルーカス・ドンに児玉美月が迫る*3

これは『CLOSE』の感想記事でも引用した、ルーカス・ドン監督のインタビューでの発言だ。
ルーカス・ドン監督の言うことは正しいと思う。例えば手を繋いでいる2人を見れば、ほとんどの人はその2人のことを、恋人やパートナーと思ってしまう。一般的に親密だということは、即ち恋愛的な関係であるとされてしまう。ただ親密な2人として見ることは難しいだろう。
それはなぜかといえば、思考が規定されているからだと考える。つまり、人の関係を、友達か恋人かの二元論以外で思考することが難しいということだ。

情(好意)についても同じことがいえる。誰かに好意を抱いたとき、友情か恋愛感情以外で考えることはできるだろうか。これは恋なのか?恋ではないのか?と考えてしまうだろう。しかし、好意はもっと多様で繊細ではないだろうか?友情か恋愛感情の2つだけで分けることは、あまりに好意を抽象化し過ぎているとも思える。

例えば、あの人のことが頭から離れないとか、独り占めしたいとか、ずっと側にいたいなどと思ったり、どんなに好きだと感じたとしても、恋人やパートナーのような関係だったとしても、それを恋や愛としなくてもいい。恋や愛と呼ばなくてもいい。僕はそう思う。
一般的に考えれば恋や愛とされるとしても、恋や愛とすることに違和感があったり、納得できなければ、恋や愛としなくてもいいということだ。
恋や愛、または友情でもない情があるはずだ。そして、恋や愛や友情ではなく、ただ親密であることだってあるはずだ。

ルーカス・ドン監督は「名前のない愛」と言っていたが、僕はよりラディカルに、「名前のない親密」と言いたい。または、サルトルの「実存は本質に先立つ」のように、「親密は愛に先立つ」とも言えるのではないだろうか。
このことには、親密はなにも付与されずに、ただ親密として存在する可能性があるだろう。

クワロマンティックについて

最後に、クワロマンティックについて考えてみる。
クワロマンティックは、先に述べた「名前のない親密」と、繋がりが深いのではないかと考えられるセクシュアリティだ。まずはクワロンマンティックとはなにかについて確認しよう。

クワロマンティックは「自分が他者にいだく好意が恋愛感情か友情か判断できない/しない」ことと定義される。相手に好意を感じているけれど、それが恋愛感情なのか友情なのか区別がつかない(区別したくない)、恋人になりたいのか親しい友人になりたいのか分からない(決めたくない)というものだ。

NOISE ライター投稿型 LGBT情報発信サイト 「クワロマンティック」とは何か? 恋愛感情と友情を区別しない①
Writer/きのコ*4

僕はクワロマンティックが、自分のセクシュアリティとして腑に落ちるような気もした。しかし、アイデンティティなのか傾向としてあるのかが分からなかった。だけど最近、僕にとってのクワロマンティックが形になってきたと感じている。それはイデオロギーでもあり、アイデンティティでもあるようなものだ。

クワロマンティックは友情か恋愛感情にとらわれるものではなく、友情/恋愛感情の二元論の外を開くものであって欲しいと願っている。これはイデオロギー的だろう(ただし、他者に抱く情が、必ずしも二元論の外でなくてはならないということではない。それは関係においても同じだ。他者との関係が、必ずしも友達や恋人とは違う関係でなくてはならいということではない。あくまでも、とらわれず、開くものだ)。
そして、確かに僕は自分が他者にいだく好意を、恋や愛や友情とすることに違和感がある。これはアイデンティティ的かもしれない。アイデンティティであるならば、恋や愛や友情ではない情、または恋や愛や友情ではない親密について、それらに向き合わざるを得ず、思考し続けざるを得ないだろう。


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